第三楽章 春の嵐-Scherzo-

3-1 二人きりの朝

〈雄牛の月〉一日。 開け放たれた玄関のドアから、青草の匂いが風に乗って屋敷に入り込む。

 四角くて眩い光に誘われて顔を外へ出すと、ぽっかりと青い空が世界を覆っている。

 誰もが夏の足音を近くに感じる、思わず微笑んでしまうような素晴らしい朝だ。


「本当に大丈夫ですか? 三週間もお休みを頂戴して……」


「大丈夫だって!」


 申し訳なさそうにそわそわしているメイド長フィリナの肩を、妹のバーバラが思い切り抱く。


「今年はセシル様もいるし、心配しないの! ねえねえ姉さん、コルシェンから戻っても時間あるよ! せっかくだし、博物館にこもろうよ!」


 姉は薄桃色の足首が見えるロングワンピースを、妹はサロペットに小ざっぱりとしたジャケットを着ている。女学生でもあるバーバラはともかく、フィリナの私服など珍しくてこちらがそわそわしてしまう。あと、もう一つ。見送るセシルは、少し冷ややかに目を細めた。


「バーバラさんは男装?」


「いいえっ。女性物ですよ。このほうが動きやすいんです」


「オレもそう思う」


 そう怒らないで、と少年を宥める娘たちの隣で、料理人ニールがあっけらかんと笑う。


「セシル様だって夏休みは好きな服を着たらいいんすよ!」


 罪悪感のかけらも持たないらしい彼は、パーシィのお下がりのディットーズ――上下共布のスーツを着ている。料理人は得意げに帽子を上げた。


「じゃ、ありがたく行ってきます。せっかくなんで、新しいスパイスでも探してくるッす!」


「ああ」


 パーシィが軽く頷いた。


「旦那様」


 使用人の中で、最も浮かない顔をしている男が、主君にノートを差し出していた。

 それはもちろん、執事のナズレだった。彼はいつもの背広姿だ。


「旦那様。こちらが食事のスケジュールです。今日はターク通りにあるコルシェン料理の店を予約してあります。明日の昼はそちらへ。ランドリーはいつもの――」


 パーシィが執事の鼻先へ黙って手のひらを見せつける。


「ナズレ。ここに書いてあるんだろう?」


 陶器のように美しい横顔に少し滲んだ倦厭の色に心当たりがあって、セシルはくすりとした。

 ナズレさんも心配性だよな。オレの母さんみたい。


「ええ、ですが……」


「なに。二人でなら、大丈夫さ」


 探偵が、同意の視線を助手の少年に送ってきたのでセシルは明後日を向いた。

 どうだか。少しの不安を残して、二人きりの夏休みが始まった。


***


「うっ」


 その時、眠っていたセシルの布団の上に、突如どすんと小さな物が落ちてきた。

 何度も何度も場所を変えて飛び跳ねている。


「……わかったって。起きるって……」


 うんざりしながら体を起こした。寝違えたのか、首から肩にかけてがやけに重たい。

 彼が動き出したのを、真っ白な子狐のアルプは喉を鳴らして喜んだ。

 狐の体質がそうだったかはさておき、この子はそうするのだ。

 そうセシルは事実を認識していた。そもそも、火を吐くぐらいだしな。

 右手が頭を掻きむしる。一方、左手は静かな朝が正確には何時かを確かめる。八時だ。

 なかなか開かない目で見たカレンダーは〈雄牛の月〉八日火曜日。

 使用人たちを送り出してから一週間目の、七回目の朝である。

 濁っている意識をクリアにするため、思い切りカーテンを開けた。

 抜けるような青が目に突き刺さって痛い。

 それから逃げるようにして、のそのそと半そでのシャツとズボンに四肢を通す。

 そのあと、姿見を覗き込んで、いい加減な手つきで髪の毛に手櫛を通した。


「リア」


 じいっと見つめても、そこには短い髪をあちこちにはねさせた少年しかいない。

