4.
「あの席さ、すっごい眠くならない?」
「そうだね」
昼間の太陽を思い出して、あることに気がついた私は「あ、」と声を漏らした。
「暖房、付けなくて平気?」
化学室は、廊下と同じくらいに冷たい空気で満たされていた。クラスの女子が来たら、きっと大騒ぎをするだろうなと思う。けれど、瀬川君は頷いて「平気」と言った。
「いつも教室、ちょっと暑すぎるよね」
誰かからそういう意見を聞くのは初めてだった。
「……うん」
「この教室の空気の方が、僕はけっこう好きかも」
「寒いのが好きってこと?」
「うーん。寒いっていうよりも、朝の空気に似てるでしょ、ここ」
「朝?」
太陽もまともに当たらないのに、と私は眉を顰めた。すると瀬川君はそれに答えるように言う。
「朝っていうか、明け方かな」
その言葉に、私は少し困ってしまった。
「……私、朝って苦手だから、あんまり分からないな」
「あれ、そうなの。意外?」
「意外?」
「相沢さん、早起き得意そうだから」
プリントは、ほとんど小学校レベルの計算式だった。
「そんなことないよ。私、寝るの遅いから起きられないし」
少し腹が立ったような気分になったのは、そのプリントの所為だと思った。
「なるほどね。遅くまで勉強してるの?」
「……そんなんじゃないよ」
ばき、とシャーペンの芯が折れる。その音がやけに大きく響いて、私は我に返って顔を上げた。
「あぁ、ごめん」
態度が悪いのは明らかに私だったのに、謝ったのは瀬川君だった。
「気に障ること言っちゃった?」
彼は申し訳なさそうに笑った。
「ううん。……あのさ、瀬川君は」
「ん?」
「……私が真面目だって思う?」
意思とは関係ないどこかから、そんな声が出た。目の前で瀬川君が驚いたような顔をしているのを見て、私は何を言っているのだろうと恥ずかしくなる。
「みんなそうやって言う、から」
取り繕うには声が震えすぎていたし、自惚れた台詞だなと思った。
「あー、うん。確かに、相沢さんの印象はそうかも。クラスで成績一番でしょ」
「……私、真面目なんかじゃないよ」
「どうしてそう思うの?」
本当はこんな補習、意味がないと思っている。勉強なんか好きじゃない。朝起きるのも、学校に来るのも、本当はしたくない。
でも、やるべきことだ。
そうやって自分に言い聞かせて過ごすうちに、「真面目だね」と嗤われる。時々、それがものすごく嫌になる。
本気で言っているのならそれは私には不釣り合いだし、からかっているのなら私はその言葉を冒涜していることになる。
私はやるべきことをやっているだけだと、そっちがやらないだけだと、叫んで、突き飛ばしたくなる。
「……こういうプリント、丸めて捨てたくなったりするし」
いろいろなことを隠して、それだけ言った私に、瀬川君は笑った。そして、「じゃあ、やってみようよ」と言った。
彼は自分のプリントの名前の欄に消しゴムを滑らせて、書いてあった名前を消す。それからプリントを少し無造作に私の前へ追いやって、
「捨てていいよ、持ち主不明のゴミだから」
と笑った。まるでいたずらを思いついた子どものようだった。
「え、でも」
戸惑う私の前で、瀬川君は紙を丸めてごみ箱へ投げるジェスチャーをした。
速くなる心臓の音に覚えがあった。その鼓動は、初めて夜更かしをした夜と同じ速さだった。
私はプリントを握りしめる。かさかさと手の中で潰れていく感触がした。さっきの瀬川君を真似て振りかぶる。私が投げた紙屑は、ごみ箱に吸い込まれた。
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