第4話 コーヒーのち、鼻血。
翌日土曜日。僕が目を覚ましたのは、部屋のドアの向こう側、台所から何かを炒めている音が耳に入ってのことだった。
「……真白……?」
寝ぼけ眼をこすりながら、僕は部屋を出る。瞬間、サラダ油の香りが僕の鼻をくすぐる。
「あ、おはようございます、優太さん。起こしちゃいましたか?」
とは言うものの、時刻は朝の九時。別に早いわけでもないし、休みの日ならむしろこのくらいの時間だろう。僕も大抵土日は九時前後に起きている。
「いや……別にいいんだけど」
真白は昨日と同じシャツ一枚とエプロンという、朝から目に悪い格好で朝ご飯を作っていた。メニューは……、
「とりあえず目玉焼きにすればなんでもできるかなって思って、作っちゃってます」
スペック高過ぎじゃありませんかね……この天使。確かにトーストに乗せてもよし、サラダと付け合わせてもよし、白米のおかずにするもよし。家によってパン派かごはん派で分かれがちな朝食においてその選択はベターだろう。
「さすがに、優太さんの朝食がいつも何かまでは把握していなかったので」
真白はペロッと舌を出しておどけてみせる。その姿はどこかいじらしくて、愛らしい。
「ちなみに僕はパン派ね。真白は?」
冷蔵庫の横にある戸棚から食パンを一枚つかみ、トースターに放り込む。
「え……?」
真白が答えに詰まったのを見て、自分がした質問のおかしさに気づいた。
「あ、そっか。……今まで猫だったもんね、あまりにも真白が普通に人間していて……つい」
「へへ、私の人間観察も上手くいっていたんですね」
お互い右手で頬をかいて、照れ隠しをする。
「真白も、パンでいい?」
「はい、優太さんがパンなら、私もそっちで」
屈託のない笑みを僕に向けてから、彼女は再び意識を目玉焼きのフライパンに集中させる。僕もそれを聞いて、ひとつスペースが空いているトースターに、パンをもう一枚落とした。
……誰かの生活音で目を覚ますなんて、一体いつぶりだろうか。それも、料理なんて優しい音で。
そんな朝食をリビングで済ませたのち、食後のコーヒーを楽しむ。もう無粋なことは言わない。僕は目の前で未だシャツ一枚で過ごしている真白に切り出した。
「あの……なんでそれ一枚しか着てないの?」
正直どころかがっつり心臓に悪い。シャツの裾がミニスカート状態になっていて、見ているこっちからすると気が気でないんだ。亡くなった祖父の趣味で集めたらしい木の雰囲気が強調されているテーブルと……彼女の雪のような肌が伸びる腕とか腕とかが妙に対照的で、もっと目に入ってしまうというか。
「ああ……私、人間の服を一着も持っていなくて……。さすがに裸でいるのは駄目らしいってことは一年の観察で学んだで、とりあえず優太さんのシャツを勝手に拝借しているんですが……下は……下着つけずに履くのは申し訳なくて」
……またひとつ知りたくない情報が彼女の口から出てきた。なんとなく想像はついていたけど。
「さすがに……ずっとそんな感じに過ごしてもらうのは悪いから、今日近くのショッピングモールに行って真白の服を買いそろえようと思うんだけど……どうかな」
「え、いいんですか……? で、でもなんかそれは恩返しする身からして恐縮というか」
「……このままずっとシャツ一枚で過ごすことのほうに対してむしろ恐縮して欲しいから気を使わないで」
「は、はい……わかりました。ではお言葉に甘えて、そうさせていただきますね」
そっと穏やかに口角を上げ、真白は微笑んで見せる。もとが天使らしく、笑う様にどこか慈しみが混ざっているように思えるのは、僕の気のせいだろうか。
「ただ……その、私、自分のサイズを一切把握してないので、調べないといけないのと……さっきも言った通り服を一着も持っていないので、このままでは人間の姿で外には出られないんです……」
あ。考えたらそうか。まさかシャツ一枚で真白を外に連れ出すわけにはいかない。ズボンを貸したとしてもそれもブカブカで冬道を歩くことはままならないだろう。急ぎでなければ通販で買ってしまうというのも手だけど、それだと数日かかってしまって都合が悪い。受け取りもこんな姿の真白にやらせるわけにはいかず、僕がやらないといけないから配達の時間によってはさらに遅れてしまうかもしれない。
……え? 自分で言いだしておいてあれだけど、僕、ひとりで女性の服を買わないといけないの? しかも下着まで? ……どんな羞恥プレイだよ。
「……とりあえず、先にサイズを調べよう。話はそこからだ」
手元に残っていたコーヒーを一気に飲み干して、僕は席を立った。大して砂糖も牛乳も入れていないはずなのに、後味は甘く感じた。
「……そ、それじゃあ……するよ……?」
「は、はい……そ、その……優しくしていただけると嬉しいです……」
「……さっきのは僕のミスだから、ほんと、すみません……」
そう言って僕は、震える手で仏間の畳の上に立つ真白の胸の頂点に──メジャーを伸ばす。勿論シャツは着てもらったままだ。さすがに肌直接は無理だよ……。仏壇も置いてある和室で僕はなんてことをしているんだ。……違うんですおじいちゃん、そんなやましいことをしているわけじゃないんです……。ついさっき、テンパって手が震えるあまり、彼女の胸を触ってしまったのは完全に事故なんです。
「ん……」
少し湿った吐息混じりの声を漏らさないでください。ほんと人間ですねあなたは。
「……と、トップは測れました……次アンダーです」
もう完全に頭が真っ白になっている。肩幅とか身丈とかそこらへんを測っているときはまだよかった。いや、よくはないけど。……あと、股下のときはもう目をつぶってメジャーを添えた。
なんやかんやで僕の精神がそがれつつの採寸は進んで、最後にスリーサイズを測ることになったのだけど。
……まあ、こうなるよね。
真白の頬もさっきからずっとポッと赤く染まっているから、お互いに恥ずかしい思いをしているのは間違いない。……真白のほうが度合いは強いはずだけど。天使とは言えさすがにこういうことはやっぱりハードルがあるんだね……。それとも観察で学んだのかは知らないけど。
「あ、アンダーも終わり……。サイズは書いておくからあとで見ておいて……。つ、次ウエストね」
Aか……とは思ったけど、口にすると間違いなくセクハラになるので言わないでおく。っていうかもうこの行為・光景が間違いなくセクハラだから、多分僕は真白に訴えられたら勝てない。あれ、これって恩返しじゃなくて意趣返しじゃない? 恨みを晴らされているのか?
