第32話 清水の舞台から飛び降りる
どこだ……どこに行った。猫なのを活かして路地裏や他所の家の庭に入り込んでいたらもう僕には探しようがなくなる。そして、そんなところで人間に戻ろうものなら……間違いなく、終わってしまう。
しかし、あり得ない話ではない。彼女は今、自由を失っているんだ。早く、早く見つけないと……!
冬道を走ることはやっぱり変わらず下手くそなままで、何度も何度も転んではまた走って真白のことを探し回った。学校の近く、ショッピングセンター、家の近所の公園、スーパー、その他色々だ。
途中すれ違う人には奇異なものを見るような目を向けられる。まあ、息を切らせて、顔を真っ赤にした男が冬道をコケながら走り回っていたら悪目立ちもするだろう。学校周りのときはきっとクラスの誰かに目撃もされているはず。もしかしたら変な噂もたってしまうかもしれない。……でも、そんなことを気にしている場合ではない。一刻を争う事態なんだ。
「くそ……やっぱり見つからない……。どこに行ったんだ」
野良猫の行動範囲はそんなに広くないはず。だから遠いところへは行けない。今まで真白が行ったことがある僕の家から最も遠い施設は学校だ。その外円より遠い場所には行かないはず。
どこだ……あと真白が行きそうな場所は……!
頭の回線を巡らせて、必死に彼女がいる場所の見当を立てようとする。すると、
「……雪?」
ちらほらと、札幌の夕空に空からの手紙が降り始めた。広げた手のひらの上に、ひらりふわり粉雪が舞い散っては、姿を消していく。
さらについていないのか、雪はその脚を少しずつ強くしていっている。
「嘘だろ……今日大雪なんて予報出てた?」
皮肉にも、空景色はゆっくりと灰色に染まっていく。沈みかけの空が、暗くなる最後の時間。あと少しで、日没だ。
「真白を隠すなら白のなか……ってか」
ふと思いついた自虐が、しかし僕にひとつの場所を示す。
「……川?」
僕と真白が、初めて会った地点。あそこは川べりに木々が生い茂っていて、今は冬だけど、身を隠すには格好のスポット、恐らく食べられるものも困らない……。
「……もしかしてっ!」
一縷の望みを託して、僕は家の近くを流れる川に向かって再び足を回し始めた。
十五分くらい経ったころだろうか。空の模様はたったこれだけの時間で視界を曇らせ、遠くのものが霞んで見えてしまう。
「……これじゃあ、探しにくい……」
川にいる保証なんてない。でも、ここじゃないならもう僕に真白を探すことはできない。見つけられなかったならば、そのうち自由が効かない真白の姿が人間に切り替わって、誰かに見つかってアウトだ。
そんなことになったら、下手をすると二度と真白は僕の家に戻ってこれないかもしれない。いや、そうだろう。警察に保護なんかされてみろ、あっという間に化けの皮が剥がれる。名字もない、住所もない。挙句の果てには戸籍もない。人間の姿のまま家に帰ることなんて絶対に不可能だ。仮に猫の姿になって逃げだそうとしたとしても、それはそれで他人の前で超常現象を起こしたことになり、騒ぎになるに決まっている。
「真白! いるなら返事してくれ! 早く家に戻ろう!」
草の根をかき分けるのではなく、降りつける雪を振り払うように川べりを進んでいく。
……こんなことになるんだったら、早く真白の気持ちに気づいてあげるべきだった。少なからず、異変に気がついたときになあなあにしないで話を聞くべきだった。
そうしていれば、真白はあんな形で自分の感情を不器用に爆発なんてさせなかったはずなんだ。
それなのに……僕は。
「真白! どこだ! どこにいるんだよ!」
頭に、まつ毛に、鼻に積もる雪を時折払って、見えない真白の姿を探し続ける。
もう……誰も失いたくない。こんな、不本意な形で失くしたくない。……透明だった、空っぽだった僕に、あんな楽しい時間を与えてくれた彼女を、日常から消したくない。おはようも、おかえりも、魚に目が無くて好きなものは美味しいと言うその姿さえも。
「どこに……いるんだよ!」
色なんてなかった。何もなかった。両手のなかには、守るべきものなんて存在しなかった。そんな僕を変えたのは……、間違いなく彼女だ。
だと言うのに。
「どうして……見つかんねーんだよ……!」
いらないものはすぐに見つかるくせに、どうして大切なものは、こうすぐにいなくなってしまうのだろう。
「どうして……猫一匹、人ひとり見つけることができねーんだよ……!」
日が沈む。川の近くに映える家々の光が、否応にも時間の経過を僕に伝える。
「……無理なのか、所詮、僕は……僕のままなのか……」
やがて、諦めの感情が心の隙間に入り込み始める。散々走り回ったことによる疲れもあるのだろう、足は徐々に、動かなくなっていく。
「もう……駄目、かな……」
川でも見つからないのなら……もう心当たりなんてどこにもない。時間もない。体力もない。
「……真白……」
下を向いて、新雪積もる柔らかい地面に膝をつく。最後に一度、大声で叫んでみる。
「真白おおおおお!」
ニャー。
「……え?」
今、どこかから、猫の鳴き声がした?
