3-2〈記憶の君〉
「それは、美しくも悲しい話だ」
と、パーシィは切り出した。
自分の思い出を言葉で囲いこむのはなんだか他人事にしているようで滑稽な気持ちがした。
「僕が十三の時分、高熱を出したときのことは話したろう?」
「うん。死にかけたやつでしょ。お婆ちゃんがパーシィを助けてくれたんだよね」
セシルは膝にやってきた子狐のアルプで遊びながら言う。
「そうだ。だがヴァイオレット殿には本当は連れがいた。その彼女が僕の耳飾りにマナを注ぎ込んでくれた」
「へぇ。じゃあ、絶対魔女だよね。……ん? それっておかしくない?」
少年とアルプが一緒に首を傾げる。さらりと短い亜麻色の髪が揺れる。
「ああ。ある日突然、その少女の存在が世界から消えたんだ」
「ちょっとまって! それこそ、お婆ちゃんに訊いてみたら早いんじゃないの?」
電話してみようよ、と息巻くセシルに、パーシィは首を振った。
「直接伺ったが――」
「そ、それこそ幽霊とか妖精? 確かにお婆ちゃんならこっそり契約とかしてそうだなあ」
セシルはアルプごと膝を抱えた。
「話を最後まで聴きたまえ。そうは思わないだろうさ」
青年は、ころころと色んな表情を見せる少年を面白がって、目を細めた。
「そう。これは先日、君の夢枕に語った話の隙間を縫うようなものだ」
セシルが靴を脱いでソファの上で脚を折ると、その上にアルプがちょこんと座る。
体勢はばっちりといったところで、パーシィもグラスの水で喉を潤した。
「今から話すのは、ある少女の話だ。彼女はヴァイオレット殿のご家族だった――」
「ちょっと待って! えっ、誰だろう? 母さんに兄妹なんかいないし――」
すぐに食らいついた少年が親戚の名前をつらつらと並べはじめたのを、青年は軽くいなした。
「僕が十三のときだぞ。君は生まれていないはずだ、セシル。それから、最後まで――」
「聴く」
パーシィが見咎めるとセシルは口をまっすぐ横に引き結んだ。
「十日間生死を彷徨った僕を助けたのは、失われた魔法を操る一族のヴァイオレット殿。魔女の癒しの力で、僕は一命を取り留めた。ただ、右耳の聴覚以外は。ここまでは君に話したね」
セシルは神妙な顔つきで頷いた。
「ヴァイオレット殿は助手として一人の娘を連れてきていた。彼女も優秀な魔女だった。彼女は僕の新しい耳――すなわちマナの耳飾りへ風のマナを入れてくれた。僕の右耳が再び聴こえるようになったとき、はじめに歌を聴いた」
「〈アリア〉だ……」
ぽつりとこぼしたセシルが、あわてて口に手の戸を立てた。
「そう。彼女もそう言っていた。それは〈風のアリア〉。それ以降、マナの耳飾りは〈六つのマナの歌〉を聴きとれるものになった……ようだ」
「ようだ、って?」
「あの極上の音楽が〈マナの歌〉だと解ったのはつい最近のことなんだ。君が教えてくれた。記憶から奪われそうになっていたところで、君が思い出させてくれた」
少年は鼻を擦って得意そうに微笑んだ。パーシィには、その素直な仕草が愛おしく見えた。
「その『記憶が奪われる』ってどういうことなの?」
「大切な想い出が、ある日突然思い出せなくなるんだ。そして、彼女の存在がなかったことにされた。そうとしか言えない」
「時間が経って忘れちゃってるだけじゃないの?」
「僕は生まれてこの方ずっと自我を保っている。だから忘れるはずがない」
「ふうん」
少年は小首を傾げている。幸福なことに、彼はまだ失ったことがないのだ。
しかし訝るのにも飽きたのか、セシルは小さなブレスと共に切り出した。
「で、どんな子だったの? 名前は?」
「美しいという印象だけが残っている。名前も面影は消されて覚えていないのに。僕は彼女を伴侶にしたかった。彼女以外考えられないと。だからプロポーズをした。断られたけれどね」
パーシィは淡々と話す自分を恐ろしく思った。
己にとって大切な思い出も、語ってしまえばありきたりな恋物語になってしまう。
これ以上伝えれば、彼女を美しい過去そのものにしてしまいそうで。
一方のセシルはきょとんとしている。
「はんりょ」
「結婚相手だ。僕のお嫁さんになってはもらえないかと――」
少年は理解するや否や目を剥いて笑い出し、その拍子に子狐のアルプが驚いた。
「結婚! 嘘、パーシィ、十三のときにそんなこと思ってたの? マセガキじゃん!」
「確かに時期尚早だったかもしれない。しかし、自ら婚約者を決めて何が悪い? 知人は親にあてがわれているけれども」
「悪……くはないけど……。あんまり普通じゃないと思う……」
常識の轍とテーブルに隔てられ、二人は見つめ合い、黙りこくった。
生まれと育ちの違いだろうか。探偵と少年との間には、こうした齟齬が頻発する。
そういうときは納得できない気持ちを誤魔化すように茶器に手を伸ばす。
