第6話

「――高校で担任をしております、秋田葉太と申します。春川桜子はまだこちらにおりますでしょうか」

「は? なんのことでしょうか」

 警察に着いて春川の様子を聞くと、事実確認になど呼んでいない、とのことで俺は驚いた。まぁ、確かに。そんなことで学校を早退させるなんてもってのほかだが。

 警察署から学校に戻ろうと歩き出した時に、春川と出くわした。

「あ」

「春川」


 ばつの悪そうな顔をした春川が、目をそらす。しかし、また目が合った。

「警察に呼ばれたって嘘ついたの、ばれちゃいましたね」

「ごめん、春川。俺、担任なのに知らなくて」

「いえ。隠してたんだし、当然ですよ。私も、たまに警察に呼ばれた~って嘘ついて、学校さぼっちゃってたので、おあいこです」


 春川は線香の匂いがした。お兄さんの墓参りにでも行っていたのかもしれない。

 さっき春川に言われた言葉が、俺の心を、過去を、ゆっくりと締め付けていた。

(先生は、人を殺したいと、思ったことがありますか?)


 春川に、きちんと伝えておかなければならない。

 俺は、適当な言葉を探した。

「春川。よかったら少し、歩かないか」



 ◆



 かといって、急に事件の話をすることができなかった。

 当たり障りのない、とりとめのないことをぽつり、ぽつりと話す。

 そもそも、春川と二人きりで話したことなんて一度もなかったのだ。

 もしかしたら、俺の方から避けていたのかもしれない。

 逃げていたのかもしれない。

 だからこそ。だからこそ、今だけは。

 自分の過去と、春川と向き合わなければならないと感じていた。


 俺たちは学校の近くの、桜が見える公園にたどり着いた。

 悲しそうに葉桜を見つめる春川の横顔を見て、俺は覚悟を決めた。


「さっきは、変なことを言ってすみません」


 俺は、言葉を、選んだ。

「変なことなんかじゃない。お兄さんのことは宮先生から聞いた。その……」


 夕方から夜に近づいてく。オレンジ色の光がどんどん暗く染まっていく。

 風が葉桜の葉を揺らす。春川の制服も揺れる。風が肌寒い。公園の街灯に明かりが灯った。

 明かりが葉桜の影を落とす。

 春川の暗い心が、影と同じ色をした殺意が、顔を出した。

 俺は、殺意をもつと向かい合っているのだ。


「そうですか、知っているんですね。私が、殺したいって人が、誰かを」


「あぁ」


「兄さんは、怖い人たちとよく遊んでいたけれど、私には優しくて、お父さんお母さんがけんかしている時も、話を聞いてくれました。必ず私が言ったことを、『あぁ、そうしよう!』って肯定してくれるんです。自分に自信が持てないときも、兄さんが認めてくれれば、頑張れたんです」


「そうか」


「先生には、大切な人っていますか?」


 いた。いや、いる。

 生きている。かろうじて。いや、きっと。必死に生きている。

 そして俺には、彼女のその言葉の続きが予想できてしまった。


「大切な人が傷つけられたら、こう思いませんか?」


 ”許せない”


 絶対に、許せない。

 同じ苦しみを。いや、それ以上の苦しみを。

 アイツの痛みを、アイツの悲しみを。味わわせてやる。


「今度、兄を殺した犯人の、裁判をするそうです。私を証言台に連れて行ってくれるそうです。その時に、犯人に会える。すぐ近くに。手の届く距離に。その時に」


 春川はじっと俺の目を見つめた。

 うつろではない。覚悟を決めた目だ、と思った。

 しっかりと。覚悟を持って、殺意が宿った目だった。


「どんな手を使ってでも、その時にその犯人を傷つけることが、私にはできるんです。その時に。方法はきっと、いくらでもある」


 手にしたナイフで、刺すか。

 用意したロープで、締めるか。

 準備した毒物を、その口に流し込むか。


 春川。春川。

 俺は、お前の担任だ。

 それを、今、俺に言って、どうする。


 止めてもらいたいのか。

 受け止めてもらいたいのか。


 肯定してもらいたいのか。

 否定してもらいたいのか。


 しかし、

 俺は教師である以前に、一人の人間だった。

 春川と同じく、大切な人を傷つけられた、悲しみ、傷ついた一人だった。


 だから、

 だからこそ、俺がお前に言える言葉は、これだけだった。


「春川」


「はい」


「俺も、昔、大切な人を、傷つけられたことがあるんだ」


 俺は、絞り出すように、告白した。

 懺悔の気持ちだったのか。

 後悔の気持ちだったのか。

 春川に向けて喋っているのだろうか。

 それとも、今も眠っている、アイツに聞いてもらいたいのだろうか。


 いや、違うな。そんなかっこいいもんじゃない。

 俺は、自分に、言い聞かせているんだ。

 今も殺意をくすぶり続けている自分をなだめるために、言葉を絞り出す。


「大切な人を傷つけた奴らを、絶対に許さない。もし、今度会う機会があったら、それこそ、殺してやろうと。苦しみという苦しみを味わわせてやろうと思っていたんだ。悪いことをした奴らはどんな目に遭ってもいいんだって。それが、正義なんだって。それが、アイツを苦しめた奴らへの罰なんだって。そうしなくちゃ、気が済まない。自分がどうにかなってしまいそうだってな」


