第33話 真白の恩返し

 〇


 迂闊でした。私は本当に迂闊でした。

 自分がどういう立場なのかもわからずに、猫になって優太さんの家を飛び出して。

 優太さんと口論になって、カッとなった私は川に向かいました。あそこなら、夜を明かすことができる草陰も、食料となるものもあることは野良猫の経験からわかっていたので。

 私の経験は正しかったです。雪こそ積もっているものの、十分温かいちょうどいい草陰を見つけました。これで寝床には困りません。

 そう、思ってました。

 でも……縄張りを同じにする野良猫の集団に囲まれたとき、私は思いだしました。

 ……私は、行き過ぎてはいけない優太さんの家に住み着いてしまった猫だ、ということを。恐らく猫の私が優太さんの家に入る姿を野良猫の誰かが発見したのでしょう。

 野良猫にとって、人の家の敷居を跨ぐことは意味を持ちます。とても、とても、強烈な意味を。

 そんな場面を目撃したら、他の猫たちが私のことをよく思うはずはありません。

 だからでしょう。私は敵意たっぷりの猫の集団に襲われて、川に落ちました。

 落ちた瞬間、「あ、私死ぬんだ」、そう思いました。天使にも寿命はあります。それは、宿っている生き物の種類の寿命に依存します。人なら人として死ぬまで、鳥なら鳥として天寿を全うするまで、猫なら、猫として終わりを迎えるまで。

 それは、病気、事故を問いません。いきなり車に轢かれて命を終える天使だってなかには存在します。

 私もきっと、川で溺れて、まだ恩返しすら終わっていないのに、まだ何も成し遂げてないのに、死んでしまうんだって。

 優太さんとの最後が……喧嘩になるなんて、思いもしまいませんでした。

 覚悟を決めて、水に沈むことを受け入れようとしたとき。

「真白!」

 覚えのある声が聞こえるではないですか。……ああ、とうとう私、後悔のあまり幻聴まで聞こえるようになったか、そう感じます。

 ですが、それは幻聴などではありませんでした。

「真白!」

 確かに聞こえた声のほうを、沈みゆく体を振って向くと、必死の形相で私に手を差し伸べる優太さんがいました。

 さっき、優しくしないでと言われたにも関わらず、また、彼は私のことを助けてくれる。

 それに気づくと、途端に心がポカポカし始めます。

 やっぱり……あなたは優しい人です。

 一体どれだけの恩を私に売れば、気が済むのでしょう。……いや、優太さんのことだから、きっとそんなつもりはないのでしょうが。

 すぐに私は地上へと引き上げられ、優太さんに抱きかかえられたまま家へと連れ戻されます。助かったとはいえ、水に落ちて体は冷えていました。あのままいたら、遅かれ早かれ危なかったでしょう。それをわかった上で、優太さんは急いで家へと向かったのだと思います。

 それは、家に入ってからの行動を見れば明らかです。ドライヤーを当てて、体をタオルで拭いて、くるんで。まさしく体温を維持するためのそれです。

 そして、ひと通りのことが済むと、魂が抜けてしまったように優太さんは眠り始めました。私も、それにつられて、意識を深い眠りに沈めます。家が暖かかったのもあると思います。


 でも、異変に気がついたのは翌朝、目覚めてからのことでした。

 まず、自分が猫なままのこと。今まで、どんなに自由に操れなくても、半日以上人と猫の姿が行き来しなかったことはありません。でも、そんなことはどうでもよいことでした。

 優太さんは、まだ目覚めていませんでした。

 窓の外から差し込む光の明るさ、リビングにある時計を見ても、もう起きなければ学校に間に合わない時間です。

 なのに、まだ優太さんは起きていない。

 その時点で、私は気づきました。

 ……もしかして、寝ているのではなく、倒れているのではないか、と。

 見る限り、服は昨日の学校帰りのままです。川に飛び込んだ格好のまま着替えずに寝てしまえば、当たり前ですが体は冷えます。それに、あんなになってまで必死になっていれば、体力だって尽きているはずです。

 私はすぐに優太さんの顔の近くに歩いて、額を手で触ってみます。

「……ニャ⁉」

 それは、猫の私が驚いてしまうほどの熱さでした。そして、確信します。

 眠っているのではない。

 倒れたんだ、と。

 初めて人の姿になったときと同じように、優太さんは恐らく風邪を引いています。……最初と違うことがあるとするなら、私は今、猫の姿であること。

 猫ができることなんて、たかが知れています。

 私は優太さんの顔を舐めながら、何度も何度も鳴き声をあげては起こそうとしました。このままでは、風邪はさらにひどくなってしまう。着替えるなり、布団に入るなり、薬を飲むなりの処置をしないと。