 角度を変えるが、足元で見上げているアルプが映るだけだ。

 セシルは、ふんっと思い切り鼻を鳴らすとそのまま部屋を後にした。


***


 使用人がいない分の湯沸かしや朝食をどうするか。

 それはほとんどセシルの手にかかっていた。大丈夫って言った人は働かないのかよ。

 実際、高貴なる青年に一度任せたこともある。しかし、朝食を待っているうちに昼を迎えた。

 それならと、結局少年が朝の支度を引き受けたのだった。ナズレさんが気を揉むわけだよ。

 けれどもそれ以外――昼食はどこかしらのカフェが、晩餐はレストランが、全てナズレによって予約されていた。シーツやタオルも、いつものクリーニング会社が回収に来てくれることになっている。湯沸かしは、最新の急速湯沸かし器があったので、さほど困らない。

 けれど、ガスコンロに火をつけて竈を温めるのは時間がかかっていつも億劫だった。

 マナの力を扱えるセシルにとってはなおのことそうだった。


「誰も見てないし、いいよね」


 しかし、大きなパンの塊を効率よく温めるにはこうするほかない。

 リアもいないし。セシルはひとりごちると右の人差し指を立てた。

 寝起きで乾いていたくちびるを舐めてからすぼめた。

 小さな空気孔アパーチュアから息を細く吹きだすと、ぴい、と涼しい笛の音が鳴った。

 セシルが奏でる口笛のご機嫌なフレーズを聴きとめて、アンダーステアーズの台所に、小鳥が一羽迷い込んできた。真っ黒でまん丸の体に橙色の嘴を持つ、クロウタドリだ。てんてんと体ごと飛び跳ねてみては、大きな独り言を言って、早足でまた別の日向に行く。愉快な仲間ができて、少年はくすりと笑った。

 そうして口笛でメロディをなぞっていると、セシルの指の先にちりちりとした暖かさが集まってきた。それはやがて微かな光の粒になり、小さな太陽のように赤々と燃えだした。


「オ・フォーコ・ユマラ・マナ」


 小さく呟くと、指先に蓄えられていた光が膨張した。途端に熱をもった光の玉を慌てて石窯の中に放り込む。すると光は中の薪に住処を見つけ、赤々とご機嫌に燃えだした。これで数分で暖まるだろう。冷や汗を拭う。


「あっつかった……」


「その言語をマスターすれば魔法が使えるのか?」


 ため息をついた少年の後ろからふいに声がして、セシルは飛び上がった。

 振り向かずとも、誰かはわかった。この家には今、二人しかいないのだから。


「ちょっと、パーシィ! 朝ごはんはオレがやるから別に降りてこなくていいって」


「さすがに勉強した。協力したほうが早いだろう?」


「いや、かえって邪魔」


「そうか?」


「やったことないだろ、こういうの」


 そうだな、とパーシィが思案するのを、セシルは遮る。


「きっとオレのほうがやってる。お婆ちゃんの手伝いとかしてたし」


「なるほどな」


 白いシャツの探偵は首を傾げた。蜂蜜色の髪が金のカーテンのように揺れる。


「ではせっかくだし、メイドのお仕着せでも着るかい?」


 セシルは思い切り顔をゆがめた。


「それは嫌」


 クロウタドリは、机の下でアルプに見つかって大慌てで逃げ出した。


***


 パン、卵、ベーコンなど、色んなものを焼いただけの静かな朝食が食卓に広がる。

 日頃配膳をしてくれるメイドたちがいないので、それら一人分をトレイにのせて、手分けをしてアンダーステアーズから持ってきた。

 正餐室でも良かったのだが、今日は日当たりのよい窓辺で丸テーブルを囲んだ。

 アルプはセシルの足元でミルクで湿ったパンくずにがっついている。

 あらゆる貯蔵品にはニールによるメモ紙が添えられていて、据え置きのノートにはどう調理すると美味かまで解るようになっていた。パンに至っては、朝食のレシピのみならず、アフタヌーンティー用の説明まである。

