第11話 猫に財布を握られる

「もう、人生に悔いはないですー」

 それから一時間。リビングのテーブルに乗ったガスコンロと鍋をふたりで囲んだ。真白はぐつぐつと炊かれ味噌で味がつけられた鮭の切り身を本当に美味しそうに食べる。

「はふっ……あちちっ」

 熱いものが苦手なのも忘れて、アツアツなままの鮭を口に入れて慌てる真白。すぐにコップのお茶に手を伸ばすけど、なかなか口に含もうとしない。

「飲まないの?」

「はひ、だってほれほんだらせっはふのさけが」

「……大丈夫、鮭も僕も逃げないから落ち着いて」

 こういうときは子供っぽいな。いや、感情表現がストレートと言うべきか。

「……ふぅ。いや、お茶を飲んだらせっかくの鮭が台無しになるかと思ったので、我慢しましたっ」

「とりあえず、落ち着いて冷ましてから食べような」

「はひぃ……あちち」

 聞いてないし……。魚には目がないなこれ。普通に肉を買うより経済的だからいいんだけどね。

 ふと、ぐつぐつと揺れる鍋をじっと見つめる。

 こうして、家でガスコンロを引っ張り出したのはいつぶりだろうか。戸棚の奥にしまっていたコンロの箱はがっつり埃をかぶっていたし、今日使うときも最初の二・三回は上手いこと火が点かなかった。

 祖父が亡くなってからは一度もやっていないし……、最後にやったのは僕が札幌に引っ越してきた以来のことかな。確かその日のメニューも石狩鍋だった気がする。だから作れたんだけど。

「んんー、おいしいー、はちっ、ふーふー」

 こんなふうに、テレビ以外の人の声を聞きながら家でご飯を食べるのも、祖父の葬儀以来かもしれない。そのときも、一緒にしたのは父親ではなく米里一家だったけど。

「あれ? 食べないんですか? 優太さん、鮭なくなっちゃいますよ?」

「……え? もう半分なくなってる? 僕まだひとつしか食べてないのに?」

 ったく……。パクパク食べすぎだよ……。まあいいや。これで満足してくれるなら。

 呆れるような笑いを作り、僕は鮭の切り身をひとつ取り皿に移す。うん……まあ美味しい。祖父の味には勝てないけど。

「……またやろうか、鍋」

 ただ、こう美味しい美味しいと箸を止めずに食べてくれるのを見て、悪い気はしない。そんなに喜んでくれるなら、またやってもいいかなとは思った。

 心の隅がかゆくなるような、この感覚、嫌いではないから。


 大好評のうちに終わった石狩鍋の片づけを終え、お風呂に入った。今度は勿論ひとりずつで。僕が先に入って、真白が後。真白が入っている間に、僕は自室で米里さんから貰ったノートを写し始める。

 スタンドの灯りを手元に、ひたすら無言で自分のノートに彼女の取った板書を写し続ける。明日授業がないとはいえ、長いこと借りるのもなんか気になる。それに、今日貸してきてくれたときの口振りからして、これだけじゃ終わらなさそう。今日借りた分は今日済ませないとどんどんたまっていきそうだ。

 しかしまあ、一週間分のノートはそれなりにえげつない量があって、それを一気に進めようとすると手首が痛くなってしまうし、右手の側面が真っ黒になる。

「ふう……」

 四ページほどの写しが終わり、小休憩とばかりに体を伸ばす。すると、そのタイミングを待っていたかのように、勉強机のすぐ奥にある庭と繋がる窓がカタカタと音を立てた。

「……ん?」

 それに気づいた僕は、カーテンを開けて、さらに窓も開く。

「ニャア―」

 真白のそれよりかは数トーン低く、重たい鳴き声が聞こえる。

「……どうした、こんな時間に。エサにありつけなかったのか?」

 猫の目線と合わせるために、しゃがみこんで少し緩い声音で尋ねる。

 白・茶・黒の毛が生えそろっているいわば三毛猫のそいつも、たまに僕の家の庭にやってくる常連の野良猫だ。勝手にミケと呼んでいる。ネーミングセンスがワンパターンなのはこの際いいとして。真白ほど頻度は高くないけど。朝やってくる真白に対してミケは夜やってくることが多い。にしても、十時を過ぎてからはなかなか珍しい。

「ニャオン……」

 この悲しそうな声色は図星だろう。

「はいはい、じゃああげるから少し待ってろ」

 勉強机のすぐ隣に置いてある戸棚から猫のエサを持って、庭先に常備している小皿にあげる。

「ニャアンー」

「わかりやすく猫撫で声を出すな。ミケの声はドスが効いてるから大してキュンとしないよ。ちゃんと全部食べるんだぞ、残したらカラスが来ちゃうから。じゃあね、おやすみ」

 そうして窓とカーテンを閉じ、一度手を洗いに洗面所に向かおうとする。と、

「わっ、上がってたんだ……真白」

 いつの間にか僕の部屋に入っていたようで、真白は火照った頬にバスタオルを当てて僕のことをジッと見ている。

「他の猫さんが来たんですか?」

「う、うん。あれ、真白は庭で他の猫と会ったことあったっけ?」

「いえ、ないですね。ただ野良猫界隈では結構優太さんの家は有名ですよ? もしものときのセーフティーネットとして。多分この近辺を住み家にしている野良猫で知らない猫はいないと思います」

