4-5 音楽の守護者
十日間。
たったの十日間が、パーシィの人生を大きく変えてしまった。
治らないとまで言われた熱病を治してくれたのは、善き魔女だという。
十三歳の彼を迎えたのは、半分だけ音のない世界だった。
ジュビリア大陸の西岸、波の音が国の音とまで言われるコルシェン王国で、彼は右耳の聴力を失った。世継ぎの王子の身に起きた不幸に、城中がざわめいた。それすらも彼には届きにくくなった。
それまで存在していたはずの世界が右側からごっそりと奪い取られてしまったような感覚だ。
左側には確実に音が、世界が息づいているというのに。
双眸に映る色がどんどんとくすんでいく錯覚さえ覚えた。
ああ、覚えている。あの絶望を。
パーシィは不明瞭な意識の中で、悲しい過去を手繰り寄せてじっと見つめた。
右の聴覚を失ったかわいそうな王子は、そのまま自分の殻に閉じこもった。
それまで重ねてきたやんちゃも止めたし、数少ない友人とも会わなくなった。
父王がモルフェシアから取り寄せたという補聴器は、当初なんの効力も発揮しなかった。
空の一番濃い青をした宝石と四枚の羽根が美しいだけの、ただの耳飾りだった。
痛い思いをしてまで開けた耳の穴が無駄になったと思い、余計に惨めであった。
それに命を吹き込んでくれて、無味乾燥な世界に色を取り戻してくれたのが、彼女だった。
***
それは、世界の色彩を濁りなく取り出したような、美しい歌声だった。
それは、パーシィの右耳に再び音の世界をもたらしてくれた。
若き王子は、感謝の念とともに、本物の魔法に心を奪われた。
だれが歌っているんだろう。
療養中の身ではあったが、パーシィはこっそりとベッドを抜け出した。
寝巻に軽いマントを羽織り、好奇心の向くまま耳飾りの聴かせてくれるままに歌声をたどる。
少年が行き着いた先、水辺には亜麻色の髪の乙女がいた。
彼女は河岸に腰を下ろして、長い髪と左手で風と戯れていた。
その姿はまるで物語の人魚のようだった。確かにこの川は海へと繋がっている。
「君は?」
歌が途切れ、少女は振り向いた。
緊張か羞恥か、はたまた日焼けか。いずれにせよ、彼女は頬を真っ赤に染めていた。
そして急に立ちあがると、生成りのローブを翻して走り去ってしまった。
たったの一瞬だった。しかし、コルシェンの海を写し取ったような美しいエメラルドの瞳と、愛らしい顔立ちは、パーシィの心を捉えてしまった。
「殿下。それは、私の娘です」
パーシィの体を診てくれている時に、魔女のヴァイオレットが言った。
「あの子の力は人一倍。けれども恥ずかしがり屋でいえば、二倍も三倍にも」
「だが、君の娘が僕の耳を治してくれた。この礼は直接言いたい」
そう頼んだ次の日、娘は王子の部屋に連れられてきた。
聞けば、パーシィと同じく十三歳だという。しかし母親の背中から一向に出てきてくれない。
「セシリア! 殿下の前で恥ずかしい。しゃんとなさい」
ヴァイオレットに叱咤され、少女はおそるおそる出てきた。
ふわふわの亜麻色の髪が包む愛らしい相貌の真ん中で、桃色のくちびるがずっとまごついている。あの宝石のような瞳をもっと見たいのに、なかなか合わせてはくれない。
「セシリアというのか。ありがとう。僕の耳を治してくれて」
パーシィが彼女の手をとり顔を覗き込むと、女は悲鳴に似た声をあげてぺこりと頭を下げた。
その瞬間、少年の心臓に衝撃が走り呼吸がにわかに浅くなった。少しめまいを覚えるほどだ。
ふらついた王子はあれよあれよという間に座らされ、ベッドに寝かされてしまった。
そうしているうちに彼女は退室してしまった。
エメラルドの魔女、セシリア。
それから、何かにつけて彼女を呼びつけたり、探しに行った。