 言いつけどおりにすると、専門家のそれとまではいかないが、なかなか悪くない仕上がりになるのだった。セシルは舌を巻いた。


「あちこちにノートがあるんだけど、すごいね」


 そう言いながら暖かいハニーミルクを突きだすと、パーシィは何も言わずに受け取った。


「一人になるのが好きなんだ。それで使用人を放り出すのが常でね。悪い主人だと、ナズレに叱られている」


 青年がくすりと笑ったのがあまりにも自然すぎて、セシルは目をしばたたかせた。

 整った相貌はカメオのように美しく動かない。それが常だったはずだ。

 思えば、ここのところ随分と雰囲気が和らいだような気がする。


「ふうん」


 セシルは気付きを努めて気にしないようにしながら、目玉焼きを乗せたパンにかじりついた。

 白身がなかなか噛みきれない。焼きすぎだ。


「それよりも、だ。さっきははぐらかされたが――」


「はぐらかしてない」


 セシルは口の中もそのままに言った。飲み込むよりも大事だと思ったからだ。


「失敬。答えてもらい損ねた、が正しいか。君がときおり歌っているのは――」


「〈六つのマナの歌〉」


 今度は飲み下してから言った。


「そう。〈マナの歌〉は魔法なんだな?」


 青年は質問を吐ききった口にサラダを運んだ。


「うん。前にも言ったけど、このへん――あちこちに色んなマナが散らばってる。それを寄せ集めるために歌うんだ。エルジェの森みたくそもそも土のマナが多いところだとそりゃあもう大合唱になるよね」


「歌と言うからには、歌詞があるのか? 呪文に当たるような」


「呪文ぅ?」


 セシルは思わず噴き出した。急にけたけた笑い出したので、パーシィは驚いたようだ。

 ビー玉のような澄んだ瞳が見開かれている。


「いや、〈非魔ディマジカ〉にはそう聞こえてるのか。でもあれはただの古い言葉だよ。〈マナの歌〉の中にしか残ってない、文字もない言葉。なんて言ったらいいかな……」


 セシルとパーシィが常用しているのはモルフモルフィッシュ――ジュビリア大陸の公用語で、同大陸にあるコルシェン王国とモルフェシア大公国の共通語だ。外国語の習熟度は留学希望者をふるい落とすと聞いたが、その点でセシルは大いに助けられた。さらに言えば、片田舎出身の少年には魔法の言語と比べられるような外国語の知識はほとんどなかった。


「ふむ?」


 青年はまだ不可解そうに眉をひそめている。少年も眉を寄せ、虚空に両手を泳がせた。


「〈マナの歌〉は、メロディと言葉に分けられるんだけど、そこらじゅうに散らばってるマナを気付かせるのは音楽の方で、そのマナを方向づけるのが言葉っていうか。要は、マナに命令してるんだよ」


「炎よ燃えろ、と?」


「さっきの? さっきのは炎にオレの言う事を聞けって言ってた。うーん、ちょっと違うか? 語尾変格とかあって、なんかこう、違うんだよ。正確に訳すのって面倒だな……」


「……そうか」


 そう呟くと青年は、空色の視線を落として食べるのに専念しだした。

 せっかく火を通した朝食が冷めるのは、自分の頑張りを無碍にするような気持ちがするので、セシルもそろって手と口を動かす。

 二人が黙ると静かになった。うららかな朝の風景に、食事の微かな音が添えられる。

 こうして近くで食事を摂ると、確かに相手の事を意識してしまう。

 少年はぬるくなったハニーミルクで口の中を洗った。乳臭さが鼻に抜ける。


「てか、オレも前から聞きたかったんだけど――」


 ナプキンで口元を拭うパーシィが、ふと視線を上げた。


「なんでパーシィは〈マナの歌〉の音楽が聴こえるわけ? 〈非魔ディマジカ〉には術者の声しか聴こえないはずだけど」


 オレが下手なだけかな。セシルが首を傾げていると、パーシィは席を立った。

 気付けば、彼の皿はどれも空になっていた。


「そうだな。その話もしなくてはいけない。今日はこれから、時間はあるか?」


***


 セシルは、この半年、全くしてこなかった皿洗いを懐かしく思いながら済ませると、その足でパーシィの書斎に向かった。去り際、戸棚の中にクッキーの缶を見つけたのでちゃっかり持ちだし、台所を後にした。その後ろを、小さな狐がよちよちとついてくる気配がずっとあった。