「ニャー!」
間違いない、この近くに、猫がいる。
それが真白のものかどうかはわからない。でも……。可能性があるのならば、すがりたかった。
ついた膝を再び上げて、僕は声のしたほうへと歩き始める。どこだ……どこだ……どこだ……!
「ニャー!」「ニャァァ!」「ニャーーァ!」
しかも、一匹じゃない……? 野良猫の集団か?
声の聞こえた木々や草が僅かに顔を出している川のすぐ近くに、顔を覗かせる。そこには。
「……ニ、ニャ……」
野良猫の集団に囲まれている、白猫一匹がいた。
間違いない。大雪で霞んで見えにくいけど、あの純白の毛色に、少し垂れている耳。真白だ。
で、でも一体何が……何が起きている……? 野良猫の集団は、見たところ好意的な態度は取っていない。今にも飛びかかりそうな様子さえしている。
集団は五匹。ジリ、ジリと後ずさる真白を水際に追い込む。後ろ足が川の水に触れたことに気づいた真白は、もう後がないことを悟った。
……次の瞬間。
「ニャアア!」
一匹の猫の叫びとともに、野良猫集団が丸く怯えている真白に飛びかかった。それを避けようとした真白は──
川に転落した。
「ニャ! ニャー!」
冬で雪も積もっていて、そしてそんなに大きい川じゃないから流されることはない。でも、猫にとってそんなのは関係ない。そして、その川は、それなりに水深がある。
ジタバタともがく真白を見て、僕はすぐに決意した。
考える暇もなく、彼女の溺れた川に飛び込んだ。……清水の舞台から飛び降りる覚悟で。
「真白! 真白!」
川の中ほどまで動いてしまったため、少し距離があった。真冬の川は当然だけど極寒で、すぐにズボンに靴に、さらにはコートの裾まで濡らして体を冷やしていく。
そして、今にも沈みそうな真白の体を抱きかかえて、僕はなんとか地上へと引き上げる。野良猫集団とは反対側の地上へ、と。
「はぁ……はぁ……大丈夫かっ!」
胸元にいる彼女に声をかける。その声は、寒さか恐怖か知らないけど、物凄く震えている。
幸い、溺れる寸前だったため息はある。しかし、あんな凍りそうな温度の水に突っ込んで、なおかつ今日の最高気温は氷点下だ。早く温かいところに連れて行かないと、低体温で大変なことになってしまう。
家に、連れてかないと……!
何もかもびしょ濡れなまま、僕は真白を抱きかかえて家へと走り続けた。
意識はなんかふわふわとしだしているし、ズボンは思い切り水を吸って重いし、しばしば道に転ぶしで踏んだり蹴ったりだ。でも、うかうかしていられない。足を引きずるように、とにかく一刻も早く家に帰る、それだけを考えて走り続けた。
まさに這いつくばって、という表現が適切だったと思う。家に入り、まず暖房をつけっぱなしで家を出たことを思いだす。普通なら大悪手だけど、今にしてみれば好都合だ。既に家は温まっている。なら……あとは体を乾かせば……なんとかなるかな……。
脱衣所からバスタオルとドライヤーを持ち出して、濡れた真白の体を拭きはじめる。ドライヤーの温風に当たる彼女の表情は、どこか柔らかい。
よかった、そんな表情できるくらいには……平気そうで……。
ひとしきり体を乾かしたのち、バスタオルに真っ白な彼女を包んで、僅かに涙跡残る畳の上に乗せる。
「よし……これで……もう……大丈夫」
それが最後の仕事だった。体力を使い果たした僕は、そのまま倒れるように……。
意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます