第7話 お風呂RTA

 それから数時間。そろそろ晩ご飯の心配をしないとなあと思い、のそのそとベッドから起き上がると、それと同時に部屋のドアが開けられた。

「……真白?」

 立ち上がったまま止まっていると、ひょこりとドアの隙間から真白が顔をおずおずと覗かせる。僕の顔色を窺うように、さながらエサをもらうときに機嫌を尋ねるような要領でじっと見つめている。

「あ、あの……その……」

 やがてその膠着状態が飽和して、真白が口を開いた。

「さっきは……すみません。気を悪くするようなことを言って……」

 どうやら彼女は僕に謝りにきたようだ。別に怒っているわけじゃないのに。

「いや、そんな気にしているわけじゃないから……謝らなくても。僕のほうこそ、大人げなくてごめん……」

「ただ……その、優太さんが優しい人だっていうのは、私の本心ですので……そこだけは」

 もじもじと両手を前で合わせてはしきりに動かしている。

 ……ここだけは譲らない、っていう意思を汲み取ったので、僕もそれについては何も言い返さず、次の言葉を口にしようとしたけど、

「「あ……」」

 口を開くタイミングが揃ってしまい、気まずい時間がまた流れる。

「……晩ご飯、どうしようか?」

 そのいたたまれなさをどうにかするために、頭をポリポリと掻きながら僕はそう切り出した。

「買い物、行けなかったから……家にあるものでどうにかするか、外で食べるかだけど……」

 どうする? と静かに尋ねる。

「昨日のうどんがちょっぴり残っているので、それにしませんか? うどんは足して煮込めばいいだけなので」

「……お餅くらいは、焼こうか」

「お餅ですか? いいですねっ、私人間になったらお餅を食べてみたかったんですっ! 毎年お正月になるとみんな食べていて、どれだけ美味しいんだろうなあって」

 急に元気が出てきた真白は、お餅のことを想像してじゅるりとよだれを飲み込んでいるようだ。

 食欲に忠実なのは……ある意味猫っぽいかもな。


 二日目のカレーは美味しいとよく言うけど、二日目のうどんは大して味は変わらなかった。つまり、美味しい。残り物だから野菜とかの具は少なめだけど、致し方ない。明日はきちんと買い物に行かないと。

 真白待望のお餅は、安いパックの切り餅だったけど満足してくれたようだ。表面を少しキツネ色に焦がしたそれをうどんのおつゆに通して力うどんにしたり、シンプルに醤油を垂らして食べたり、きなこをまぶしたり。

 ……お餅を三つも食べるとは。僕は二つで限界だ。

 まあ、お餅を口に入れた瞬間「んんんー美味しいですー」と頬を押さえながら幸せそうに食べている真白の様子は、見ていて微笑ましかった。しまいには「お餅、まだ家にありますかっ?」と聞いてくるし。まだいくつか残っているよと答えるとすごく嬉しそうにしていた。ないはずの尻尾が揺れているような、そんな感じ。「また今度食べちゃいますっ」って。

 なくなったら、またパック切り餅買ってきてあげるか……。

 そんな同居生活二日目の晩ご飯も終わって、僕はお風呂に入ることにした。風邪を引いている間は一切入れなかったし、昨日もシャワーで済ませてしまった。やっぱり冬はゆっくりお湯に浸かりたい。

 台所の隣、つまりまあ、僕の部屋と反対隣にある脱衣所で服を脱いで洗濯機に放り込む。

 お湯をはってあるとき特有のお風呂場の湿った空気をたっぷりと吸い込んで、ゆっくりと浴槽に体を沈める。

「はぁ……やっぱり気持ちいいなあ……」

 祖父はこういうときに「あずましい」なんてよく呟いていた。北海道の方言みたいで、気持ちいいとか心地よいときに使う。まあ、お風呂に入ったときにしばしば使われるらしい。僕は東京育ちだから、なかなか勝手に口を衝くことはないけどね。

 もとは祖父のひとり暮らしで使っていた家ということもあって、ある程度バリアフリー的な設計をなしている。浴槽の高さは低めだし、端っこには段差もついて出入りしやすくなっている。高さが低い分幅と長さはたっぷり取られていて、足を伸ばしてのびのびとくつろぐこともできる。手すりも至るところについていて、まさに装備はばっちり。祖父は体が悪かったわけじゃないけど、いつどうなるかわからないということで、このようなリフォームをしていたみたいだ。

 そんな祖父の恩恵にあずかりつつゆったりしていると、脱衣所のドアが開く音が聞こえた。

 ……ん? 真白? 何か用事でもあるのかな……。

 なんて思っているけど、いつになっても僕に声をかけることはなく、浴室のすりガラス越しには動いている真白のシルエットしか見えない。

 ただ。

「っっ?」

 少しして、そのシルエットの動きがおかしいことに気づいた。……なんていうか、その、両手を足の下まで伸ばして、片膝が上がっているというか……。その、つまりはボトムスを脱いでいる体勢のように見えたんだ。

「まっ、真白? どうした? 急に」

 確認の意思も込めて少し大きな声で脱衣所の彼女に尋ねる。

「一緒にお風呂入ろうかなあって思って」

 ……ほわっつ?

「いやっ、ちょっ待って待って真白一回落ち着いて──」

 湯船から立ち上がって外にいる真白に呼び掛けたけど、もう遅かったみたい。

「よかったらお背中流しますよ……?」

 バスタオルで一通り身体を隠した真白と、こうなると予想していなかったのですっぽんぽんの僕。

 目と目が合い、やがて真白の視線が少しずつ下がって──

「すっ、すみませんいきなりっ」

 両手で顔を覆って僕から目を逸らそうとする真白。……あの、でも指の隙間空いてますよ?

