3.
北校舎の一階廊下は、人の気配がなく静まり返っていた。一番奥にある化学室の手前には美術室があって、廊下の端には美術部の生徒が描いたであろう大きな絵画が立てかけられて並んでいる。
日の当たらない廊下に冷たい風が通り抜けた。夜風に似ている。少しだけそう思った。いくつかの絵画から視線を感じたような気がして、私は足を速めた。
化学室のドアを開けると、席に座った男子生徒の背中が一つだけあった。そして、その男子はすぐに私を振り仰ぐ。
「相沢さん」
出席番号や「あんた」以外で呼ばれるのは、なんだか久しぶりな感じがした。
「……誰も来てないかと思った」
「僕は相沢さんなら来るかなって思ってたよ」
考えていたことを思わず口に出してしまった私に、瀬川君は微笑みながらそう返す。どうしてそんな風に思ったのか尋ねるのは、やめておいた。
「古川先生は?」
「さっき職員室に行くって出てった。職員会議があるの忘れてたみたいだよ」
「えぇ……」
「いい加減だよね、あの先生」
私は返事を濁して、瀬川君の座る机の向かい側まで移動して、彼の手元に目をやった。計算プリントが二枚、そのうちの一枚に彼の名前が書いてある。
「帰ろうと思わなかったんだ。他の誰も来てないし、先生だっていないのに」
「言ったでしょ。相沢さんが来ると思ったって。それで、これ渡さないとなって思って」
瀬川君はプリントを私の方へ差し出した。
「職員会議、何時に終わるかな」
ほとんど独り言のような私の言葉に、彼は少し不思議そうな顔をして「なんで?」と言った。
「これ、提出するでしょ」
「出さなくていいって」
「え?」
「先生がそう言ってた」
「……」
じゃあ、何の意味があるの。
頭に浮かんだそんな疑問を、すぐになかったことにした。自分が居眠りをした。補習を受けることになった。必要なのはそれだけで、意味なんて考えなくていい。
私は席に座って、筆記用具を出した。視界の外で瀬川君が驚く気配がする。
「帰ってもいいよ。電気も消しておくし、鍵も私が閉めるから」
氏名の欄を埋めながら私は言った。瀬川君は数秒黙ってから、口を開いた。
「いや、……うん、僕もやっていこうかな」
しばらく、秒針の小さな音とシャーペンの先が机にぶつかる音だけが流れていたけれど、ふと瀬川君が声を出す。
「何か、喋ってもいい?」
手を止めて、顔を上げる。
「何かって?」
「ほら、別に授業中じゃないんだし。話しながらやらない? ってこと」
咄嗟に断る理由が出てこなくて、「いいよ」と返す。
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