第31話 ──私の願いを、叶え(ないで)てください」」

 結局、その後僕と真白は、買ってきたショートケーキとフルーツタルトを半分こずつして食べた。ストロベリー味のアイスが好きなのよろしく、そのまんまイチゴが乗っかったケーキも真白は美味しそうに口にしていた。

 ただ、クリスマスのことは、自由が効かなくなっていることを聞いた以上、話すことはできなかった。

 ……いいや、米里さんには悪いけど、断ることにしよう……。


 それからも、真白の姿は不安定なままだった。家に帰宅するときに猫になっていることはままあるし、食事中に入れ替わってしまうことも起きるようになった。あるいは、お風呂に入っているときに起こってしまい、真白(猫)の悲鳴を聞いて慌てて浴室に駆け込んだことも。

 人間に戻るたびに、彼女は決まって申し訳なさそうに苦笑いを作って、「ごめんなさい」と言う。

 別に、真白が悪いわけでは……ないだろうに。

 断ることにした米里さんの件も、なかなか言い出すことができなかった。なんとなく、面と向かって断りにくい。

 そうやってずるずると何も解決しないまま、訪れたクリスマス前日の、二十三日。

 帰りのホームルームが終わってすぐに帰ろうとした僕を、米里さんは呼び止める。

「ちょっと……」

 そう言い彼女も荷物を慌ててまとめて、僕を生徒玄関前の下駄箱に連れて行く。

 まだ帰宅する生徒の波押し寄せない一瞬の空間。米里さんは僕に尋ねる。

「結局、明日は大丈夫なの? 行けるの……?」

 少し不安げに聞く彼女の様子は、どこか切実だ。

「えっと……それなんだけど……」

 一瞬答えを言い淀んだ、けど、もうこれ以上回答を保留するわけにはいかない。

「……ごめん、やっぱり行けない」

 僕がそう答えると、米里さんは息を呑んで若干だけど、目を見開いた。すぐにいつもの垂れ目に戻して、斜め下の床を見つめる。

「どうして……?」

 震え声、感情を押し殺すような色で、側に立つクラスメイトはそっと呟いた。

「……家にいないといけない、理由があるから」

 これ以上は言えない。ギリギリのラインだ。真白のことをどうしても言うわけにはいかない。

「最近、さ……。なんかこうやって適当に誤魔化すこと多くなったよね」

 返答に対し、米里さんは落とした調子で僕を追及する。

「……十月末にそこのモールでたまたま会ったときも、それからすぐの時期にスーパーで銀髪の子と一緒にいるのを見つけたときも、その子のバイトを探していたときも、この間の誕生日の誘いをしたときも。……私が気づかないとでも思ってたの?」

