第29話 隠した表情の向こう側

「……というわけなんだ。ごめん、土曜日に米里さんが家に来るから、その日だけ──」

「わかりました、その日は野良猫になってますねっ」

 その日の夜、晩ご飯を食べながら僕は真白に事情を説明する。

「……察しが早くて助かります。ありがとうございます」

「というより……土曜日、誕生日だったんですね」

 白米を箸につまみながら、真白は少し寂しそうにこちらを見る。

「う、うん……まあ」

「お隣さんは、何時ごろからいらっしゃるんですか?」

「えっと……お昼過ぎから来て夕方には帰るつもり、とは話していたけど……」

「それでしたら、お隣さんが帰ってから、ケーキを買いに行きませんか? せっかくの誕生日ですしっ。それに、私のバイト代、まだ残っているのでっ」

「え? いや、そんな悪いよ」

「気にしないでいいですって。それに……」

 あれ? いきなり真白がだらしない表情になったぞ?

「一度でいいので、ケーキを食べてみたかったんですよね……私」

 へへへと目を細めている真白。……あ、本人が食べたいならそれでいいです。ケーキ買いましょう。

「うん……ならそれでいいよ。学校の近くのショッピングセンターに洋菓子屋さんがあるから、そこで買おうか」

「はいっ、わかりましたっ。えへへ……ケーキかぁ……」

 楽しみそうに、さっきまで見せていた寂しそうな表情を消し去った真白は、いつもと同じようにパクパクと美味しそうに僕が作ったご飯を食べていった。

 やっぱり、最近おかしいと思ったのは、僕の勘違いだったのかな……。


 修学旅行後、少しだけ変わったことがある。

 それは、同じ班だった彼がたまに僕に話しかけるようになったということだ。内容は「数学の課題やった?」とか、「明日のホームルーム何するんだっけ」とか、些細なことだ。一言二言言葉を交わすと、サバサバした性格の彼らしく、すぐにどこかに行ってしまうけど、今まで米里さんに話しかけられなかったら一言も口を開かないのが当たり前だった僕にとっては確かな変化だ。

 米里さんも米里さんで、修学旅行が終わってからも、僕に気を配っている。事実、誕生日を祝うなんてとんでも発言するあたりからそうなんだろうけど。

 教室の雰囲気なんてものは、水面のように恐ろしいほど繊細だ。一滴の水を垂らしただけでも波紋となって広く伝わるし、石なんて投げ込んだものには飛沫をあげて周りに水を撒き散らす事間違いない。

 つまるところ、今まで喋らないのがデフォルトだった僕が誰かと、とくにあまり他人のことを気にしない彼としばしば話すようになった、ということは確かに影響を与えていたってことで。

 少しずつだけど、僕の周りの空気が、柔らかくなってきているような、そんな気さえしていた。

 そんな状態で迎えた土曜日、僕の誕生日。真白に頭を下げてお願いした通り、和室はひとまず綺麗な状態にして、荷物とかは押し入れに片づけてもらった。和室だけふすまを閉める、という方法もあっただろうけど、もしかすると仏壇に線香を上げさせて、と米里さんが言い出す可能性も否めなかったので、それは却下した。

 祖父と関わりのあった米里さんなら、ほぼほぼ言うだろうし……。

 それを断る合理的な理由もないし。多分、僕が断るとしたら父親くらいかもしれない。そもそも家にも上げないだろうけど。

 真白は正午を過ぎると、僕の部屋の窓から庭に出て、野良猫用に置いてある段ボールの家のなかに入り込んだ。そこなら、なかに毛布も置いてあるし、寒くないだろうと思う。

 お皿にカリカリをたっぷり置いて、

「それじゃ、悪いけど夕方までよろしくね」

「ニャー」

 そっと窓を閉めた。タイミングよく家のインターホンが鳴り響いて、僕は玄関のドアを開ける。

「……た、誕生日おめでとう。北郷君」

 玄関先には、薄手のコート一枚だけを羽織った米里さんが、バスケットを片手に顔を真っ赤にして立っていた。

「な、なんで顔そんなに赤いの? 家隣だよね……? どこか寄り道でもしてたの?」

 徒歩十五秒の家に行くのに、軽装で出かけるのは理解できるけど、こんな顔されていたらこうも言いたくなる。

「べ、別にいいでしょ。なんでも」

「……まあいいや。いらっしゃい、入って」

 つまるところ、寒い、ということなのだろうから、立ち話はほどほどに僕は米里さんを中に招き入れる。

「お、お邪魔します……」

 靴を脱いで、揃えて置いてから彼女はスッと空気を吸い込む。

「ここの家……こんな雰囲気だったんだね」

 米里さんが僕の家に入ったのは、去年の祖父の葬儀以来だ。そのときは、色々家のなかは雑然としていたから、米里さんがそう言うのも無理はない。

「……あのときは、ここは家じゃなくて葬儀会場だったからね」

 たくさんの人が出入りしていた去年のそれは、まさしくその通りだった。お通夜の日はひっきりなしに参列のかたがここを訪ねたし、香典返しとかお坊さんの乗るタクシーを手配したりとか。……まあ、全部僕がやったわけではなく、老人会の皆さんのお手伝いも借りたけど。

