第9話 1級フラグ建築士
一週間ぶりの学校とはいえ、誰も僕に話しかける人はいない。幸か不幸か真白に気づかれる恐れもその分減るってわけだ。これが怪我の功名って奴かな。……なんか違う気もするけど。
そもそも僕が休んでいたことに気づいている人っていたのかな。ここまでスルーされるとそれも疑いたくなる。別にいいんだけどね。
始業ギリギリに駆け込んだから、少しするとすぐに担任が教室に入って来る。一瞬僕と目が合ったけど、すぐに何事もなかったように出席を取り始めた。
……真白には、誰も気づいていないな。
ただでさえこのように浮いているのに、猫を連れ込んだことがバレたらどうなるかわかったものじゃない。頼むから大人しくしていてくれよ……? 今から六時間目まで、お願いだからじっとしていてくれ……。
まず一時間目は日本史だった。僕のクラスの日本史はオーソドックスに板書プラス説明の形を取る。誰も喋らない時間が生まれやすいこういう授業がかなり危ない。
少しの鳴き声でアウトだし、真白がかばんのなかでごそごそ動くだけでも目立ってしまう。僕の席は後ろ側だから、先生に見つかることはなくても、クラスの誰かに気づかれる恐れがある。
精神とシャーペンの芯をすり減らしながら僕は黙々とノートを取っていく。当たり前だけど、僕が休む前までは日清戦争開戦くらいのはずだったのに、今はもう日比谷焼き討ち事件の話をしている。……週三コマ全部休むとこうなるよな……。日本史なら極論暗記科目だから、独学でもなんとかはなる。ただ、定着率はどうしても劣るはず。今度のテスト、危ないかも……。
「日比谷焼き討ち事件、発生の理由は色々諸説があるんだけど、教科書的には『銃後の生活が苦しかったにも関わらず、ポーツマス条約の講和内容が満足のいくものでなかったから』ってことを押さえておけば十分だから。よし、じゃあとりあえずこれで日清・日露戦争は終わり──」
授業が一区切りつき、先生が教科書のページをめくった瞬間。
「……ニャ」
真白おおおおおお! 鳴くなって言ったでしょおお!
「ん? 今何か音鳴ったか? スマホは通知切っとけよー」
あっぶねえ……。一体何があったんだ?
恨みがましい目を向けつつ、こっそり机の横のフックにかけているかばんを覗き込む。
そこには、
「……寝てる」
敷いておいたバスタオルに体をくるませて、丸くなっている真白の姿があった。上から見ればまるで小さな大福がふたつ並んでいる。
寝言、なのか?
……まあ、確かに暖房が効いて柔らかいタオルがあって、かつ静かだったら。しかも猫は夜行性って言うし、もしそれが今の真白に適用されているなら、昼寝をしていても不思議ではない。
寝ているならとりあえずは安心……なのか? 今みたいな寝言というイレギュラーなことが起きない限り。あと……寝返りか。
やっぱり安心できないな。もうこれ以上は何もしてくれるなよ……。
「じゃあ次のところ行くぞー」
一時間目からこれだと、先行きが不安だなあ……。
二時間目の政治経済はどちらかというとゼミ形式のもので、ほとんど教科書は使わず、ある事項について議論をする時間だ。普段は友達がいないからこの授業苦手なんだけど、今日ばかりは感謝した。
生徒が普通に話をするので教室が静かになることはない。よって真白が何かやっても聞こえることはほとんどない、はず。……代わりに僕のメンタルが別の意味ですり減っていくけど。真白も二時間目になると目覚めたようだけど、環境が幸いして途中二回くらいかばんを揺らすことがあっても気づかれることはなかった。
周りは楽しそうにワイワイガヤガヤは喋っているけど、僕は終始黒板とにらめっこ。右隣りの男子は別の友達と、左隣の女子も近所の女子と、前も後ろもそんな感じだ。
……これはこれで、苦行だ。
三時間目のコミュニケーション英語は日本史と似たような感じだけど、こっちは英文の音読があるのでまだマシ。ここもバレず、無事終了。
といった感じに四時間目の現代文も凌ぎ、昼休み。
自席に座ったまま僕は真白(人間)に持たされたお弁当箱を開き、ラップで包まれたサンドイッチを食べ始める。真白もかばんのなかからその様子を座ったままジーっと見つめている。
……見つめられると、なんか落ち着かない。
普通にサンドイッチは美味しくて、どこまでも真白の能力の高さに驚かされる。何なら僕より料理上手いんじゃないかって思う。
すぐそこに作った張本人がいるので「美味しいよ」の一言くらい言えればいいんだろうけど、周りから見たら僕はボッチだし、ボッチがいきなり誰もいない空間にそんなこと言いだしたらとうとうエア友達と会話するようになったかとさらに距離を置かれること必至だろう。
なので、とりあえずかばんのなかの真白に小さく笑いかけ、表情だけで満足したことを伝える。真白も尻尾を振って、照れくさそうに片手で頭を掻いているあたり、伝わったようだ。
……人間の言葉もきちんと聞こえるみたいだね。