 薄暗いアンダーステアーズから廊下に出ると、うっすらとした寒気を感じた。気温ならば、陽の差さぬ台所の方が低いはずなのに、と少年は首を傾げたが、すぐに理由に気がついた。

 右を見ても左を見ても、もちろん耳を澄ませても人の気配がないのだ。

 自分のまばたきの音が大きく聞こえる。

 使用人たちのいないグウェンドソン邸は、不気味なほど静かだった。

 パーシィの希望で少数精鋭に絞られている彼らは、背負った役割を果たすべく、常に主人のためにどこかで働いているものだ。だから今もゆっくりと廊下を歩いていると、誰かがひょっこり顔を出しそうな気がする。フィリナが曲がり角から早足で現れそうだし、玄関へバーバラが忘れ物を取りに来そうな気もする。かと思えば、ニールが買い付けから戻る足音が急にしそうだし、階上の探偵の書斎に辿り着けば、ナズレが音もなく扉を開けてくれる気持ちがした。

 セシルはノックもせずに書斎の扉を開けた。


「……あれ?」


 建物の東側に位置する書斎に、主人の姿は見当たらない。

 薄いカーテンが揺れて陽光を白く誘っているだけだ。少年はにわかに不安になった。

 よもや彼までもいなくなったのかと、背筋が涼しくなる。

 ゆっくりとあたりを窺いながら窓辺を、そして書きもの机の近くに男の姿を求める。


「どうかしたかい?」


「うわあ!」


 少年が驚くのも無理はなかった。

 パーシィはかがんでいて、書きもの机の影にすっかり隠れていたのだ。


「い、いたなら言ってよ!」


 膝をつく青年がちらと不機嫌そうに見て、言う。


「そっちこそ、いると知りながらノックも無しにに入ってきたんだろう? ところで『モルフェシアのラ・フォリア』という本を見つけてくれないか。見当たらないんだ」


***


 二人は書斎にあるもう一つの応接用の机に『モルフェシアのラ・フォリア』をはじめ、あらゆる資料を持ちよって広げた。

 子ども用のベッドほどの空間に、色とりどりの情報が所狭しと集まった。

 お互いの情報を共有するのに果たして書物が必要なのだろうか。

 少年は強いられた労力ごと少し呪った。結局、件の本は貸していたバーバラの枕元にあったため、見つけるまでに数十分を要したのだ。


「先日のレポートの写しはあるか?」


 ソファに腰掛けて一息ついたパーシィが、腰に手を当てて立つセシルに問う。


「失敗したやつと、下書きなら。バーバラさんに借りたのもある。あと、クッキー」


「クッキー?」


 青年は眉を上げた。


「お茶もなしに?」


「話に疲れたら持ってくる」


「そうしてくれ。気分転換に着替えもあるぞ」


 パーシィはどこからともなくメイドの服――紺色のお仕着せをひらりと持ちだした。

 セシルが思い切り顔を歪めると、彼はくすりとした。


「なに、冗談さ。まずは、君から始めてくれ、セシル」


「んー。いいけど、魔法の仕組みも〈六つのマナの歌〉も古い言葉ももう話したよな……」


 魔少年の持ち合わせている情報は、さほどないように思われた。

 なにせ〈手紙を書く女〉事件を追ううちにダ・マスケの魔女、その魔法のなんたるかを大方話してしまっていたからだ。美しき探偵の期待に満ちた眼差しに応えることなどできない。