探すのは難しくなかった。なにせ、あの若い魔女の歌声は、どこにいても聴こえたから。
彼女との長くて短い夏は、波が煌めいて眩しかった。
そしてあの日、教会堂に連れて行った。
ずっと、言おうと思っていたんだ。
***
「セシリア……、僕と……」
「えい」
ぺち、とパーシィの頬に何かが当たった。
瞼を閉じているのに、世界の明るさだけは真っ白に感じる。
さざ波の音楽が遠のく彼方から、甘やかな夢はまだ彼に向かって手招きしている。
青年はごろりと寝がえりを打って日差しから逃げた。
今、自分の腕の中には、夢にまで見た初恋の人、抱き締めたかった娘がいるのだ。
「いや、オレだから。起きろ」
パーシィがいやいや薄目を開けると、視界に亜麻色と碧色が飛び込んできた。
しかも、目の前の人物は青年の瞳を指で無理やりにこじ開けてきた。
「はい。残念でした。かっこいいセシルくんです。いい加減に起きろよな。先に降りてるぞ」
短髪の少年はそう言うと、彼を抱きしめていた探偵の腕を乱暴に引きはがして、ベッドから飛び降りた。そして、扉を開けっ放しにして出て行ってしまった。
パーシィの左耳にメイドたちが食器を並べる音と少年の元気な挨拶が聞こえてくる。
バーバラが豪快に笑うのをフィリナが咎め、ニールが料理が出来たと声を上げている。
ナズレはいつどこであってもだんまり。そんないつもの音風景も一緒だ。
それから、ほぼ無意識に右耳に〈マナの耳飾り〉をつけた。
音が全身のものとなるのは、いつだって安心するものだった。
***
八つ目の〈マナの歌〉、〈翼のファンタジー〉が奏でられフォルトゥーネシステムは消えた。
乙女の墓標が並ぶ天空城ヘオフォニアは、とたんに乙女の園に早変わりした。
と、その場に立ち会ったジャスティンからあとで聞いた。
ある少女は、自慢のポニーテールがショートヘアになっていて大層驚いていたらしい。
メルヴィンは父チャリオットと精神的に決別し、兄の元に身を寄せたという。
大公家の兄弟は、乙女たちと共にすっかり意気消沈したチャリオットとベラドンナを回収。
かつて女神であった魔女たちはパーシィの妹――コルシェン王国王太子のスヴェンナ王女を介して、故郷であるダ・マスケに送られた。
あまりにも長い時間が経ちすぎて身寄りのない娘もいるだろうが、文明国家にいるよりかは生きやすいだろう。こう考えたのはセシルだった。
「ダ・マスケって時が止まってるんだよ! ケルムと比べたら、ダ・マスケでの生活なんて埃を被って黴が生えたようなものだし。それにお婆ちゃんならうまくやってくれるでしょ」
元大公チャリオットは、後妻のアイナ・スパーク――通称ベラドンナに重傷を負わせた罪で起訴され、アンバー・ガーデンから二人して牢獄へと身元を移された。
「正確には罪名がつけにくい」
と、眉を傾けたのは現大公のジャスティン・クール・ド・ジェブランである。
「世界が魔法を忘れて、何百年と経っている。フォルトゥーネシステムを知らない人間には、立会人の権利を侵害した、と言ったところでわかるわけがないんだ。とにかく父上には、息子たちの信頼を裏切った罪の重さを噛みしめてもらうさ」
裏切られた息子の一人メルヴィンは、両手で持てる最大の花束を抱えてグウェンドソン邸に現れた。扉を開けるなり少年と共に薔薇の香りが花開きメイドの姉妹が揃って口に手を当てた。
「セシル。僕にチャンスをくれてありがとう。まずは傷つけてしまったお詫びを言いたくて。僕は知らずに君を魔女ではないと否定してしまった。許してほしい」
「あ、うん。気に、しないで……」
魔少年はそのとき、大層後悔したらしい。
なぜなら彼はかつらも付けず女装もしないまま、ベルに応じてしまった矢先だったからだ。
