第30話 手のひらに溶ける

「……いただきます」

 僕は立ち上がって、大皿を持ち出してバスケットの中身を出す。すると、今までは布で覆われていて気づかなかっただけか、香ばしいバターの香りが家のなかを満たし始めた。

「……紅茶かコーヒーか淹れようと思うけど、どっちがいい?」

「えっ、そんないいよいいよお構いなく」

「でも、何か飲むものあったほうがいいでしょ?」

「それなら……コーヒーで」

「わかった。苦さは?」

「ブラックでいいよ」

「…………」

 一瞬、納戸にしまっていたインスタントコーヒーをガサゴソとしているうちに僕は黙り込んでしまう。

「どうかしたの?」

「……いや、大人だなあって」

「そういえば、叔母さんのカフェ行ったとき、コーヒーにミルク入れていたね。ブラックだめなんだ」

「……いいでしょ、別に」

「うん、そうだね」

 なんでもないようにリビングの椅子に座る彼女は、ちょっとだけ可笑しい、というように笑ってみせる。

「ほんと、最近変わったね……北郷君。今までならこんな会話絶対しなかったでしょ」

 コーヒーメーカーに粉と水を入れて、出来上がりを待つ。少しずつ、クッキーの甘い香りと混ざり合うように、ほのかに苦い香りが鼻につくようになってきた。

「……よく言われるよ、この頃」

川下かわしも君にでしょ? 修学旅行で同じ班になってからちょくちょく話してるよね。まあ、そういうところも込み込みでだけど」

 出来上がったコーヒーをカップにそれぞれ注ぐ。僕の分には冷蔵庫から牛乳を少しだけ混ぜて、苦みを緩和させた。

 リビングに戻って、椅子につく。彼女の目の前にグラスを置き、

「それじゃ……早速だけど、いただきます」

 僕は米里さんが作ったというクッキーをひとつ口に放り込んだ。作った米里さんは少し緊張の表情を浮かべたけど、すぐに僕が「……ん、美味しいこれ」と言ったのを聞くと固めた顔色を和らげてホッとしたようにコーヒーを口に含んだ。

「よかった、そう言ってもらえると作った甲斐があるよ」

 彼女も続いて星型に象ったそれを食べて、「うん、よくできてる」と満足そうに頷く。


「……ね、ねえ。い、一応聞いておくけどさ、二十四日って空いてる?」

 それからしばしの間雑談にふけていると、何からともなく、米里さんは視線を下に向けて尋ねた。

 今月の二十四日、クリスマスイブですか……。

 一応聞いておくって……それじゃまるでほぼ確実に僕がクリスマスに用事がない寂しい奴って言っているようなものでしょ……。事実なんですけど。

「……特に予定はないけど」

「そっ、それじゃあ──やっ、夜景……! 見たくない? まだ藻岩もいわ山行ったことないんじゃ」

 食い気味に彼女は言葉を挟んで、テーブルに身を乗り出して提案する。

「……まあ、確かに行ったことないけど」

 藻岩山は札幌市南区にある、札幌市民御用達のウインタースポットだ、そうだ。札幌駅から六キロと中心部から近いところにあり、スキー場や展望台で有名だ。

「あそこの山のロープウェー上ったところから見える夜景ほんと綺麗だから、一度くらいは行ったほうがいいよっ、せっかく札幌住んでるなら」

「は、はあ」

「どうせ北郷君ひとりじゃ行くわけないだろうから、あ、あれだったら一緒に行かないかなあ……って」

 いじらしく指をつんつんと膝元で遊ばせている。

 確かに……予定はないけど。行こうと思えばいけるけど……。

 家には真白もいるし、クリスマスに家に置いていくわけにもなかなかいかない。猫になってもらって連れて行ってもいいけど……この間の清水寺の反応を見る限り、高いところは苦手みたいだし……。

「だ、だめ……かな?」

 答えを逡巡していると、米里さんは沈めていた視線を僕に向け、上目遣いで駄目を押す。

「ちょ、ちょっと待って。まだ今日行けるかどうかはわからないから、ちょっと待って」

 ……仕方ないから、一旦真白に相談してから決めることにしよう。そう思った僕は、回答を一時保留した。

「わ、わかった……」

 その後も適当な話題を何本か繋いで会話をしているうちに、時間瞬く間に過ぎていき、夕方になった。陽が落ちきった頃に「じゃあ、そろそろ」と言い米里さんは家に帰っていった。


