第6話 初めての『可愛い』
正確には女装した俺、つまりはhikariがその定期入れの中で笑っていた。
hikariの存在を世に知らしめるきっかけとなった、ひまわり畑を背景に白ワンピースを着て撮った写真。歴史に刻まれる伝説の一枚。
アップされたのは『アメアメ』のWEBサイトだったが、これはそれをプリントアウトした物のようだ。今見ても、その弾ける笑顔は真夏の太陽に負けないほど眩しく、いまだに「誰だこの超ド級の美少女!? ……あ、俺か」という茶番劇を脳内で繰り広げてしまう。
「雨宮さん、hikariのファンなのか……?」
そうだとしたら意外すぎる事実だ。
定期入れに写真を入れるくらいだし、生粋のhikari好きと見た。
……ああ、いやでも、結局持ち主がわかる情報はなく、これが雨宮さんの物である保証もないわけで。
「どうすっかなあ」
うーんと悩んでいたら、そこでパタパタと近付いてくる足音が聞こえた。
ビクッっと俺は盛大に肩を跳ねさせる。
まさか、雨宮さんがもう戻ってきた!?
「ちょ、えっ! マジか!? くそ……っ!」
焦った俺は取り急ぎ隠れられる場所を探す。
目についたのは、教室の後ろの片隅に立つ掃除用具入れだった。
「あそこだ!」
一も二もなく用具入れに飛び込む。
途中、定期入れは雨宮さんの机の上に置いてきた。彼女の物じゃなかったら、後で回収して担任にでも渡せばいいし、今はこの場をやり過ごすことが優先だ。
しかしながら、用具入れの中は狭いし臭いしホコリっぽいし最悪だった。
こんなとこに身を潜めるのってさ、『美少女と二人きりで密着!?』みたいなドキドキ展開でラブコメとかでよくあるけど、あれだな。今の俺が密着しているのはボロいモップだし、一人で入ったらラブもコメもないからただただ死にたくなるだけだな。俺一人で美少女も兼任しているとはいえ、選択肢を間違った気がじわじわしてくる。
だって万が一にでも発見されたら、あらぬ誤解を招くだろう、この状況。
咄嗟の行動だったとはいえ、もっとなんとかならなかったのか俺のバカ。
頼むから誰も来ないでくれ……!
だがその願いも虚しく、ガラガラと教室のドアが開けられてしまう。
ヒュンッと心臓が竦み上がる。
通風口から辛うじて外を見れば、予想通り入ってきたのは雨宮さんだった。
きょろきょろとなにかを探しているっぽい。
くそ、体勢キツいし見にくいな……。
「あっ!」
雨宮さんが声を上げて自分の席へと走り寄る。彼女の席は教室の窓際の列で、移動してくれたおかげで、姿が俺の限られた視界にちょうど収まった。
彼女が手に取ったのは、あのピンクの定期入れ。
「よかった……あった」
やはりあれは、雨宮さんの物で当たりだったようだ。
彼女はぎゅっと定期入れを胸に抱く。本当に大事な物だったようで、こちらも「無事に手元に戻ってよかったな」と素直に思う。
さあ、あとは速やかにいったん教室から出ていっておくれ。俺もロッカーからそろそろ出たい。
そうしたら、花瓶の水替えだけを秒速でなんとか終わらせて、俺は何事もなかったかのように下校させてもらうからさ。
「あれ……黒板が綺麗になってる……もしかして、また……?」
あー、このタイミングで気付いちゃうか。
まあ気付くよな。
雨宮さんは消された黒板の方を見て、後ろ姿からでは表情はわからないが、なにかを考え込んでいるみたいだった。
それは人畜無害な妖精の仕業ですよー。
「なんか綺麗になっていてラッキー」くらいで済ませばいいんですよー。
だからそう、頼むから一刻も早く出て行ってくれ!
体勢が限界だ!
「やっぱり、これをやってくれたのって……あ、そ、そうだ! 中身! 中身を確かめなきゃ……!」
雨宮さんは黒板から視線を逸らすと、不意に定期入れを開いた。意識も『黒板を消した人物』から逸れてくれてそこはよかった。
落としていたなら、念のため定期入れの中身確認はしておくべきだな。手早くよろしく。
「……うん、大丈夫」
問題はなかったようで、雨宮さんは安堵の息をついている。
指先でそっとなぞったのは、おそらくhikariの写真だろう。
角度が変わったことと、走ってきたせいで髪が乱れていることで、いつもは長い前髪で隠れた雨宮さんの顔が存外しっかり見える。眼鏡がちょっとズレているのも素顔が見えやすい。
そして彼女は口角を緩め、ふわりと微笑みながら言ったのだ。
「晴間くん」
と。
は……?
思わず口から間抜けな音が出かけた。
晴間くん。
晴間くんって言ったよな、今。
どうしてhikariの写真をなぞりながら、俺の名前が出てくるんだ?
いや、間違ってはいないんだけど。hikariは俺なんだけど。でも間違っているだろう、普段の俺はhikariだけどhikariじゃないじゃん、明らかに。
言い間違いか?
hikariとharemakunnって言い間違えるか?
用具入れの中で俺は混乱の極みだ。
でもでもでも、待ってくれ。
そっちでも混乱しているのだが、それよりもさらに今世紀最大とも言える衝撃が、俺の体内で暴れ狂っている。
――初めて見た、雨宮さんの笑顔。
それがもう、一瞬のことだったのに目に焼き付いて離れない。
さながら脳内はパレード状態。高らかなラッパの音とファンファーレが聞こえる。ドクドクと心臓が脈打って、外に血液ごと漏れだすんじゃないかというほどで、全身の細胞も最高潮に騒いでいる。
こんな状態になったのは過去にもあったな。
そう、hikari誕生の瞬間を鏡で見たとき以来だ。
……ああ、違う。
この動悸の激しさはあのとき以上かもしれない。
雨宮さんの笑顔に対して、言葉で表したいことはいっぱいあるのに、感情が追い付かなくてろくな言葉が出てこない。
ほら、よくヲタクがさ、好きなアイドルやキャラに『尊い』とか『しんどい』とか使うじゃん?
俺も今たぶん、そんな感じ。
ああいう言葉って便利だったんだな、この胸奥で蔓延る熱を吐き出すには、そういうシンプルな単語にまとめた方がわかりやすい。
俺の場合、雨宮さんへ送る単語があるとすれば……。
「掃除、戻ってがんばろう」
雨宮さんは定期入れを閉じてスカートのポケットに仕舞うと、自分を鼓舞するようにそう呟いた。まるでhikariの写真に励まされたみたいに。
そのまま、彼女は急ぎ足で教室を後にする。
まだ旧校舎掃除の最中だったのだろう。
真面目な彼女は押し付けられた仕事でも決して手を抜かない。それは真面目といえば聞こえはいいが、要領が悪いとも言える。でもそんなところも……うん。
彼女の足音が完全に消えてから、俺は用具入れから出て、ズルリとその場にしゃがみ込んだ。
ホコリが辺り一体に舞う中、ありったけの想いを込めて一言。
「可愛い」
ーーこの日、おそらく俺は人生で初めて、(女装した)自分以外の女の子にその単語を使ったのだった。
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