その後も誰にも話しかけられることなく一日を終えた。真白も一時間目の寝言以外は目立つことは我慢してくれた。
……一言も人と話さずに学校から帰るってなかなかだな。
帰りのホームルームが終わるなり秒速で教室を出る。無駄なことをして真白の存在を知られるわけにはいかないからね。最後まで油断は禁物。
流れるように下駄箱までたどりついて、軽い上靴から、靴底に滑り止めの金具がついたちょっと重たい冬靴に履き替えようとすると。
「──あ、ちょっと待って北郷君っ」
土足部分の通路に足を落として、さあこれから帰ろうとしたとき、背中からそんな声が聞こえた。
「……あ、米里さん」
上着もカバンも持たず、両手に何かノートの類を抱えた彼女は息を切らせては僕の側にやって来る。
「か、帰るの早すぎだよー、今日も誰とも喋ってなかったし、休み時間もずーっと寝てたし」
「……まあ、それが習慣みたいなところがあるから」
「それはいいんだけどさ、はい、これ」
米里さんはそう言うと、僕の両手に何冊かのノートを手渡す。
「見てたら誰からもノート見せてもらってなかったから、困るかなーって。とりあえず、明日授業がない科目だけだけどさ、使っていいよ」
パラパラとめくると、カラフルなペンと小さく丸みを帯びた文字が書かれている授業のノートがあった。ちょうど、僕が休んでいた日清・日露戦争あたりとか。
「え、そんな、わざわざ悪いよ」
僕は貰ったノートを一度は米里さんに返そうとするけど、彼女は笑みをキープしたまま受け取ろうとしない。
「いいからいいから、次の授業があるときまでに返してくれたらそれでいいよー、また明日、他の教科のノート貸してあげるねー、じゃあねー」
当て逃げならぬ、貸し逃げだ。すぐに彼女は後ろ走りで手を振りつつ教室のあるほうへ向かっていく。
「ぁ……ちょっと……」
呼び止めようとしたときにはもう米里さんは僕を見てはいなくて、すぐに視界から消えてしまった。
「ニャー」
……誰も近くにいないことをいいことに、真白はかばんから少し顔を出して面白がるようにそんな鳴き声をした。
「……仕方ないか」
貸してもらったものは仕方ない。今から教室に戻ってノートを突っ返すのも人としてどうなのかって気もするし、諦めた僕は貰ったノートをカバンにしまって、ひとり(正確には真白もいるけど)雪と氷が積もっている帰り道を歩き始めた。
本当なら学校帰りに晩ご飯の買い物をしていくのだけど、さすがに食料品を扱うところに猫を連れて行くわけにはいかない。一度家に帰って、炊飯器に研いだお米をセットしてからもう一度買い物に出かけることにした。
「買い物に行くんですか? 私も行きますっ」
家に帰ってすぐに人間に戻った真白は、朝と同じ服を着ている。
「……別にいいけど、そんなに僕についてきて楽しい? 大して面白いことしてないと思うんだけど」
「あ、買い物に関しては単に私も行ったほうがいいかなーってことで。学校について行ったのは、米里さんとどういう感じなのか見たかっただけですっ」
本音をばらしたぞこの猫め。そういう魂胆だったのか……。
「まさか放課後までクラスの人はおろか先生とも話さないとは思いもしませんでしたよ。でもでも、やっぱりお隣さん、優太さんのことちゃんと見てるんじゃないですかー」
……ついさっき下駄箱で見せた表情と同じ顔をしている。なんだろう、少しイラっとくる。
「そんなこと言うと置いてくよ」
動きやすい薄茶色のアーミーズボンにシャツとカーディガンを合わせ、その上にいつものダッフルコートを既に着ていた僕はニヤニヤしている真白を待たずして家を出ようとする。
「ああっ、すみませんでした、ちょっと待ってください優太さん」
僕の様子にいじりを止めた真白も慌てて、この間一緒に買った少し灰がかった白色のもこもことした素材のブーツを履いて、後をついて来る。見た目は可愛いけど、ちゃんと靴底には滑り止めがついている。こういうきちんとしたウィンターブーツとかって、東京じゃ絶対買えないからな……。初めて札幌で冬靴買ったときびっくりした。
「あそこのショッピングモールのスーパーじゃないんですね」
真っ白に彩られている歩道をふたり並んで歩いて行く。この間服を買いに行ったショッピングモールとは別の方角に進んでいるから、真白も尋ねたのだろう。
「……あそこ、少し遠いし、放課後に行くと九割九分学校の人とすれ違うから嫌なんだよね。ましてや今は真白もついているし」
今ようやく気づいたけど、銀髪の真白は外を歩くと非常に目立つ。少し考えればわかることだけど。これで空から雪が降ったりなんかしたら画になるだろうな。
そんな真白の隣を歩いているのが、僕、って。これもクラスの誰かに見つかると面倒極まりない。極力エンカウントしてしまうリスクが低いところに行くべき、ということで、家の近所、学校からは遠い場所にあるスーパーに向かうことにした。
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