 ……いつの間にか我が家はそんな大層なものになっていたというのか。

「でも、実際何匹くらいがここに通っていたんですか?」

「えっと……真白を入れてざっと五匹くらい……」

 と言っても、真白ほど頻繁に来る猫はいなくて、二週間に一回とか、せいぜいそのレベル。それ以上増えられたら、猫のエサ代が家計を逼迫するから怪しいことになるけどね。

「そうなんですね。まあ、ここの家に行くには基本他の野良猫たちに断りを入れないといけないので、そんなにたくさんの猫が来ることはないと思うんですけど」

 え? 何、勝手に生活保護申請みたいな制度が野良猫界隈にもできてるの? 猫のネットワークすごい。

「それこそ、たくさん優太さんの家に行き過ぎてエサが尽きてしまえば元も子もないですからね。そこらへんのリスク管理はしっかりしているんですよ」

「へ、へえ……」

 野良猫たちの協力によって僕の財布が管理されていることを知り、少し怖くなる。

 ふと、僕は真白が手にしているくしに目を移す。

「そのくしはどうしたの……?」

 僕が聞くと、真白は少し恥ずかしそうにモジモジしながら、

「じ、実はこの間お隣さんに頭を撫でられたのがあまりにも気持ちよすぎて……やってもらいたいなあって……てへへ……」

 なんて言いつつくしを僕に差し出す。

「……つまりは、僕に髪をとかせと……」

「はい……」

 欲望に忠実なのはいいことだと思います。はい。


 結論から先に言おうと思う。

 真白の髪、ほんとにスベスベだった。触るこっちがおそろしくなるくらいツヤツヤ。一切くしが途中で引っかからないって何事?

「はわぁ……この感覚、たまらないですう……」

 当の真白はリビングの椅子に座りながらふにゃふにゃになっているし。頭や髪の毛が弱いのかな……?

「というか、家にくしなんてあったんだ。僕、知らなかったんだけど……」

「洗面所を適当に探したら新品のものがあったんで、ありがたく拝借しました」

「そ、そう……まあいいんだけどさ」

「それにしても、優太さん髪とかすの上手じゃないですか?」

 彼女の真後ろに立っている僕は、いきなり至近距離に目と目が合ってくしを持つ右手が跳ねてしまう。お風呂上がりだから、かぐわしい石鹸とシャンプーの香りが直で鼻に届き、それも心臓の鼓動を少しばかり速める。

 ただ、それでもプチとかそういった痛い音は鳴らず、素直にくしは髪の毛から離れていく。

 ……猫、すごい。それとも天使がすごいのか。どっちでもいいけど。

「こ、これが初めてだけど……」

「じゃあもしかしたら才能かもしれませんねっ、髪をとかす才能っ」

 むしろ真白の髪の毛の才能だと思います。

「そんな才能もいらないし……多分やる機会ないし」

 真白以外にやる人が見当たらない。少なからず高校生の間は。なんて言っているうちは大学行ってもそうだろうし、それ以降も変わらないんだと思うけど。

 またすぐに真白は前を向いて、もはや絹糸なのではないかと勘違いしそうになる真白の髪にくしを僕は再び通し始める。

「そんな、こんな才能を隠しておくなんて、罪ですよー。もっと他の人にやってあげないと」

「……真白は僕に美容師になれと?」

「それもありですね」

「……ご冗談を」

 何を言っているんだと苦笑いを浮かべ、僕は一度くしを木のテーブルにトンと置く。

「最後は手ぐしがいいとか聞くけど……いい?」

「どうぞどうぞっ」

 一応手で触る前に許可を求めておく。

 オーケーをすんなり貰ったところで、僕は手で真白のサラサラな髪を流していく。

「ほわぁ……くしよりもすごいですう……」

 顔を上に傾け、声になっていないような吐息を零す。

「優太さんに頭撫でられるの癖になりそうです……はわわあ……」

「……そんな僕を依存性のある何かにしないで欲しい」

「だって心地よいんですもん……ほわ……」

 これ続けていたら吐息と一緒に魂も飛んでいくのではないだろうか。

「……じゃあ、そろそろ終わりにしていい?」

「もう終わりなんですか?」

 そろそろ勉強の続きをしないといけないしで、僕が真白にそう言うと、再び真白は物憂げな表情でこちらをくるっと振り向く。

「……ま、また今度やってあげるから」

「約束ですよ? そうですからね?」

 二度目はもっと至近距離、鼻と鼻とがくっつきそうな距離に彼女が近づく。

「わかった、わかったから、はい、今日は終わりね」

 真白の頭をポンポンと叩いてあげて、僕は自室に戻ろうとする。

「ほわぁ……」

 リビングに残っている真白は、僕が離れた後も蕩けきった幸せそうな顔をしていた。


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