「それじゃあね」

 バタンと閉まったドアを見て、僕はため息をひとつつく。……とりあえず、真白のことはバレなかった。よかったよかった。何かお礼しないとな……。

 さて、外に待たせている真白に知らせて、ケーキを買いに行こう。僕は自分の部屋に戻り、窓を開けて真白を中に入れようとするけど、

「……え?」

「っくしゅっ!」

 そこに猫の真白はいなくて、代わりに毛布にくるまってくしゃみをしている人間の真白が体育座りをしていた。

「な、なんで、猫になってたんじゃないの……?」

 しかも、人間になっているということは……あの毛布の下は……。

「あ、ゆ、優太さん。お隣さんは帰られたんですか?」

「とっ、とりあえず早く家入って服着ちゃって!」

 目をつぶって指をさし、和室に向かうように僕は促した。

「……いやあ、さすがに人の姿で裸でいると寒いですね……」

「当たり前でしょ! っていうかどうして人間の姿に戻ったの? 寒いし誰かに見つかったらそれこそ警察に通報されるし……」

 さすがの僕も声を強くしてしまう。……プレゼントは、わ・た・しをやるにしてもせめて家のなかでしてもらいたい。

「す、すみません……」

 僕に怒られたことで真白はしょんぼりと肩をすくめる。

「最近……どうしてか人と猫の姿を自由に操れなくなっていまして……」

 そのまま告げられた事実に僕は声を凍らせる。

「え? い、いつから」

「……修学旅行あたりから、ときどきです」

 冗談もほどほどにしろと言いたくなるのを我慢して、僕は息を呑み込む。実際何事も起きなかった。ならそれでいいじゃないか。結果論だけど。

 ただ、

「言ってくれたら、今日のことはもっと考えたよ。そんな……真冬を外にほっぽりだすなんてことはしなかった」

「……ごめんなさい」

 最近、家に帰ると猫になっていることがあるのは、こういうことだったのか。

 あれは猫になっていたんじゃない。猫にさせられていたんだ。

 でも、一体どうして……。真白の説明では、「自由に」猫と人との行き来ができるということだった。それが今、揺らいでいる。

「真白……恩返しってさ、実はもう終わってましたとか、そういうことはあり得る?」

 一瞬過った嫌な予感を、僕は口にする。

 彼女は僕に猫のときに受けた恩を返すために人になってここに来た。つまりは、その恩返しが終わってしまえば、その力を行使できなくなるのではないか、そう考えた。

「いっ、いえ、まだ終わってませんよっ」

 しかし、その予想はすぐに否定される。

「……なら、時間制限があるとか」

「天使の恩返しに時間制限なんてありませんっ。そんなことしたら、返せる恩も返せなくなってしまいますっ」

 じゃあどうして。

 ……真白は自由を失いかけているんだ。

 冷静に考えて、氷点下に到達する札幌の冬の屋外でわざわざ裸になるアホはいない。ましてや真白は女性だ。意図的ではなく事故的に起きたと考えるのが自然だ。

 ならば何らかの要因が働いているはずなんだ。でないと説明がつかない。

 突然突きつけられた受け入れがたい現実。一度回り始めた負のスパイラルはなかなか止まってくれることをしない。


 ──優太さん、優太さん


「優太さんっ」

「あ、ご、ごめん……」

 考えごとをしているうちにボーっとしてしまったようだ。真白に肩を揺すられて僕はようやく返事をする。

「と、とりあえず……ケーキ買いに行きませんか?」

 ニコリと笑みを作る真白は、僕にそう提案する。でも。

「……いきなり猫になったり人になったりするかもなんでしょ……? さすがにそれをわかった上で真白を外に連れて行けないよ」

 さっきは僕の家の庭だったからまだよかった。よくはないけど。

「僕が買いに行くからさ、何食べたい?」

「え? で、でも……」

「いいから」

「は、はい……でしたら……イチゴが乗っているものならなんでも」

 それならショートケーキかフルーツタルトか、そこらへんになるかな……。

「おっけー、わかった。それじゃあ買ってくるね」

 上着を着てポケットに財布とスマホを放り込んで、僕は家を出る。

「い、行ってらっしゃい、なんか……すみません」

 玄関前で靴を履く僕に、申し訳なさそうに謝る真白。

「……いいよ。仕方ないことだし」

 寂しげに佇む真白の様子が、今にも溶けてしまいそうな、そんな気がしてしまった。

 いきなり逝ってしまった祖父や祖母と同じように。



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