 僕も慌てて湯船のなかに戻って身体全部をお湯で隠す。幸い、入浴剤を入れているのでお湯越しに透けることはない。……とはいってもばっちり見られたよね……今? ……もうお婿行けない。行くあてもないけど。

「に、人間観察をしていると、同居する男女は一緒にお風呂に入るものだと知ったので入ってみたんですが……ご迷惑でしたか?」

「一体どこのお家を観察していたの?」

 それ絶対見ていた家間違えているよ……。カップルかな? このニュアンスだと親子ってわけじゃなさそうだからな……。

「そ、それじゃあ失礼します……」

 って結局入るの? マジで?

 真白が湯船に足を踏み入れようとしてきたので、僕は伸ばしていた足を慌てて畳んで体育座りをする。

 端っこの段差がないほうに寄っていると、真白は僕の目と鼻の先のスペースに入っては、お湯に浸かり始める。

 真白さん……近くないですか? それも人間観察の成果ですか? ……怖いから聞かないですが、その観察していた人たち、変なことおっぱじめてないですよね?

「はうう……こ、これがお風呂なんですね……すごく変な感じがしますぅ……」

 肩まできっちりお湯に沈むと、真白は目を半分閉じつつそう漏らす。

「……そういえば、猫って水苦手なんじゃ?」

 今まで猫みたいに熱いものはふーふーしていたし、髪の毛だって猫っぽいし。だからお風呂も苦手ではないのかなと思った次第。

「苦手は苦手ですよ? でも、人間さんがあんなに心地よさそうに入っているのを見ていると、これも興味が出て来ちゃいまして……えへへ……」

 少しだけ赤く染まった頬を触りながら、真白は答えた。

 ……っていうか普通に会話しているけどどうしよう、この状況。今僕全裸だから湯船から出る訳にはいかないし、かといって真白が僕のいる浴室で身体を洗うのも精神衛生上非常によろしくない。……じゃあ真白が身体洗っている間僕はお湯に潜っていればいいのかな。どれくらい時間がかかるかわからないけど、十五分とか? ……世界チャンピオンになれる気がするよ。それだけ息を止めていたら。

「優太さん優太さん」

「え? なに──」

 なんてことを考えて気を紛らわしていると、真白の白くて柔らかい身体がさっきよりも近づいていて、

「へへ、こうするともっと温かいですね」

 ……僕の胸に真白は自分の背中を預けるような形で、くっついてきた。

「ま、真白? そ、それも人間観察……なのかな?」

「はい、女の人、ちょくちょくこうやって男の人の腕のなかに入ってましたよ?」

 ……絶対に真白は僕以外の誰かとかかわりを持たせたら駄目かもしれない。特に男に対しては。色々間違いが起きそうな気がする。

 というかこの体勢、僕の僕(察して)が真白のちょうど……背中と……なところに当たりそうで反応しそうなんです。バスタオルがあるにしてもね。今必死でこらえてますけどね。ええ。

 けどそんな我慢空しく。やはり真白のふわふわな身体には勝てずに、

「…………」

「あれ? 優太さん、身体洗うんですか? だったらお背中流しますよ?」

 無言でくるっと反対を向いて湯船から出て、そのまま浴室を出ようとした、のだけれど。

「あっ、ダメですよ優太さん、ちゃんと身体は洗わないと。汚いままだとモテませんよ?」

 真白も一緒に立ち上がって、逃げ出そうとした僕の右手をがっちり掴んで引き留めては、そのまま僕をお風呂場の椅子に座らせた。

 ……多分、あれだ。真白は、自分の裸を見られたり、触られることには一定の羞恥があるのだろうけど、知識は伴っていないからどういうことをしたらどうなるのかってことをわかっていないんだ。なんていうか、思春期が来る前、もしくは来たばっかりの小学校中学年くらいの感覚? なのだろう。子供はキャベツ畑で拾ったり、カッコウが落とすんだよと教えられるお年頃くらいの。

 だからこういうことも普通にできてしまうんだ。……うん、性教育って大事。人間観察だけじゃ賄えないからね。天使も例外ではない。

「洗っちゃいますねー」

 持ち込んだタオルにボディーソープを数滴プッシュして、真白は僕の背中をごしごしと洗い始める。

 ……ああ、もう駄目だ。為すがままに進んでしまっている。

「こ、これも……恩返しの一部なの?」

 どうしようもないのでとりあえずそんなことを聞いてみる。

「優太さんがそのつもりなら全然それでも構いませんけど……とくにそういった気はありませんよ?」

 ……じゃあこれは素なんですね。わかりました。

「かゆいところありますか?」

「……大丈夫だよ」

「はーいわかりましたー」

 ……おじいちゃん、ごめんなさい。せっかく残してくれた広々としたお風呂をこんなふうに使ってしまって。僕は悪い子です……。

「それじゃあ背中はこれくらいで……次は」

「前は僕が自分でやるから。真白はお風呂入っていていいよ」

 食い入るように叫んでは、僕は真白が持っているタオルをひったくった。

「そ、そうですか……? それならお言葉に甘えて……ほわぁぅ……」

 ちゃぽんという音と真白のとろけるような声が聞こえてきたのを聞いて、僕は湯船の真白に背中を向けて残りの前と、頭を洗い始めた。

 多分、過去一番で早く、そして丁寧に洗えたのではないかと思う。


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