続いて真白の一番くびれているところをきつめにメジャーを巻いていく。さっきよりかは気が楽は楽。楽なだけでいいわけではない。
「はい……じゃあ最後はヒップ……だね」
ふう……これでとりあえず終わる。僕は彼女の身体の横にしゃがみ込んで、なるべく触らないようにしてサイズを測っていく。なんか色々感触がしたようなしてないような気もしつつ、測定は終わる。メジャーを離して数値を紙に書こうとしたとき。
離した拍子だろうか。シャツの裾が揺れる。すなわち、わかりやすく言えばミニスカートが揺れたわけで。
彼女の足元に座っていた僕はつい、揺れたスカートに目が行ってしまい──
「……僕……鼻血?」
前略、おじいちゃん。ごめんなさい。僕は不埒な男です。こんな孫をお許しください。
──昨日の巻き戻しのように、背中から畳に倒れ込んでは、気絶……してしまった。
「ゆ、優太さん? 優太さん⁉」
……そっか、髪の毛と同じ色だもんね。……そこも……銀色なんだって……思春期男子にとってはいささか強すぎる刺激をもらって意識を飛ばした。
「あ……気づきました?」
気を取り戻すと、背中に温かいものを感じる。ちょうど人の体温に近いような何か……。
横を向くと、真っ白いシャツがあって、上を向くと真白の微笑みが見える。ということは……。
「膝枕……?」
「は、はい。……もしかして、嫌いでしたか?」
「いや、そんなことはない……けど」
女の子の膝枕が嫌いな人はいないと思う。ないとは思うけど、生足直接に乗せられると体温を直接感じるというか。
「それなら、よかったですっ」
そんなことはいざ知らず、真白は安心したようにホッとした顔で僕に笑いかけてくる。
「あの……さっきのことは、もうお互いに忘れよう? そのほうが、いいと思うんだ」
僕の提案に対して、少し顔を熱くさせた真白は、
「わ、わかりました……そうしますね」
「うん。じゃあ服を買いに行く……けど、どうしようか。買うのは僕しかいないのは当然だけど……真白がどういう服が好きなのかわからないし……」
「私は、優太さんが選んでくれた服ならどれでも嬉しいですよ?」
「……まあそういう問題ではないんだけどね。それに僕、ファッションセンスは絶望的にないし、ましてや女性の服なんでわからないし……」
「それでしたら、私も猫の姿になって買い物について行きましょうか?」
「……え?」
「何か手提げかばんのようなものに入れてもらえれば、他の人に気づかれることなくお店の中に入れます。あとは服を見せてもらえれば、気に入ったものを合図で教えられるので、完璧じゃないでしょうか?」
なるほど……確かに猫なら外を歩ける。猫は服を着なくても目立たないからね。……ん?
「もしかして、猫から人間になるときって、必ず服を着ていない状態で変化するの?」
ふと思ったことを僕は尋ねる。
「はい。というか、もとの状態のまま変化します。猫の服を着たまま人に変化すると、猫の服を着た状態で人間になりますけど、サイズが合うはずないので破れちゃいますね。うまいこと人間の服を被った状態で変化すれば、その状態で人間にはなれますけど、着てはいないのであまり意味はないですね。最初のときは急いでいたので優太さんの目の前で変化しましたけど……外や人前では使いにくいんです、この力」
「へー……そうなんだ。まあ、いいや。とりあえず支度しちゃうから、真白は猫になっていていいよ」
「はいっ」
和室を出て、自分の部屋に上着を取りに行っていると、背中にあった人間の気配はもうなくなっていて、代わりに「ニャー」というこれまた可愛らしい白猫一匹がスタスタと歩き回っていた。
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