「君は、なんて……! なんて優しいんだ……! あのとき、僕は己のわがままを優先して、君の大切な人を傷つけようとしたのに。それなのに……!」
許しを得た貴公子の感極まった顔は、メイドたちが何度も口にするほど感動的だったそうだ。
「メルヴィン……オレ……ほんとは……」
友人がわかっている、とばかりに満面の笑みで頷くから、また大変だったそうだ。
「ああ。ケルムと違ってダ・マスケの村では服装や言動における男女の差がないんだろうね。君の素敵な髪がかつらだったのには心底驚いたけど、大丈夫。短いのも似合っているよ。また日を改めて」
結局、本当は男だと告げる前に、若き侯爵メルヴィン・スパークは去ってしまった。
その後セシルはすぐにメイドから電話を手渡された。それはもう一人の友人からだった。
「セシル! ああ……無事でしたのね。何があったかは知りませんけれど、あなたが無事ならいいのです――」
「セシーリャ! エマニュエッラから聞いたわ! 誘拐ですって! ひどいことはされなかった? あと、エスパディアのお土産があるのよ! お体が良くなったら、またお出かけしましょう!」
学友の娘たち――エマニュエラとデリーツィアは、一つしかない受話器を奪いあいながら、電話越しでしきりにセシルを見舞ってくれた。その後にはダ・マスケの両親からセシルとリアを見舞う声があったそうだ。
「お忙しそうでしたわ」
と、メイド長が告げるのを聞いて、面白半分で探偵も見物しに廊下に降りてみた。
そこでパーシィが見たのは、嬉しいやらくすぐったいやら、なんだかんだと頬を持ち上げているセシルだった。
***
天空城はフォベトラ城の上にぽっかりと浮かんだままだ。相変わらず影を落とすことなく存在している。プリマヴェラ氏はヘオフォニアを新たな観光名所にできないかとジャスティンにもちかけているらしい。しかし、これまたセシルがジャスティンを通して断り続けていた。
〈雄牛の月〉十四日。
パーシィはセシルと遅めの朝食を終えると、ドメルディ空港から私物の高速艇レスターテに乗り込んだ。プリマヴェラ社の社員が運転士を務めているが、その隣にはナズレがいた。ゆくゆくは自分で舵を取る気らしい。
「二時間後に来てくれ」
探偵と助手はヘオフォニアに降り立つと、レスターテを帰した。
はるかな時を越えてきた白い城は、相変わらず緑に包まれている。
夏も盛りで、生えっぱなしの草花も以前よりも背を伸ばしているようにも見える。
「よいしょっと」
高速艇が見えなくなると少年はうっすらと透ける乳白色の翼をどこからともなく取り出した。
そして透明な翼を大きく広げると、ため息をついた。
「あー。また、なんかあそこらへんでズレてる感じする……」
そうひとりごちると、口早に〈水のバルカローレ〉を紡いで、そっとあたりに散らした。
パーシィはただ眺めるだけだ。
「本当にフォルトゥーネが消えたのかどうか。それから僕と君、どちらが助手なのかわからなくなるな」
そう言って蜂蜜色の髪を揺らしてくすくす笑っていると、セシルは肩を怒らせ憤慨した。
「いままでのフォルトゥーネシステムは無くなった、ってことかな。〈マナの柱〉は移動しない限りケルムにあるし、大半の機械もコアにマナストーンがあるんだから。誰かが調節してやらないといけない」
「〈運命の翼〉はヘオフォニア城に宿ったんだろう? 勝手にはやってくれないのか?」
セシルは鼻息を鋭く吐き出した。
「ヘオフォニアが魔女たちの記憶を持っていても肝心の城に喉が無いから。歌えないんだからな、しょうがない」
いまや、少年の言うことだけが、天空城ヘオフォニアの実態への近道だった。
フォルトゥーネシステムは、女神の後継者に関する記憶をすべて奪い去るものだった。
そして、魂は〈運命の翼〉へと格納され、マナストーン化した魔女の体はどんどんヘオフォニアに安置された。