 だが、一つだけ心当たりが見つかった。思わず唾を飲み込む。


「あのさ……。信じてもらえるかわかんないんだけど――」


 青年は無表情にきょとんとした。口が動いている理由は簡単。手にしたクッキーのせいだ。


「ちょっと。人が真面目に話そうとしてるのに」


「長い話になるだろう。それで?」


 少年はため息と共に肩を下ろした。力んでいたのはこちらだけとはなんだか馬鹿らしい。

 けれども緊張はしかたない、とセシルは思った。

 彼女の事を話すのは、ヴァイオレット以来、実に十年ぶりの事なのだ。


「これ、見て」


 セシルは腕時計のベルトを外し、それをパーシィに手渡した。

 探偵はハンカチーフで丁寧に指先を拭ってから、それを受け取った。


「綺麗な腕時計だ。ガラスはサファイアガラスだね」


「うん。父さんがくれたんだ。宝物。それでさ。硝子に何が映ってるか、教えてくんない?」


 青年は訝しげな視線をセシルにちらりとくれてから、時計を観察した。

 ときおり角度を変えながら、慎重に。


「硝子には僕の顔が映っている。それからこの部屋も。これが君の欲しかった答えかい?」


 セシルは頷いて、確認に視線を交わらせてきた探偵を肯定した。


「普通は、そうなんだよね」


「普通? では、魔女の系譜ならば――」


 けれど、それはやっぱり寂しく感じられた。


「ダ・マスケのみんなにも見えなかった」


 これから話すことを、彼とは絶対に共有できないことがわかってしまった。


「そう、オレ以外には見えないんだ」


 セシルは、孤独と懐かしさを噛み締めていた口を開いた。


「オレの世界は、たった一人の女の子で始まった。彼女はリア。本当の名前は知らない。教わったんだろうけど、いつの間にか忘れちゃってた。頑張って思い出せたのが、リア。リアは、鏡や窓ガラス、ぴかぴかに磨かれた銀の皿の向こうにいて……」


***


 セシルは訥々と語った。リアの相貌を己のものと思っていたこと。本当は違ったこと。

 口のきき方や本来は母親が子どもに伝える〈六つのマナの歌〉をリアから教わったこと。

 リアの姿はセシルにしか見えないこと。魔女の末裔でさえも見えないこと。

 幾年月が過ぎても姿の変わらぬ鏡の乙女。モルフェシアへ招いたのも、彼女だったこと。

 自分でも驚くほど饒舌に、セシルは秘密を打ち明けた。

 パーシィが否定をせずに上手に相槌を打って促してくれたからかもしれない。

 彼の探偵として磨かれたスキルを改めて認めざるを得なかった。


「リア嬢、か。君だけの〈鏡の精〉といったところか」


 青年はときおりメモをとりながら、セシルの話を聴いていた。


「でもさ、ここ半年、呼んでも出てこなかったし、どこにいるか訊いてもはぐらかすし。つい最近なんだよ、ヘオフォニアに来い、ってきちんと言ってくれたのは」


 パーシィは万年筆の頭で頤にリズムを打ちつけている。何か考えが捗っているようだ。


「なるほどな。君が女神フォルトゥーネやフォリア教を知らずして、天空城ヘオフォニアを知り得ていたのはそのためか。しかし、彼女はなぜ知っているのか……」


 探偵の瞳がにわかに鋭さを増している。


「他に、そのリア嬢に関して『普通じゃない』ことはあったか?」


「全部パーシィには全部珍しいじゃん」


「そうではなく。リア嬢のように、魔女の間でも特に珍しいことだ」


 少年は説明で整然としてきた頭に問うた。他に、特別な。リアみたいに。


「『歌は鍵』。オレたちが出会えば『運命が変わる』……」


 セシルは、はっとした。けれども、これは果たして言っていいものか。


「あとは、〈歌〉に七つ目がある……ってこと、かな……」


 もごもごとこぼした真実を、パーシィはこぼすことなく拾い上げた。


「〈マナの歌〉に? 新作か?」


 彼の食いつきっぷりと、思ってもいなかった言葉をセシルはとっさに否定した。


「いやいや、〈非魔〉の音楽と違って、〈マナの歌〉は六つのマナの種類に対応してるから、絶対に六つなんだ。七つ目なんて本当はありえないから! リアも誰も知らないって言ってた。誰にも言っちゃいけない、歌ってもいけないって」


