第3話 ふつつかものですが

 次に目が覚めると、かれこれ一週間近く抱えていた体のだるさや熱はどこかに飛んで行ってしまったようだ。

「……三十六度七分」

 脇から体温計を外し、画面の表示を呟く。

 これで月曜日からはまた学校に行けそうだな……。けど、四日も休んで授業ついていけるかな……。出席日数はちゃんと稼いでいるから大丈夫。ただ……友達がいないからノートを見せてくれる当てがない。

「……まあ、そのときは諦めるか」

 中学みたいにノート提出があるわけでもないし。

 それより……あの女の子は……。

 意識を沈める前に僕の側にいた銀髪の彼女は部屋にはいなかった。やはりさっきの一連の流れは僕の幻覚だったのだろうか。……幻覚で女の子の裸を見るって、どれだけ僕は欲求不満なんだよ。

 セルフ突っ込みもそこそこに、僕はベッドから立ち上がってトイレに向かうため部屋を出る。

「……ん?」

 部屋を出てすぐ隣にある台所から物音がしている……? トントントンと、まな板が包丁に叩かれる音が。

 僕は恐る恐る顔を覗かせて、様子を窺う。そこには。

「あ、起きました? 顔色良くなってますね、よかった、だいぶ落ち着いたみたいです」

 シャツ一枚とエプロンを身に着けた真白が、白菜とかほうれん草とかを一口大にカットして、鍋に放り込んでいた。……なんか、エロいな。雪のように繊細そうな肌が、艶めかしく映ってしまう。これ以上見ないようにしよう。

「冷蔵庫にうどんがあったので、うどんにしようと思うんですが食べられそうですか?」

「う、うん、それはいいんだけど……」

 冷静になればおかしくない? なんで猫が料理できてるの? ちゃんと猫の手で野菜切ってるし。それを言ったら最初にリンゴを剥いてくれたのもそうか。

「……当たり前のように人間してるなあって。……天使って万能なの?」

 とりあえず思ったことを口にしてみる。

「そんなことないですよ。なんでもできるわけじゃありません。……ただ、優太さんに恩を返すと決めてから、猫の目線で人間の行動を観察していただけです」

「……それはそれですごいと思うけど」

 やんわりと否定はされたけど、観察するだけでできるようになるのはもはや才能と言ってもいい気が……。

「病院に通ってどういうふうに人の世話をしているとか、逆に家庭ではどういう看病をしているのかとか、料理はどのようにするのかとか、一年くらいやっているうちに覚えちゃいました。人間の言葉が使えているのと、姿を変えられるのは天使の力ですけど、それ以外のことは自力ですよ?」

「……どうして、そこまで」

 それまでうどんを煮込んでいる鍋に視線を向けたままだった彼女は、僕のその呟きに対して一瞬だけこちらを向いた。

「だから、言ったじゃないですか。優太さんが、私の恩人だからです」

 彼女は……真白は、スッと目を細めて相好を崩す。緩んだ頬と相まって、見せる笑顔はまさに猫のそれと似ている。いや、もっと言えば……真白のそれと似ている。

 真白が僕に見せてきた笑い顔の蓄積と、今見せている微笑みとが重なる。

 やっぱり……君は、本当に真白なんだ。

「……そっか」

「──あっつい」

 どうやら味見をしようとおつゆを一口すすろうとしたら、煮込んでいる途中ということもあってかなりの熱さだったようだ。……猫舌なのかな。やっぱり猫だから。

 どうでもいいことを考えながら、僕はトイレに向かった。


「どうですか? 美味しいですか? 私、料理をするのは初めてなので、自信はないんですけど……」

 久々に座るリビングで食べる真白のうどんは、とても美味しかった。味付けも病み上がりにほどよい薄さだし、うどんも口に含めば自然とちぎれるくらいの柔らかさ。飲み込むのに力を使わなくていい分、楽に食べることができた。

 古びたアンティーク調のテーブル、僕と反対側の椅子に座って同じうどんを食べている真白はやはり何度も何度もふーふーして冷ましてから口に含んでいる。一生懸命に唇をすぼませるその仕草も、少し可愛い。

「美味しいよ。食べやすいし、味の濃さだって優しい」

 短くそう言うと、真白はホッとしたように胸を撫で下ろして「よかったー」と呟く。

「真白のおかげで、月曜日からまた学校に行けそうだよ」

「それはよかったです。ひとつ、恩を返せましたね」

 ……ひとつ? 気になる文言が出てきた。

「え、これで恩返しは終わりじゃないの?」

「何を言っているんですか。命を救ってくれた人にたった一個恩を返しただけで終わりにするなんて不義理があっていいはずがありません。天使の間では、『恩は二倍三倍にして返すべし、そうでなければ天使の名が廃る』という言葉があるくらいなんですからっ。ましてや優太さんは命の恩人っていう、最高級の感謝を示すべき人なんです。これだけじゃ終われませんっ」

