第1話 あの笛を鳴らすのはどなた

 とある日の放課後、俺は自宅からそう離れていない小さな公園にいた。

 別に、この公園に用事があるわけじゃない。

 ただ、ここを突っ切っていった方が、ちょっとだけ近道できるのだ。

 寂れた公園だった。

 夕方に差し掛かる前という、近所のこどもたちが遊んでいてもおかしくない時間帯のはずなのに、人っ子一人いないように見えた。

 そんな時、どこからともなく、笛の音が聞こえてきた。

 聞き覚えがあってどこか懐かしいこの音は……リコーダー?

 音は、ベンチの方向から聞こえてきた。

 ベンチは無人ではなく、「女の人」が腰掛けていた。

 俺と同じ歳か……ひょっとしたら、ちょっと上かもしれない。

 長い黒髪に、白い肌。長い手足。

 それでいて、目立つ胸。

 華奢すぎず、ごつすぎず、均整の取れた体つきをしている。

 とにかく、はっとするような美人が、そこにいた。

 でも……なんでリコーダーなんか吹いてるんだ?

 見た感じ、ソプラノリコーダーだ。

 小学校を卒業した時点でとっくに用済みなアイテムだろ。

 しかも、さっきからちょいちょい不協和音が飛び出していて、その腕前はお世辞にも上手いとは言えない。

 音楽系の部活やサークルに所属していて、そこでリコーダー担当をしている……というわけでもなさそうだ。

 美女の見た目につられてもう何度もチラ見してしまっている。

 キモい変態扱いとして白い目を向けられる前に、さっさと通り過ぎようとすると……。


「……ぐすっ」


 驚愕の事態。

 チラ見を抑えられなくなるくらい綺麗な女の人が、小さな笛を握りしめて、べそをかいていた。


「ピーッ!」


 美女は目に涙を浮かべたまま、リコーダーを吹き、からかすれた音を鳴らした。

 わけがわからない。

 なんだか心底面倒な気配がして、そのまま突っ切ろうとするのだが。


「ビピヒーッ!」


 わざと雑に鳴らしたのであろう断末魔の叫びみたいな笛の音に耐えきれず。


「……あの、どうかしたんですか?」


 ついつい、声をかけてしまった。

 だって、どう考えても、気づいてほしそうに笛を鳴らしていたからな。

 美女の見た目に釣られてしまったというのも、ある。


「な、なんでもない……ですけど」


 だというのに、美女は、俺が声をかけた途端にそっぽを向いた。

 洗練された見た目のわりに、声は妙に舌っ足らずで幼い。

 不協和音で耳がヤられていたせいで、そう聞こえたのだろう。

 一度声をかけてしまった手前、はいそうですか、と無視するわけにもいかない。


「あの……」


 つれない美女を相手に、なおも声をかけようとするのだが。


「し、知らない人と話したらダメっておかーさんが言ってたので……」


 こどもか、と、美女にツッコミそうになった。


「こどもか」


 ていうかツッコんでた。

 しまった。相手は、俺より歳上かもしれないし、そうじゃなくても、初対面でこの馴れ馴れしさはありえない。

 美女は一度、「あなただって……」と、聞こえそうな言葉を言いかけ、首をひねり、結局こう言った。


「聖奈、まだこどもですから」


 美女は自らをこどもと称する。

 まあ、こどもと大人の境目なんて色んな事情が混ざり合って曖昧だから、この長身美女のなかでは自分はまだこどもって認識なんだろうな。案外謙虚らしい。胸の主張は強いのに。

 そしてこの美女の下の名前は、「セナ」というようだ。


「もしかして、そのリコーダー、上手く吹けなくて困ってるんじゃないですか?」


 どうもこの美女は、見た目ほどにはしっかりしていない気がして、俺は助け舟を出してしまった。

 よく見ると、スカートから伸びたセナさんの膝の上には、譜面が書かれた冊子が乗っていた。


「そ、そうなんです! 発表会まで時間なくて……困ってたんですけど、ぜんぜん上手く吹けないんです」


 よほど切羽つまっているのだろう。

『知らない人と話しちゃいけない』という謎の戒律を破ってまで食いついてきた。

 それにしても、発表会か。

 こどもの前で披露しないといけないイベントでもあるのかもな。

 たぶんこの美女は、帰国子女かなにかなのだ。

 日本の義務教育を経験していないから、リコーダーを吹くことなく成長し、それで今になって演奏の機会がやってきてしまい、こうして困っているわけだ。

 ていうかなんでこの国はリコーダーの習得を義務にしているんだ?