 その言葉に、顔が青くなりそうになる。噛みそうになる唇をなんとか我慢して、彼女の続きを待つ。

「……ねえ、本当はあの銀髪の子、ただの友達じゃないんじゃないの?」

「違う」

 その指摘は、秒で否定した。

「……ただの、友達だよ」

 嘘も、誤魔化しも入った否定だった。……普通、同居している人を友達とは呼ばないだろう。そういう意味では嘘だ。

「じゃあ、どうしてっ」

 納得しない、というように食い下がる米里さん。上靴のまま、外靴に履き替えた僕にどんどん至近距離に近づいて来る。

「……僕には、ひとりがお似合いだよ」

 自分に対する皮肉も込めそう吐いて、逃げるように外に出ようとする。

「あっ、ちょっと、まだ終わってないっ!」

 すると、米里さんも靴を履き替えて、僕のことを追う。

「やっぱりっ! 何か隠してるんでしょ、だからっ!」

 今にも雪が降り出しそうな空模様、彼女の顔色も同じように曇って……いて、そして。

「だからっ……」

 今度は押し殺すためではなく、感情が漏れるように声がどんどん震えていく。

「…………」

 僕は、何も言い返すことができなかった。それが、きっと、誤魔化し。

 頭のどこかで、米里さんよりも、真白のことを特別に思ってしまっている。それを、誤魔化したんだ。

 その沈黙で、彼女は諦めたのだろうか。感情と声の震えを極限に振りきって、

「──もういいっ!」

 僕を置いて、先に校門を出て行った。冬道をいともたやすく走っていく彼女の後姿を見て、ああ、やっぱり僕と彼女は「違う」な、とも、思った。


「……ただいま」

 晴れない気持ちのまま、家に帰る。ただ、そこにあるはずの返事がない。

「……真白?」

 人だろうが、猫だろうが真白は僕が帰るとすぐに玄関まで出迎えてくれていた。なのに、今日はそれがない。

 靴はある……から、家にはいるはず。

 中に入ると、和室のふすまが締め切られている。珍しい、寝ているのか? まあ、いい。家にいるならそれで……。部屋に入ろうと、ドアノブに手を差し出したそのときだった。

「……優太さん。……さっき、お隣さんが泣きながら家に帰ってきたんですが……何かあったんですか?」

 半分開いたふすまから、真白が姿を現した。その表情はどこか悲しげで、どこかうつろで。

「なんでそれを……」

「和室にいたら窓から見えたんです。……お隣さんがあんなふうになるなんて、絶対に優太さん絡みに決まってます」

 確信を持って、彼女は僕を問い詰める。というか、いや、泣いている米里さんを見て気になるのはいいよ。どうして怒っているんだ。口を真一文字に結んで、声のトーンを落としたそれはまさに怒り、そのものだ。

「……いや、ただ……」

「ただ?」

「……クリスマスに夜景見に行かないかって誘われたのを断った、それだけ」

 僕がそう答えると、真白は信じられない、というふうに息を呑み、そして──

「どうして」

 ぽつんと、訴えた。

「どうして……断ったんですか……」

 たったそれだけの言葉に、彼女の痛切な思いが込められている。そう感じた。

「お隣さんは優太さんのことを思って誘ったのにっ、実際予定なんてないじゃないですか、どうしてっ!」

「山の展望台に行こうって誘われたんだよ!」

 真白の口調が強くなるにつれて、僕も言葉遣いが荒くなってしまう。普段は鎮まったままの感情が、重しを外されたように動き回っている。

 制服のズボンの裾を掴む手が、強くなる。着たままのコートと、家のなかで充分に効いた暖房のせいか、それとも僕が興奮しているせいか。

 額に汗が浮かび始めているのを自覚した。

「……ただ……クリスマスに真白を家にひとりで放置するのも気が引けるし……」

「私のことなんて気にしなくてよかったのにっ!」

「連れて行くにしても山だったから……! 寒いし、それに……高いところ苦手なのはこの間の清水寺でわかったからだめかなって思って、それで……」

「っ……」

 きっと高いところが苦手なのは図星だったのだろう。勢いよく飛び出していた言葉の矢は一瞬鳴りを潜めて、

「……ずるいです……そんなことされたら……」

 やがて彼女は困ったような笑みを浮かべて、

「期待しちゃうじゃないですか……」

「……え?」

 ポロポロと雫を落とし始めるではないか。足元の畳の薄緑色が、少しずつ、少しずつ濃い緑色に変色していって。

 天使の、涙だった。

「……最近自分がおかしいことは私だってわかってます。自分のことなんで私が一番わかってるんですっ。なのに……なのに……どうして心がモヤモヤするかわかんないですっ! 優太さんがお隣さんと話しているのを見ると、最近キュウって胸が締めつけられるんですっ! こんなのおかしい、こんな気持ち、今まで知ったことないっ!」

「ぁ……そ、それって……」

 嫉妬じゃないか、と言おうとして僕は思いとどまった。

 彼女は天使だ。天使の感情がどのようになっているかは知らない。生態もわからない。どのようにして命を繋ぐのかもわからない。いや、そもそも繋ぐという概念も存在しないのかもしれない。それは、僕には知り得ない。まさに、神のみぞ知るってやつだ。

 ならば、彼女はその感情の名前を知る由もない。わかるはずがないんだ。

 その思考に至ったとき、僕はひとつの仮説を立てた。

 もし、嫉妬やそれに準ずる感情を天使が抱いたとき。

 天使は天使でいられなくなってしまうのではないか、と。

「ま、真白……?」

 五メートル離れた彼女の名前を、不意に呟いた。僕はのろのろと腕を伸ばし、彼女に触れようとするけど、

「触らないでくださいっ! もう、これ以上……私に優しくしないでくださいっ! でないと……でないと……自分がおかしくなりそうで怖いんですっ!」

 それを拒む叫び声がする。瞬間、目の前にもやができて、人だった真白は猫になる。

 これも……意図的ではないんだな。

 真白自身も自分が猫になったことに戸惑っているようで、自分の手や足を見ては辺りを見回している。

「って、おいっ! どこに行くんだよっ!」

 急に走り出したと思えば、なぜか鍵がかかってなかった窓を開けて、そこから外に飛び出していく。

「……野良猫に、エサをあげていたのか」

 どこかに行ってしまった彼女の後ろ姿を見つめつつ、庭の小皿に残っていたカリカリを見て僕は気づく。

「って、そんなことしている場合じゃないっ!」

 追わないと……! 外に出たまま人間に戻ったら大惨事だ!

 幸いコートは着たままだったので、僕は靴を履いて家から追いすがるように出ていった。

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