女神フォルトゥーネを生み出すサイクルが消えたのは本当だ。
だが〈運命の翼〉はヘオフォニアそのものに宿り、セシルの翼は消えなかった。
どういうわけかというと、長い年月の間、ヘオフォニア自体に意識が芽生え、魔女を見守りつづけた記憶があったと言う事らしい。
「〈翼〉は記憶の器だから。そうじゃないと〈運命の翼〉が依り代にできないと思う。リアが目覚めてくれればいいんだけどさ……」
フォルトゥーネであった少女リアは、肉体は取り戻したものの、結晶化した乙女たちの中でただ一人目覚めなかった。翼の癒着が激しかったからかもしれない、とセシルは言った。
彼女の体はグウェンドソン邸に寝かされており、モルフェシア公ジャスティンのたっての希望で、国で一番の医者をあてがわれている。
見舞いに来た彼は言った。
「待つさ。いつか、僕の運命を告げてくれるまで」
それを聞いたセシルの脳裏に〈運命の
いつだか学友の少女エマが自分をそう揶揄したのだそうだ。
少年は、ケルムを見下ろしてもう一つため息をついた。
「あーあ。夢の前に、夢みたいな力を手に入れちゃったな……」
そしてその場に腰を下ろした。ふかふかの緑が彼を優しく抱きとめた。
「なんか、ぽかんとする」
パーシィもセシルの隣にパーシィも行き、揃って腰を落ち着ける。
「不思議なものだな。僕も同じことを思っていた」
「なにが?」
「〈記憶の君〉――セシリアのことを取り戻したのに、なんだか物足りないんだ」
二人は互いの顔を見ずに、ぼんやりと空に向かって言葉を投げていた。
「夢が叶ったはずなのに、心にぽっかりと穴が開いたままで――」
「いいじゃん、パーシィは。リアが目覚めたらハッピーエンド。でもオレは……」
珍しくセシルの声がしぼむ。
パーシィは「らしくないぞ」の代わりに右ひじで彼の脇腹を小突いた。
「君の夢は本物の彼女に――セシリアに会うことだったろう? あるいは天空城に来ること」
「オレ気付いたんだよね。そのどっちも夢じゃなかったって」
そう言われてしまえば、仕方がない。
青年と少年は、折った膝を沈黙と共に、思い思いに抱えた。
モルフェシア全域を見渡せる天空の城。
それを二人占めしている贅沢さを忘れて黙りこくる。
風が乱暴に揺らす〈マナの耳飾り〉の、羽根がちりちりと擦れ合う音が耳にも涼しい。
標高が高いのに夏草の匂いがする。と、ぼんやりパーシィが思っているときだった。
「あの、あのさ」
セシルが、思いつめた調子で切り出した。
「もし、もしもだぞ。パーシィさえよければ……」
青年は名を呼ばれたので、彼のほうへちらりと顔を傾けた。
パーシィはセシルの横顔に、はっとした。
〈記憶の君〉を重ねて女装を強いてきた少年はこの半年で見違えるほど逞しくなった。
まろやかな輪郭にあどけなさが残りつつも、大人の男へと一歩ずつ近づいている。
それはかつて失いそうになっていた〈記憶の君〉セシリアとは似ても似つかない。
おもむろに彼と目が合った。パーシィの視線に気づいたようだ。
「この国で、本当の夢を探してみたいんだ」
そう言うと少年は体に反動をつけて思い切りよく立ち上がった。
そして腰についた雑草を景気良くぱんぱんとはたき落とすと、パーシィに向き直った。
「一緒にどう?」
きらきらと輝くエメラルドの瞳が青年をまっすぐに貫いている。
魔法に満ちた色から、目が離せない。
セシルの引き結ばれた口元が、期待に持ち上がっている。
「悪くない話だ!」
自分もきっと、同じ顔をしているに違いない。
探偵王子とフォルトゥーネは、拳と拳とをぶつけ合った。
Fine.
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