第34話 天使の梯子

 長い、長い夢を見ていた。

 建物も何も、空を遮るものがない、お花畑で、銀色の髪をした女の子と遊ぶ夢を。

 年不相応にはしゃいで、走り回って、一緒に遊ぶ彼女の姿は、とても楽しそうで。

 僕もつられて、楽しくなって。

 けど、楽しい時間は永遠には続いてくれなくて。

 まるで、シンデレラの魔法が溶けてしまうように、日が沈む頃になると、銀色の髪の少女は猫になってしまう。


 え、ど、どうしたの? どこに行くの?


 問いかけても彼女は返事をしてくれない。何も言わないまま、小さな川を飛び越えて行ってしまう。


 ど、どこに行くんだよ! ねえ!


 まだ、僕は君と遊んでいたい。一緒にいたい。それなのに。

 猫の姿になった君は、切なげな鳴き声ひとつあげて、遠い遠い地平線の彼方へとその姿を消していった。


 ねえ! 待ってよ! 僕を、僕をひとりにしないでよ……!


 彼女に向かう叫びは、届くはずもなく。そして。


 夢のような時間は終わった。


「……ん……僕……何を……」

 目が覚めると、見慣れた部屋の天井が真っ先に視界に映った。いつか味わった倦怠感とともに、猛烈な体の節々の痛みに出迎えられる。

「いっ……」

「あっ……気がついた……! 気がついた……! よかったあぁ……」

 そして、枕元にいるのは、つい最近喧嘩をしたはずの米里さんだ。その顔は、どこか腫れぼったく見える。

「ど、どうして米里さんが僕の部屋に……」

「どうしてじゃないよ! 北郷君、熱出して家のなかで倒れてたんだからね!」

「……え? 僕……倒れていたの?」

 そういえば、真白を家に連れて帰ってからの記憶がなにひとつ残っていない。今日が何日なのかすら、僕はわかっていない。

「そうだよ! あの……いつかかばんのなかに入れていた猫が私に知らせたからよかったものの、下手したら死んでたよ! 北郷君!」

「ね、猫……? そ、それって真っ白な毛をしていた?」

「そ、そうだけど、それがどうかしたの?」

 いきなり体を起こして、真白のことを尋ねたものだから、米里さんは不審そうに怪訝な目を僕に向ける。

「え……で、その猫は? どうしたの?」

「どうしたって……北郷君のこと知らせたら、家を出てどこかに行っちゃったけど……」

「そんなっ! どこかに……行ったって……!」

 どこに行こうって言うんだ。真白。真白の家は、ここにあるじゃないか。一体どうして。

「さっ、探さなきゃ……!」

 ベッドを起き上がって言った僕を見て、米里さんは慌てて僕のことをベッドに押さえつける。それに抵抗できないくらい、僕の体は弱っていたんだ。

「駄目だって! まだ熱はあるんだから、安静にしてないと!」

 見れば、周りにはタオルとか氷枕とか、色々なものが置かれている。……もしかして、これ米里さんがやってくれたの……?

「……ど、どうして」

「え?」

「どうして……ここまで」

 力ない声で、僕は尋ねる。すると、彼女は特徴的な垂れ目を優しく、小さく緩め微笑んでは、

「決まってるでしょ。困っている人を見たら、助けるのが道理でしょ?」

 そう、答えた。

 ……変わらない。やっぱり、彼女は彼女のままの、気遣い屋さんだ。

 そして、僕の部屋の、庭先と繋がっている窓に、一匹の猫がスタスタと歩いてきた。

「……真白」

 その猫は、散々見て来た名前通りの真っ白な毛色で、少し垂れている耳に、ふるふると揺れている尻尾まで、見間違いようがない。

「あ、そうそうこの子だよ、私に知らせたの」

 真白は、ちょこんと庭に座っては、空っぽの小皿に手を置いて、

「ニャー」

 と鳴いた。

「……え? ま、真白……?」

 それは、野良猫としての真白の動きと、全く同じだったのだから。さらに。

 いつか見た、奇跡みたいな光景が、再び狭い僕の庭に描かれ始める。

「……薄明はくめい光線こうせん

 別名、天使の梯子。

 雲の切れ間から差し込む光線が、幻想的な光景を描いている。

 僕は、全てを察した。

「……ぁぁ……ああ……」

 もう、恩返しが終わったんだということを。

「え? ちょっと、どうしたの北郷君、急に泣き始めてっ。え? そんなに辛かったの? 北郷君──?」

 祖父が亡くなったときですら零れなかった涙が、このときばかりは止まることをなかなかしてくれなかった。

 だって、家にはまだ、真白のためにたくさん買いだめておいたパックの切り餅に、安いイチゴのアイス、いつかまた作ってあげようと思っていた石狩鍋用の鮭に、脱衣所には真白お気に入りのくしがある。

 まだ……まだ……一緒にいたかった……!

「……ぁぁぁ……なんで……どうして……」

 この世界には、失いたくないものばかり、早く失くしてしまうんだ。

 家族も、時間も、これからも。

「なんでなんだよぉ……!」

 今まで泣かなかった分が、全部出たのではないか、そう思うくらい、僕は泣き続けた。

 涙が枯れたのは、それから何時間か経った頃だった。


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