 箸で野菜を掴んだまま真白は僕の顔に近づいてまくしたてる。

「……優太さんは、ひとりでここに暮らしているんですよね? 優太さん以外の人から、私、エサを貰ったこともないですし、見たこともないんですが」

 とりあえずこれだけでは満足できないという意思を示したあとは落ち着いた口調に戻った真白。掴んでいた白菜を食べて美味しそうに頬を反対の左手で押さえる。

「……うん。そうだよ。去年の秋まではおじいちゃんと住んでたんだけど、亡くなっちゃって。それ以降は僕のひとり暮らし」

 僕は左手にある和室、仏壇をチラッと一瞥する。真白はそれを聞くと申し訳なさそうに首をすくめて、

「す、すいません、こんなこと聞いて」

 なんて謝ってくる。……人間だよなあ、完全に。一年間の観察の効果凄い。

「いいよ、別に」

「あの……差し支えなければ、ご両親は……?」

 猫は遠慮がないとよく思うのだけれど、真白に関しては通用しないようだ。どこまでも人間くさい。

「……僕が中学卒業すると同時に離婚した。親権は父親が持っているみたいだけど、東京に住んでるよ。月に一度だけ、生活費を振り込んでくる、それだけの関係」

 あまり両親のことは思い出したくもないし、話していて楽しい話でもないので手短に済ませる。真白もそれを察したようで、それ以上は何も聞いてこなかった。

「ひとり暮らしなら、話が早いです。優太さん。私をここに居候させてくれませんか?」

 その代わり、と言うべきだろうか。真白は僕にそうお願いした。

 多分僕は今頃間抜けな顔をしていることだろう。何かちゃぽんと音がしたから、きっと掴んでいたうどんをおつゆの上に落としてしまったに違いない。……パジャマにはかかってないな。ならギリギリセーフ。

「……え? 居候? って……つまり、家に住まわせて欲しいってこと?」

「はい。人間の優太さんに恩返しをするなら猫より人間の姿でいたほうが都合がいいです。人間の姿で過ごすとなると、野良猫でいたときの要領で外で寝泊まりをするわけにもいきません。それに……野良猫の生活もなかなかに危ないのであまりしたくないというか……。人間で頼れる方が、優太さんしかいないんです。お願いしますっ」

 椅子から立ち上がって、シャツ一枚の彼女は頭をバサッと下げる。

「……わ、わかった、わかったからとりあえず顔を上げて、座って。その体勢は色々見えちゃいけないものが見えているから」

 ダボダボのシャツだから、そんなことをすると僕の目線の先に何色とまでは言わないけど蕾がふたつ咲いているのが見えてしまう。っていうか見えた。一瞬だけ。

「っ、す、すみませんっ……見苦しいものを……」

 真白は白い頬を真っ赤に染めて恥ずかしそうにまた椅子に座り込む。

「そ、そういうわけなので……だめ、でしょうか……?」

 おずおずとこちらの顔色を窺う真白。もはや猫と言うよりハムスターだ。

「うーん……」

 いきなり同居を認めるっていうのも色々問題があるし……。食費はまあ普段から余裕のある生活費を振り込まれているから大丈夫だとは思うけど。……年頃の男女がひとつ屋根の下で暮らすって……。倫理的にどうなんだろう。でも天使に倫理を要求するのもおかしな話だし……。それに、僕以外頼れるところがないっていうのは本当だろうし……。野良猫の生活も想像しかできないけどきっと大変なのだろう。縄張りとかエサの確保とか。うーん。

 ……まあ、悪い子、ではないし。悪い子だったら天使じゃなくて悪魔だし。

「い、いいよ、なら。部屋はそこの和室を使って貰えばいいし、僕も助けられた身だから追い出すのもちょっと……」

「あっ、ありがとうございますっ! ふつつかものですが、精一杯恩返しさせていただきますっ!」

「だからその体勢やめて」

「あうっ……す、すみません……」

 ただ、いかんせん人間観察で男が女性を見る目線、というものは会得できなかったようだ。まあ、それがあったらシャツ一枚で今日一日過ごしたりなんてしないよね。家のなかは暖かいから、防寒という意味では全然問題ないけど。

 というわけで、僕と天使の少し奇妙な同居生活が始まることになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る