「別に急ぐ用事もないんで、俺でよければ、練習に付き合いますけど。一応、経験者なんで、多少は教えられると思います」

「ええっ、ほんとですか!?」


 俺を見上げるセナさんの瞳に宇宙が生まれた。

 その無邪気な反応に、今まで感じていた細かい不信感が消えた。

 美人の魅力に惑わされるなんて、俺ったら案外オスらしいところがあるんだ。

 俺は早速、美女の隣に腰掛けることにする。

 もちろん、人間一人分の隙間は開ける。これはマナーだ。

 なんか、砂糖菓子みたいな甘い匂いがする。

 間近で見ると、美女は思ったよりずっと幼い顔つきをしていた。

 肌ももちもちしていて、水分が豊かで、油断すると指先でつんつんしたくなってしまう。

 美女じゃなくて、美少女だ。

 長身の美少女である。

 ……長身の女は、苦手なんだよなぁ。

 俺の低身長コンプレックスを刺激されてしまうから。

 とはいえセナさんは、なんだかふんわりした癒やし系の雰囲気があって、変にカリカリしてしまうことはなかった。

 リコーダーなんて中学校で卒業したけれど、セナさんが吹きたがっている『エーデルワイス』くらいなら、今でもソラで吹けるくらい覚えている。


「じゃあ、試しにちょっと吹いてみてくれませんか?」

「は、はいっ」


 セナさんは、ちんまいリコーダーの先っぽに、やんわりと唇をつける。

 なんだか扇情的である。

 邪なことを考える俺に気づくことなく、セナさんは演奏を始めた。

 セナさんの隣でじっと観察していて、気づいたことがあった。


「運指は悪くないけど、ちょっと吹く息強めなんじゃないですかね?」


 遠い空の向こうまで響かせるがごとく、セナさんは強く息を吹き込む時がある。

 時折不協和音が混ざるのは、そのせいかもしれない。


「ご、ごめんなさい、聖奈、すぐ緊張しちゃうんですよぉ。力の加減ができなくなっちゃって」

「技術的なものじゃなくて、精神的なものってわけですか」

「だからこうして、知らない人に見られてそうな場所で練習してたんですけど……」


 セナさんなりに工夫して頑張っていたらしい。

 せっかく優れた実力を持っていても、あがり症のせいで本来の実力を発揮できずに終わる、なんて話はよく聞く。

 手のひらに「人」の字を書いて飲み込め、だとか、観客を野菜だと思えだとか、緊張状態を克服するおまじないはいくるかあるけれど。

 相手はこどもじゃない。

 俺と同い年か、歳上の女の人だ。

 子供だましは……通用しない。


「わかりました。俺に考えがあります」


 そうなると、荒療治しかないわけで。


「俺の前で、吹いてみてください」


 俺は、セナさんのすぐ目の前で仁王立ちをする。


「すぐ目の前に観客がいる状況に慣れてしまうんです。そうすれば、本番でも失敗しません。本番でだって、これほど近くに人がいてプレッシャーがかかる状況はありえませんからね。これに慣れれば、本番も余裕ですよ」

「た、たしかにそうかも……」


 セナさんは、この時点でもう顔に緊張が現れていた。

 それでも、何度も場数を踏むしかない。


「じゃ、一度通しで吹いてみましょう」

「はいっ!」


 結局、どうにかカタチになったのは、ちょうど夕焼け空になるあたりから始めて、日が暮れる頃になるまで。

 リコーダーから、耳障りのいい音が安定して流れるようになった時、俺は言った。


「――じゃあ、今日はこの辺で。だいぶよくなったと思いますよ」


 この公園は住宅街のど真ん中にある。あんまりぴーぴー吹きすぎていると住人の誰かに怒られてしまうかもしれない。

 そして俺も、慣れないことをしたせいで疲労がある。


「あ、あのっ、今日はありがとうございましたっ!」


 立ち上がり、鹿威しのように勢いよく頭を下げるセナさん。

 緊張に慣れる練習で見下ろす姿勢になっていた時にも思ったけど……この人、黒ニットの服を着ているから胸の膨らみが目立ってしょうがないんだよな。上半身を倒すとすぐ胸が重力に負ける。変な気分になるといけなからあまり見ないように気をつけないと。

