第5話
気がつくと、公園には俺一人が残されていた。
あれから何分経っていただろうか。
いつの間にか春川は、教室に戻ったのか。俺が返事をしないばっかりに。
俺はまた、大切なあの言葉を受け止める機会を逃してしまったのか。
急いで残りの弁当を食べ、学校へ戻ることにした。
小走りで教室に戻ると春川はいなかった。
春川の席の荷物は綺麗に片付けられていた。
生徒と目が合ったので「春川は?」と聞くと、「あれ、宮先生から聞いたんじゃないの? 出かけたよ。早退だってさ」と応えた。
さっき公園に春川がいたのは、早退だったからか。
「出かけたって、どこに」
「警察だってさ。大変だよね」
「大変って……、何かあったのか?」
”警察”という言葉がちらつく。ざらりと嫌な感覚が。喉の表面にひたりと張り付く。
生徒はこちらに近づいて、声を潜めた。
「先生知らないんだ。じゃあ、これ、内緒にしといてよ」
茶化すような顔で言うので、一瞬、張り詰めた緊張の糸を緩めた。
「先月人が殺されたじゃん? 桜庭園の桜の木の下で。あれ、春川さんのお兄さんなんだってさ」
ドッ
手にしていた参考書を落としただけではなく、腰から崩れ落ちてしまった。
「先生、どったの。大丈夫?」
「大丈夫なわけ、ないだろ」
差し出された手を借りて、立ち上がった。礼を言って、教室を出た。
俺は職員室に駆け込んで、学年主任の宮先生の姿を見つけると、春川の件ですが、と訊ねた。できるだけ冷静に努めて言葉を選んだつもりだったが、俺の表情から何かを察したのだろう。宮先生は「場所を変えましょう」と前のめりな俺を制した。
職員室の隣の生物準備室に場所を移した。ここなら、まだ誰もいない。
「一体、なにがあったんですか?」
「いいですか。このことはまだほとんどの人は知りません。知っている生徒にも口止めしておいたんですが、あまり意味は無かったですかね」
「どうして」
どうして担任の俺が知らなかったのか。
どうして他の人に口止めをしているのか。
「事情があるからです。と、言っても、私もあなたも春川にとっては他人。同じ他人ですから、私の知っている限りの事情をお伝えしておきましょう。そのあとどう行動するかは、あなたにお任せします」
◆
宮先生から話を聞いて、ひとまず落ち着くことにした。
俺一人が騒いだところで誰も得をしない。
今は粛々と、次の授業の準備をしよう。今日の業務が終わったら、警察に行って、話を聞きたい。
できるだけ早く春川と話がしたかった。
先月、ウチの高校から一駅ほど離れたところにある桜庭園で殺人事件が起きた。それも、二度。被害者はウチの生徒ではなかったが、殺人事件などそうは起こらない平和な街だから、新学期が始まったばかりでもあったので、登下校時の警戒などは厳しく行なった。その後、犯人が捕まったと報道され、厳戒態勢は緩和された。
犯人が捕まって、事件が終わった。
そう、思っていた。
対岸の火事だと。自分とは関係のない話だと、そう決めつけていた。
被害者はウチの生徒ではなかったが、他校の生徒だった。それは、春川の母の連れ子、義理の兄であった。春川の父と被害者の母は内縁状態なため、たまたま春川と被害者の苗字が違った。そのため周囲に気づかれることもなく、被害者の高校生は非行集団の一員だったこともあり、春川の義兄であるという情報は伏せられた。
それにしても、担任の俺が知らないということはどういうことだ。
ならばあの生徒はどうして知っていたのか、というと彼は、その非行集団の一員だったということだ。
いずれにしろ、俺は気がかりになっていた。
春川が俺に言った言葉だ。
『私、桜、嫌いなんですよね』
『先生は、人を殺したいと、思ったことがありますか?』
春川があの頃の彼女と重なる。
今度こそ、今度こそ俺が、止めなくてはならない。
アイツと重なる春川だからこそ。
俺が彼女を見殺していいはずがない。
授業は上の空だった。教師がこうでは、生徒も勉強に身が入らないだろう。
授業を終え、部活動に顔を出し、最低限の業務を終わらせた。
身支度を整え、最寄りの警察署に急いだ。
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