 だとしても、落ち着く暇なんてなかった。

「……家じゃなくて葬儀会場、ね。なるほどな……。そうだ、お線香あげていいかな。一周忌のときは行けなかったから」

 やっぱり。彼女がそれを提案しないはずがない。

「いいよ。きっと喜ぶよ」

 空いた和室に入り、彼女は上着を脱いで仏壇の前に正座する。ロウソクに火を点け、そこにか細い緑色の棒をあてがう。緑の先を灰色に燃やす赤がちらついたところで、彼女は線香を立てる。

 おりんを鳴らし、そっと両手を合わせる。金属と金属がぶつかる甲高い音色が、物静かな和室に響き渡った。

 長い間余韻を残した音がようやくその響きを止めてから、彼女は合わせていた手を解いた。そして、

「……ほんと、いきなりだったよね。……脳卒中だっけ」

 祖父の写真を眺めつつ、ゆっくりと嚙みしめるように尋ねた。……この問いが、本意でないことがわかるくらいには、米里さんがズカズカと人の心の庭に立ち入る人じゃないと僕は理解している。だから、

「……うん。学校から帰ったら倒れていて、そのまま」

 ありのままの事実を話す。これが赤の他人や、興味本位の質問だったら、適当に頷くことしかしていないだろう。

「まさかあんな呆気なく逝っちゃうとは思ってなかったよ……。祖母もそうだったから、血筋なのかなって、不謹慎にも思った」

「……私もちょくちょく北郷さんにはお世話になったんだ。小学生のときとかはよく遊んでもらったし。凧揚げとか、こま回しとか、めんことか。あと将棋も教えてもらったっけ」

 なるほど、祖父が残したもののなかにはそういう遊び道具がたくさんあった。仮に父親が大きくなって以来使ってないとしたら、さして埃を被ってないなと思ったらそういうことだったのか。

「ほんと……気のいいお爺さんだったよ。北郷君によく似てる」

「……そうかな。僕はそんなにいい性格してないと思うけど」

「いいや。……似てるよ。笑いかたとか瓜二つだった」

 力強く、はっきりと、語尾をしっかりと切った口調で米里さんは告げた。

「……声をあげて笑いはしないけど、そっと表情を緩める様は、やっぱり孫なんだなって思った。……そんな笑いかた、知り合いにはそうそういない」

「そう……まあ、血が繋がってるからね」

 隔世遺伝ってところか。父親はそんな静かな笑みなんて作らない。

「……東京からお孫さん……北郷君が来るって聞いたときはさ、どんな人なんだろうって期待半分って感じだった。でも、蓋を開けてみれば一切クラスメイトと話をしない、寡黙と言えば聞こえはいいけど、実際はただ無口なだけで。確かに北郷さんは穏やかな人だったけど、にしても静か過ぎない? とは思ってた」

「……仏壇の前で故人の孫を貶しますか普通」

「仕方ないじゃん。それが第一印象だったんだから。そのまま、一切声を学校で聞かないまま秋になって、北郷さんが亡くなって。……喪主を引き受けて動き回る北郷君見ていて、不安さえ覚えたよ。……感情あるのかなって。あまりにも表情がなかったから」

 無表情なのは認めるけど、感情の存在を疑われていたのか。……それも無理はないか。なんせ他人とのコミュニケーションに必須な声と表情が動かないんじゃ。

「……それに、私の知る限り、泣いてるところ見てないし」

 ……祖父が亡くなった瞬間も、葬儀のときも、火葬のときも、僕は涙ひとつ落とさなかった。悲しくないはずなんてない。たったひとりの家族を失って、平気でいられるほど無神経ではない。

 それでも、僕が泣かなかったのは、

「でも、修学旅行で笑っているところを見て、ああちゃんと感情あるんだって思って安心した。そして、気づいたよ。……そんな余裕がなかっただけなんだろうなあって」

 彼女は事実を言い当てて、仏壇の前から立ち上がる。

「さ、誕生日なのに湿っぽい話しちゃったね。家でクッキー焼いてきたんだ。食べない?」

 脇に置いていたバスケットを掲げて、米里さんは穏やかに瞳の弧だけを緩め、そう持ちかけた。

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