第3話
春川の言葉に俺は言葉を失った。
あの時のことがフラッシュバックして、脳を揺さぶられる。
◆
「葉太はさ、人を殺したいって思ったこと、ある?」
「は? 何言ってんだよ」
当時付き合っていた彼女、菜摘が急に物騒なことを言ったもんだから、ついつい茶化してしまった。
「そう……だよね。うん、何でもない」
ドラマで好きな俳優が殺人犯の役でもやっていたのか。
その時は、特に気にならなかった。
話はそこで終わって、結果的にどうしようもない方向へ俺たちを連れていった。
◆
菜摘とは学年が上がった時にクラスが分かれてしまったけれど、休み時間の度に会いに行くほどいつでも会いたいというわけでもなかった。たまに移動教室の時にすれ違ったら挨拶をする程度。菜摘と違って俺は部活をしていたから、放課後の帰る時間も別々だったので、俺たちが付き合っていることを知っている人は少なかっただろう。
だからその時、たまたま目撃してしまった。
廊下を歩く菜摘に、わざとぶつかっていった男子生徒の姿を。
菜摘は転んで、手にしていた紙の束を落としてしまった。
ばらまかれた紙を踏みつけて、笑う男子生徒のそばには、去年同じクラスだった女子生徒も一緒に笑っていた。
「おい! なにやってんだ!」
俺はすぐに菜摘の元へと駆け付けた。
「秋田くん、どうしたの?」
笑う女子生徒は、びっくりしたように俺の名を呼ぶ。
「どうしたって……」
菜摘は俺の肩を叩く。弱く、優しく、俺に何かを気づかせるように。
「いいの。ごめんね」
ごめんねって……。どういうことだよ。
誰に対しての言葉なんだよ。あいつらは、なんなんだよ。
「ほら、授業、遅れるよ」
女子生徒は菜摘の手を引っ張って、無理やり立ち上がらせて、廊下を走っていった。
廊下に残った、足跡の付いた紙を拾って、俺は嫌な予感がした。
今日は、菜摘と一緒に帰らないといけない。
「葉太はさ、人を殺したいって思ったこと、ある?」
あの言葉の意味が、現実味を帯びてきた。
あの気弱で自分の意見すらまともに言ってくれない、お前が。
誕生日に欲しいものを聞いても、何もないよって言って、教えてくれないお前が。
自分のことよりも誰かほかの人を優先して、いつも自分が損をするお前が!
誰かを殺したい、とまで考えていることの、おかしさ。
聞き出さないといけない。
問い質さないといけない。
思い留まらせないといけない。
菜摘が俺に相談してくれたあの時、どうして茶化してしまったのだろうか。
この悔やみが、杞憂に終わればいい。
授業が終わって、菜摘のクラスに行くと、すでに生徒はまばらだった。
俺のクラスよりも終わるのが早かったらしい。
下駄箱へ急いだ。菜摘の登下校のルートを追いかける。
走れ。
クラスで菜摘は一体どういう扱いを受けているのだろうか。
走れ。
授業の合間ですら、休まるときが無かったとしたら。
走れ。
廊下という、公共の場だから気づくことができた。
逆に言えば、
学校を終えた今でさえも、菜摘が家に着くまでの間も安心できない。
何か変なことをされていないか。
何も、起こらないでくれ。
気のせいで、あってくれ……!!
下校途中の大きい交差点、信号待ちをしている菜摘の背中を見つけた。
よし、あともう少し……。
しかし、そこで見てはいけないものを見てしまった。
後ろから、菜摘の背中に手を伸ばす、男子生徒の姿を。
おい、待て。まさか。待ってくれ。
菜摘が何をしたんだ。話を聞いてくれ。俺の、話を。
「待ああぁっ!!!」
男子生徒が伸ばした手は、菜摘の小さい背中をリュックごと突いた。
ぶつかっただけでよろめいてしまう彼女の無防備な背中。
菜摘の軽い体は人ひとり分、前に飛び出してしまった。
信号待ちしていたのだから、当然信号は赤。
広い道路、紛れ込んだ異物は彼女の方だ。
大きい交差点、倒れた菜摘。何も、見えない。俺は走るしかなかった。
ま、間に合え!!!!
交差点を飛び出した。
車が来ているか。信号は赤か。そんなことは気にする余裕なんてなかった。
車が来るまでに菜摘を道に戻さなければ。
道を飛び出した時に見えたのは菜摘の驚いた顔と、車のブレーキ音。
俺は、覚悟を決めた。
歯を食いしばる。
ドン!!!!!!!
強い衝撃に吹っ飛ばされて、何も聞こえなくなった。
◆
音のない世界。
光のない世界。
ぬくもりのない世界。
時間だけが流れていた。
菜摘は、大丈夫だっただろうか。
俺は、生きているのだろうか。
菜摘は……。
◆
後から聞いた話だが、一時は集中治療室へ運ばれた。
全身を強く打って意識不明な状態。
車は俺にぶつかって軌道を変え、その直前に道に倒れていた菜摘は無傷で助かったという。
菜摘は、突然背中を押されたとして警察に相談したが、目撃者はおらず、事件性は無いと判断されたと。
集中治療室に面会に来た彼女は、俺の手を握った。
「……絶対に、許さないから」
その弱弱しい声は、強い決意を秘めていた。
その決意は、眠る俺の耳には届かなかった。
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