 あの時の自分に、今の春川のような、復讐の機会がもし与えられていたら、どうなっていただろうか。多分、春川と同じことを考えただろう。


 それがいけないことだとわかっているけれど。

 先にいけないことをしたのは向こう側であって。

 先に傷ついたのはこちら側であって。


 向こう側は傷つけたということすら知らないままなのかもしれない。

 そのまま、また他の誰かを傷つけてしまうかもしれない。

 自分が何をしでかしたのかを、誰かが教えてやらなければならない。

 これは、正義のためだと。誰かを救う行為なのだと。


 正当化するのはたやすい。

 自分は被害者で、相手は加害者だ。

 自分は復讐者で、相手は犯罪者だ。

 誰も否定できやしないだろう。


 綺麗事なんて、必要ない。

 欲しいのは、結果だった。

 自分がアイツの為に、何かしてやれたという、結果。



 しかし、

 それでも、俺は知っていた。


 その正義感によって突き動かされた人が、

 その罪悪感によって追い詰められた事実を。



「でもな、春川。俺は、こう思うんだ。


 その正義感を、人を傷つけることで満たしてはいけない、と」



 俺は、知っているんだ。春川。

 お前はきっと、自らが犯した過ちの重さに、堪えられない。


 はー、やったぜ。せいせいした。

 これでやっと気兼ねなく、晴れ晴れとした気持ちで生きていられるぜ。

 なーんて、考えられないだろう。

 ずっと、その両手に残るんだ。ナイフが身体に突き刺さっていく感触を。

 ロープが首に少しずつ埋まっていく感覚を。

 毒を口に流し込んだ後、死が生を少しずつ蝕むそのうめき声が、耳に残る。

 どんな殺し方をしても、どんな傷つけ方をしても、その一撃を。

 きっと、どんな楽しいことをしていても、どんな嬉しいことがあっても、

 優しいお前は、思い出してしまうだろう。記憶に刻み込んで忘れられないだろう。


 償いのためかもしれない。その罪悪感からの逃避なのかもしれない。

 一生付きまとう罪の意識に苛まれ、その過ちを正当化しきれずに、自分を傷つけてしまうだろう。きっと、まともな生活は送れなくなる。

 自分はまともな生き方をしてはいけない人間だと、さらに卑屈になる。

 自分は生きてはいけない人間なのだと、自分の存在を消し去りたくなる。


 どれもこれも、その発端は、誰かを傷つけたことだ。

 自分のために人を傷つけてはいけない。

 自分以外の誰かのために、人を傷つけてはいけない。

 その行為が間違っても、誰かのためだなんて、そんな間違いを正してはいけない。

 正当化してはいけない。


 人を傷つける才能がないんだ。

 人を傷つける資格がない。人を傷つけて、なお自分のために、自分を好きに、自分に嘘をつかずに、自分にまっすぐに生きていける素養がない。

 自分の為よりも誰かの為に生きていける人が、間違って、誰かの為に人を傷つけようとしてしまう。それが誰かのためだなんて、思い込んでしまうんだ。


 違う。ダメだ。そんなこと、全然違う。

 お前は、そんなことをしなくていいんだ。


 ――は、そんなことをしなくてよかったんだ。

 お前は、そんな大切な誰かの為に、生きていてくれさえすればいいんだ。


 自信が持てなくたっていい。そんなお前が好きだった。

 優柔不断で、人に流されやすい。自分よりも他人を尊重する、そんなお前が好きだった。


 弱いくせに頑なで、自分の意見を心にしっかり持っている、お前が好きだったんだ!



「だから……!」


 俺は、はっと気づいた。顎まで伝うほど泣いていた。

 ここまで夢中で喋っていた。

 俺は、春川に、何を喋っていた?


 春川は、そんな俺を見て、何故か、笑っていた。

「先生も、そうだったんですね。私も……」


 春川も、静かに涙を流した。


「私も、好きだったんです。……お兄ちゃ……ん。桜…、も…。好きだったのに……な…、ううううぅ」


 春川は、桜にもたれかかって、泣き続けた。

 次第に、嗚咽が抑えられなくなり、声が大きくなって、溢れた悲しみを噛みしめるように、堪えるように口を閉じて、代わりにいっぱいの涙を流した。



 俺は、長年わだかまっていた自分への言葉を、ようやく吐き出せた気がした。

 泣いている春川を、その心が落ち着くまで見守っていた。


 葉桜の幹は、泣き崩れた春川を支えてくれていた。

 街灯が照らし、作り出した葉桜の影は柔らかく形を変え、春川を優しく抱きしめているように見えた。

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