今回も例に漏れず、揃ってクッキーに指を伸ばして、あらためて顔と顔を突き合わせることになった。
「まあ、そういうことだ」
「いや、大事なところが抜けてるから」
セシルは身を乗り出して、パーシィが取ろうとしていたクッキーをもぎ取った。
「おかしくない? そんなに大好きだった子のことを、どうして忘れるのさ。それって大好きじゃないじゃん」
少年の指摘があまりに鋭くて、パーシィは思わず口を噤んだ。
わかってくれるとは端から期待していない。いや。僕は甘えていた。
誰にも見えない自分だけの大切な少女がいるこの男の子になら、理解してもらえるはずだと。
自覚すると、目頭が熱くなった。思っている以上にショックを受けたらしい。
「ごめんって。話して。聞いてあげる」
少年は黙りこくった探偵を見かねたのか、突き放すように言うと、クッキーを二枚とも口に放り込んでから、新しい一枚をパーシィにくれた。それを受け取り、小さく囓る。
「大好きだったさ。だから、何度も引き留めた。けれど彼女は去ってしまった。そうしてヴァイオレット殿とその娘がダ・マスケに戻ってからしばらく経ったある日のことだ。本当に突然だった。今度はいつ会えるだろうと寝ても覚めても思っていた彼女の顔を思い出せなくなった。ショックだった。靄がかかったように、薄ぼんやりとした存在だけは感じた。だから、不安になって僕は家族や身の回りの人に尋ねた。『魔女様の助手を覚えているかい?』と」
青年は、自分の声の沈鬱さに我ながら驚いていた。
「『そんな子はいない』と、口を揃えられた。まさかと思って、ダ・マスケに馬を飛ばした。ヴァイオレット殿は仰られた。『あの子のことはお忘れください』と」
ふと、陽光に黄色く輝くレースのカーテンが、ゆったりと体を揺らしているのに気付く。
ああ。パーシィは思った。あの子もあんなふわふわのワンピースを着ていた気がする。
「こんな不可解なことはない。僕は血眼になって彼女を求めた。けれども、誰も覚えていないのだから存在を証明することはできない。そんなときに父が『モルフェシアのラ・フォリア』をくれた。そこで〈詩篇〉にある〈運命の女神〉の伝説を知ったんだ」
そう言うとパーシィは、赤茶けた表紙の本を開いて少年に差し出した。
それこそがモルフェシア建国神話『モルフェシアのラ・フォリア』であった。
セシルが受け取ってくれたそれを開き、〈詩篇〉のページをめくりあてる。
運命の翼は四枚あわせ
空の翼は魔女が持ち
地の翼を夢追い人に託さん
天空城は魔女のもの
魔女の見初めたひとのみが
魔法の調べを耳にせん
地上の翼得しひとは
その翼もて空に発たぬ
魔女の歌を継ぎしひと
全ての願いを叶えにけり
「読んだけど、どういうこと?」
尋ねるセシルの、エメラルドの瞳をじっと見つめ返す。
「モルフェシアを守護する〈運命の女神〉は天空城に住んでいると言うだろう――」
「あっ! そっか!」
セシルが声を上げる。
「この〈詩篇〉における魔女っていうのが、女神フォルトゥーネのことなのか!」
「僕もそう読んだ。そして――」
「『魔法の調べ』は〈マナの歌〉!」
探偵と助手は瞳で確信を分かち合った。
青年は、自分より一回り年下の彼を少し見直した。セシルには情報を整合させる力がある。
ちょっと考えさせて。そうセシルは前置いて、ぶつぶつ言いだした。
「〈運命の翼は四枚〉で〈空の翼は魔女が〉……。〈地上の翼〉ってのは一から三枚あるってことか。いや、でも翼って一対だから二枚が濃厚だよな」
「そうだな」
パーシィは少し荒れた喉を紅茶で潤した。
「だから僕はモルフェシアに来た。〈運命の翼〉を集めて、フォルトゥーネに僕の願いを叶えてもらうために」
「願いを叶えてもらうんじゃあ、そうだね、直接会いに行かないと。〈地上の翼〉って、リアも行ってたな。あと大公様も欲しがってるんだっけ」
「そう。ジャスティンも何か叶えたい願いを持つ、僕らと同じ『夢追い人』なのだろうな」
「なーるほどね。だからオレがいるんだ? パーシィ、最初から解ってたんだろ?」
セシルの目が歪む。ずるいと見咎められても、探偵は涼しい顔を見せつけた。
「すべて推測さ」
「でも、変なの。〈魔女の歌を継ぎしひと〉が願いを叶えるってさ。そんなの、ダ・マスケにいっぱいいるのに」
いや、いっぱいではないか。と首を傾げて、セシルは口を曲げた。
「あと、パーシィの記憶を下さいって、オレが頼むのもなんか変」
「必要とあらば、全て君に任せるよ。よろしく頼む」
「なにそ……! いたっ!」
セシルが食ってかかろうとした、そのときだった。少年が頭を抱えて蹲った。
「セシル?」
青年は慌てて腰を浮かせた。少年をソファに横たえる。薄い胸が小刻みに上下している。
「どうかしたのか?」