 いったいどこまでチートなのだろう。少なくとも容姿じゃ、欠点なんてない。


「ああ、別に今日は用事もなかったんで」


 用事がないのは事実だし、ほんの少しの時間だろうと美少女と関われた役得もある。

 まあ、単にリコーダーを教えただけ、ってことに引っかかりは感じるけれど。

 セナさんは、両の指先を合わせてもじもじしながら俺を見上げると。


「あの、変なこと聞いちゃいますけど」

「いいですけど、なんですか?」

「リコーダーの先生さんは、何年生なんですか?」

「俺? 一年っすけど」

「ええっ、一年生? えー、うそですよー、そんな大人っぽい一年生なんていません」


 セナさんから出てきた、大人っぽい、というフレーズ。

 それは、背が低いことに対するコンプ持ちの俺をちょっとばかし調子に乗せた。

 セナさん視点では、俺が気にしているよりも背の低い男に見えていないのかもしれない。

 ひょっとしたら、小柄と思っているのは、俺と周囲の連中だけで、偶然俺の学校の身長基準がおかしいだけに過ぎない可能性もある。


「いやー、でも高校じゃ俺、すごく小さい方なんですよねー」


 などと、自虐を口にする心の余裕が生まれていた。


「こ、高校?」

「はい。俺、高校一年生ですけど?」

「高校一年……生……!?」


 なん……だと……? みたいなノリで驚愕し、顔が青ざめるセナさん。

 慣れてきたのか、表情豊かだな。

 いや、そこじゃなくて、これはちょっと引っかかりを感じるぞ。

 まるで、俺が高校生だったらマズいみたいな感じだ。

 セナさんは、引きつった笑顔で、こう問いかけてくる。


「小学生の、一年生じゃなくて……ですか?」

「高 校 生 で す け ど 何 か ?」


 小学生扱いされて、俺は多少心の余裕をなくしていた。

 こめかみの血管がピクッとしたのを感じる。


「もしかして、そのズボンって高校の制服の……?」


 セナさんは、俺の態度の変化に気づいたのか、あわあわし始めるのだが、質問をぶっこんでくることをやめない。


「そうですが?」


 俺は制服姿で、この場にいた。

 ただ、小柄な体を隠したくてパーカーを常時着用しているものだから、中のブレザーはセナさんには見えなくて、制服だとわからなかったのだろう。


「こ、高校生……」


 さっきまで顔を青くしていたと思ったら、今度は顔を真っ赤にする。

 なんだこりゃ。マズくない?


「まさか……男子ですか?」

「まさかじゃなくても男子です」


 セナさんはまたも俺のセンシティブな事情を刺激してくる。


「せ、聖奈は六年生のボーイッシュな先輩にリコーダー教えてもらってると思ったら……相手はなんとなんとの男子高校生……とっても大人な……しかも男子……はふん」


 セナさんはとうとうベンチに倒れ込んでしまい、体がしびれているみたいにピクピクと痙攣し始めた。

 ちょっ、鼻血出てんじゃねーか。

 それよりも聞き捨てならないフレーズを耳にしたぞ。

 どうやらセナさん、俺を小学六年生と勘違いしていたらしい。

 失礼極まりない話だ。

 こんな失礼千万な女、このままベンチに放置しちゃおうかな。

 なんて残虐行為が頭をよぎるのだが、倒れた拍子に、セナさんの膝に乗っていた小冊子がパタリと地面に落ちた。

 今までずっと開かれっぱなしで、見ることのできなかった表紙。

『リコーダー楽曲集初級編』と題されたその小冊子の下の方には、『おなまえ』という欄があって。

 そこには、『富士田聖奈』という、彼女の本名と一緒に。

『五年三組』と……どうやら聖奈さんが在籍しているらしいクラスが記されていた。

 あれ? ってことは。


 この子……ひょっとして……この見た目で小学生?

  

 いや、まさか。

  

 信じがたい気持ちになりながら、動揺を抑えつつ、ひとまず俺は、気を失ったままの富士田聖奈ちゃん(ひょっとしたら十一歳)を介抱し始めるのだった。

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