「ふむ? しかし君は存在を知っていて、その音楽も覚えている、と」


「うん」


 言われてみれば、おかしい。セシルはくちびるを尖らせた。

 炎、水、風、土、光、闇以外に、七つ目のマナが存在すると言う事だろうか?

 碧の瞳を回した先には、絨毯の上にねっ転がり日向ぼっこをするアルプがいた。

 白く燃え上がっているようなふわふわの体毛が、呼吸に合わせて膨らんだり萎んだり。

 パーシィは何かを書くのに夢中だ。ペン先が紙を滑る音が軽やかに鳴っている。


「禁じられた歌か。聴いてみたいものだな。〈マナの歌〉にはいろいろと愛称があったな。確か炎は――」


「〈アパショナータ〉」


 セシルは一つずつ顔をそむけたまま答えた。


「では、七つ目は?」


「〈レクイエム〉」


 少年の声が、沈鬱な響きを孕んだ。


***


 少し疲れたので、休憩をとることになった。パーシィが淹れてくれた紅茶が喉にひりつく。

 それほどに、夢中になって話していたらしい。

 疲れた頭にクッキーの甘さがしみいる。腕時計は左手首に戻ってきた。


「君の要点を整理してみたんだが」


「ん」


 パーシィは足を投げ出しておやつを楽しむ少年をそのままに、まとめを披露していた。


「セシル、君に〈六つのマナの歌〉と秘密の歌〈レクイエム〉を教えた鏡の乙女リア嬢こそが君をヘオフォニアに招いている」


 探偵は身を乗り出した。


「先日ジャスティンが女神フォルトゥーネと『鏡で語らう』と言っていたのが事実ならば、それは君とリア嬢のような関係なのだろう。つまりこの論理でいくと、リア嬢が女神フォルトゥーネということになるんだが――」


 セシルは渋い顔をした。


「いやあ、条件だけ見たら、そうとしか思えないんだけどさー」


 リアと言う自分とそっくりの少女は、顔立ちはそこそこ整っているものの、神と呼ぶにはあまりに普通の女の子である。その証拠にこれまでに幾度となく喧嘩をしたことがある。


「なんだ、灯台、下暗しだったな」


 一人がけのソファに背を預けてリラックスした彼の意図が汲めない。


「どういうこと?」


「僕は、女神フォルトゥーネとの面会ではなく、話がしたいんだよ、セシル。だから君が彼女を鏡で呼び出してくれたらそれで話が済むじゃないか」


「いや、それはどうかな」


 探偵は納得できないという顔をしている。少年は口を酸っぱくした。


「仮にリアがフォルトゥーネだとして。リアを鏡に呼び出せても、その姿と声とを認識できるのはオレだけなんだよ。いいの? 何か特別な、大事なことを訊きたいんじゃないの?」


 大好きな女の子とその思い出を返してくださいって。

 納得がいかない。天空城へ行こうって、あんなに熱心にオレを口説き落としたのに。

 それほどまでに重要なことを助手に代弁させて満足するのだろうか。

 日頃感情を露わにしないこの男の珍しい熱弁に心が震えたから、その手を取ったというのに。

 パーシィはあっけにとられたあと、ふっと寂しげにこぼした。


「次は僕の番だな。君は信じてくれないだろうけれども――」


「ちょっと。ここに、絶滅したはずの魔法使いがいるんだけど?」


 あと火を吐くキツネ、と言うセシルの冗談に青年はくすりとした。まるで絞り出したようだ。


「じゃあ、話そうか。僕に大切な人がいて大切な思い出があったという証明を、一つでも多く残すために」

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