「なんか……きゅに……ぐらって……。気持ち悪い……」
刹那、遠くでなにかが爆発する音が聴こえた。その後に甲高い悲鳴が続く。
グウェンドソン邸の広い前庭を越えて、立て続けに消防のベルがあちこちから鳴り響く。
「立てるか?」
「だめ……むり……」
「医者に行こうか」
パーシィは返事を待たずセシルを抱き上げた。
少年の細い体は見た目よりも質量があった。抱きかかえて走る探偵の足元を子狐が追う。
屋敷を出て振り返ると、グウェンドソン邸に黙って睨み返された。
ここで何かが起こったわけではないようだ。ひとまずの安全は保証された。
一方、ホルガー通りには、車と馬車と人が溢れている。
焦げ臭い煙の匂いが流れてくるが、それは道路での事らしい。交通事故か。
「少し待っていてくれたまえ」
パーシィはセシルを玄関からほど近い木陰にあるベンチに横たえ、門に向った。
するとまもなく、見知った男を見つけた。彼もこちらに気付き、腕を上げた。
「ホッフェン警部。一体何事だ?」
「見てのとおりの交通事故だよ。君の家の前で実に申し訳ない」
門を開けてホッフェンだけを招き入れると、彼は肩を上下させて深呼吸した。
「あなたが悪いわけではないさ。それでこの人だかりというわけか。怪我人は?」
「いない。夏休みでね、交通量が少なかったのが幸いした」
パーシィは一呼吸ついた。
「事件性は?」
「探偵の王子様はすぐに事件にしたがる。が、今回は本当に連続爆破事件かもしれん」
「というのは?」
「ここのところ、忙しくて眠れないほど立て続けに呼び出されとる。あっちでは水害、こっちでは地盤沈下、スラムの方では原因不明の異臭騒ぎに病が流行っている。お上には警備を強化。その上、自動車の暴走事故とは。手を煩わせて。警察に夏休みをくれるつもりはないようだ」
そう言うホッフェンのたるんだ目元が、黒々と彼の過労を証明していた。
だが、パーシィはピンと来ていた。
ことケルムにおいて、都市災害は人災ではない。人々の健やかな生活に悪影響を与えているのは恐らく、この蒸気都市の文化を人知れず支えている〈柱〉の力だろう。
「お疲れのところ申し訳ない。その事件の起きた位置について把握したいんだが……」
「ふんっ」
探偵が取りだした手帳の上に、警部はカードを叩きつけた。
「警察の手を煩わせるな。本局にある地図を自分で書き写してきたまえ。電話はやめてやれよ。今の私は、人に優しくできん。自分にさえ、そうできていないんだからな」
***
パーシィはホッフェン氏と別れ、玄関に急いだ。
そわそわする。それに、右耳の奥でなにかがちりちりと燻っているような嫌な感覚がする。
嵐の前に感じるのと同じ違和感は、イヤリングの中に込められたマナが反応しているからだろうか。
神秘の力については、憶測よりも魔女に聞くほうが早いだろう。
駆け寄ったベンチではセシルがまだ横になっていた。辛そうに目元を自分の腕で覆っている。
「セシル。大丈夫か?」
少年の顔色は、風で洗われたのか少しよさそうだった。
「なんとか……。なんかあったの?」
探偵は膝をついて自動車事故について説明した。
それから、ケルムの全域で不思議な災害が多発していることと、パーシィの推理も。
「なにそれ。マナが、荒れてるってこと? 頭痛がするわけだよ……」
喘ぎ喘ぎ言うセシルに、パーシィは頷いた。
「警部に勧めてもらったとおり、警察署で地図を確認してこようと思う。もしかしたら新しい〈マナの柱〉が見つかるかもしれない」
「そうかもね。きっとリアの言った通り〈マナの柱〉が目覚めてるのかも。でもなんか癪だな。大公様だけが嬉しいのは。オレたちは〈地上の翼〉を探したいのに」
パーシィはくちびるを噛んだ。彼の言うとおりだ。
「でも〈地上の翼〉ってなんだろ」
「リア嬢からは他に言われていないのかい?」
「『わたしがいるのは、この国の空に浮かぶ城――天空城ヘオフォニア。全ての〈マナの柱〉を蘇らせて、隠されている〈地上の翼〉を探して。そしてその翼で、わたしに会いに来て』」
少女の声でそう言うと、ふわ、とセシルは大あくびをして伸びをした。
「翼で飛んで来いって、そんな無茶な……」
そして、そのままの格好で固まった。
「……パーシィ、オレ、疲れてるのかな……」
セシルはそう言って、両目をごしごし擦った。
「そうかもしれない。調査には僕だけで行こう。君はもう少しここで休みたま――」
「空、見て」
青年は、促されるまま何の気なしに見上げた。
彼が空色の瞳で見たのは、澄んだ蒼穹に、無邪気な白い雲。
その雲の塊が、風で散らされてほどけていく。
そうして現れたのは、天空に浮かぶ城だった。
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