 私が人だったら、こんなことすぐに、しかも簡単にできるのに。それなのに。

 どんなに願っても、祈っても、人の姿になってくれません。たった一分でもいい。一分あれば、外に出て誰かに助けを呼べます。

 だけど、私の祈りとは裏腹に、事態はまったく良くなりません。寧ろ悪化していると言っていいでしょう。人にはなれないし、一日経過したことで優太さんの顔色は少しずつ悪くなっていきます。

「ニャー! ニャー! ニャー!」

 どれだけ言葉を尽くしても、猫のものじゃ優太さんには届かない。助けたい人はすぐ側にいるのに、何もできない。そんなもどかしさが私を焦らせます。

 そして、二度目の朝を迎えました。変わらず優太さんは起きないままです。恐らく、学校も冬休みに入っているので、誰も優太さんが倒れていることに気づけないんです。……この近所の学校は、クリスマスが終わるとすぐに長い長い冬休みに入るのだから。……三週間程度の、長い冬休みに。

 ……もし、このまま優太さんが目覚めずに、私も人間の姿に戻れなかったら。

 そう思うと……私はますます必死に声を枯らします。でも、やっぱり猫の私じゃ……助けることができない。

 一体どうしたら……どうしたら助けを呼べるのでしょうか。

 ふと、私は一昨日見たお隣さんのことを思いだします。そして、あるひとつの可能性に行きつきます。

 ……お隣さんと私は、一度猫の姿でお会いしています。つまり、お隣さんは私を優太さんの知り合いの猫だと認識しているはずです。

 もし、お隣さんに助けを呼べたなら……。

 私は、空いた庭先の窓を見て、外に出るルートが残っていることを確認します。

 ……もう、なりふり構っていられません。急がないと、早くしないと……!

 意を決した私は、優太さんの家から、お隣さんの家の敷地へと入り込みます。優太さんの家よりもちょっと広い庭に出ると、お隣さんの部屋らしき窓が目の前に映ります。

 ……ここだ! ここでお隣さんに気づいてもらえれば……!

「ニャー! ニャー!」

 窓を何度も何度も叩いて、存在を訴えます。ここで気づいてもらえなければ、何もすることができません。

 お願い……! 気づいて……!

 祈りが通じたのか、眠そうに目をこすったお隣さんが出てきて、窓を開けてくれます。

「んん……何……? あれ……この子、北郷君と一緒にいた猫じゃ……」

「ニャー!」

 今がチャンスとばかりに、失礼ながらもお隣さんの家に入ります。

「えっ、ちょっとっ! だめだって……!」

 お隣さんは部屋に入った私を捕まえようとしてきます。でも、ここで捕まるわけにはいきません、何か……何か……! 女の子らしい可愛らしくできた部屋のなかを逃げ回っていると。

 机の上に、あるお守りが置かれているのを見つけました。

 あれは……! お隣さんが修学旅行で優太さんと一緒に買っていたお守り……!

 私の判断は一瞬でした。赤いお守り目掛けてジャンプして、それを咥えます。そして、優太さんの家目掛けて走り始めます。

「えっ、あっ、ちょっと!」

 窓から逃げ出した私を追うように、お隣さんは外に出てくれました。狙い通りです。あとは……なんとか優太さんの家に入って気づいてもらえたら……!

 庭から庭に走り、再び開いた窓から優太さんの家に入ります。

「……もう、北郷君の家に逃げてどうしたの……え?」

 私は、倒れている彼を見つけている彼女に叫びます。

「……ニャー! ニャー!」

「ちょ、ちょっと北郷君? どうしたの? そんなところに倒れて……! って熱っつい! 大丈夫? ねえ!」

 体を揺する彼女の姿を見て、私は安心しました。

 ……ああ、これでもう大丈夫だ、って。これで……優太さんはもう助かるんだって……。

 どこか心が痛む気もしましたが、気にしていられません。こうしないと、こうじゃないと駄目なんです。

 ……それが、一番なんですから。


 だって……私の願いは、優太さんがひとりじゃなくなることだったんだから。


 〇


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