2-5 共犯者

 今日は〈白羊の月〉十七日。

 セシルがエルジェ・アカデミーへ課題を提出しに行って、数刻が経った。

 何か問題があったのだろうか。彼が二週間かけて真剣に書いたレポートだ。受理されなければ困る。魔女の成績など全く関係がないはずのパーシィだが、不思議とそわそわして、助手が帰るその時が来るのを、自宅の庭でずっと待っていた。

 春の陽気に促されて、コートは館へ置いてきた。だが、それは間違いだった。

 少しの間、八角形の東屋のベンチに腰かけていたが、すぐに細長い手足が春風に冷えたのだ。

 手袋をはめているというのに。だから、前庭をゆっくりと散歩することにした。

 植え込みが背丈を伸ばし、壁となり風よけになってくれている。しかし、庭先に顔を並べているクロッカスやスノードロップたちは首を曲げ身を寄せ合い、寒そうにしている。

 その上を黒々とした影が覆った。見上げれば、轟々と飛空艇が飛び立ってゆく。庇を作り首をもたげると、帆がまぶしく輝いていた。見慣れた時報のようなものだ。

 グウェンドソン邸の前庭は、春の花々に少しずつ彩られつつあった。冬の寒さにくじけた草花はしょんぼりと身を潜めているが、黄色いスイセンは違った。空に向かい、凛とまっすぐに背筋を伸ばしている。

 午後の日差しが冷やされた四肢をそっと温めてくれるのに、パーシィは目を閉じた。

 一度その力を失った右耳に、世界の音が聴こえる。

 ため池に流れ込むせせらぎの音。子どものはしゃぐ声。そこかしこに点在するクロウタドリの大きな独り言。がたがたと体を揺らす馬車と軽やかな蹄。

 それらは静けさの向こうにあったが、確かに聞き取れた。


「パルシファル様。聞こえますか?」


 十四年前、〈記憶の君〉の少女が心配そうに語りかけてくれた声も、右で聴いた。

 だが今となっては、ただのセリフとしてしか再生されない。演者のいない一行は空しい音と意味の羅列でしかなく、肉声にこもる暖かさなど微塵も感じられない。

 しかし、一昨日はなぜ思い出せたのだろう。

 パーシィはぼんやりと空に向かって思索にふけった。

 娘の動いたくちびるに、胸がざわめいた記憶もある。

 けれどもそれが、どんな色かたちをしていたのかはもう、わからない。

 集中してもはぐらかされる感覚だ。まるで思い出すのを何者かに邪魔されている気がする。

 名前を呼べば、きっと思い出せるはずだ。口を開けば発音できるはずだ。

 そう思って、何度口を開いたことだろう。愛しい娘の名を紡ぐために。


「……」


 パーシィは開きかけたくちびるをそっと引き結び、補聴器の四枚の羽に触れた。

 しゃらりと擦れ合う金属音がすると、安心する。

 それが、きっかけだった。

 羽がぶつかり合うささやきが、小さな鈴のように繰り返され、重なり合う。

 あたかも鐘の音が反響しあうように調和し、高次倍音同士が絡まり合う。

 それは和音でありながら一つの旋律だった。

 素朴な旋律に、パーシィは心打たれた。ふいに目頭が熱くなるほどだ。

 愛らしいメロディに共鳴した郷愁と憧憬と切なさが爆発し、こみ上げてくる。

 思い出と共に眠っていた感情を、陽の下に晒された心もとなさがあった。庭の緑が揺らぐ。

 大人として建ててきた感情を覆う理性の櫓を竜巻に乱暴にひんむかれたような気がした。

 涙を誘う寂しさに支配されかけた、そのときだった。

 ふんわりと言葉のヴェールが彼を包み込んだ。少女の声だ、とパーシィは思った。

 語る意味は解らないが、甘やかな吐息はおとぎ話のように優しかった。

 詩の朗読にも、歌のようにも聞こえる。それは、揺らめいていまにも消えそうだった。

 追わなくてはいけない。青年は使命感に駆られて、足を前に出した。

 まだつぼみが青々としている薔薇の庭を横切る。生垣が邪魔だ。

 コルシェン様式にあつらえられたブルーベルの小さな箱庭を尻目に、小川を飛び越す。

 歌の主を求めて、気付けば青年は大地を蹴りあげていた。

 上がる胸と息の雑音よりも、言葉がくっきりと聴こえはじめる。近づいている。

 彼女かもしれない。

 何度も夢見た。何度も諦めかけた。

 パーシィは少年のように走った。息せき切って並木の角を曲がり飛び込む。

 その先に、亜麻色の髪の少女がいた。

 たった一人で喉を鳴らし、音楽を紡いでいる。

 青年の左耳にはソプラノの独唱と、梢が体を揺らす清かな音しか聞こえない。

 しかし、右は違った。呼び寄せられたのか、はたまたそこにいたのか。雑然と小声ではやしたてていた何かが、意思を持って声を揃えはじめた。それは葉末に、花の雫に、蜜蜂の羽に、そして少女の歌声に寄り添って、豊かな響きを形成している。気付けば、大地でさえゆったりと体を震わせ、ハーモニーの根幹をなしていた。

 彼女は日差しのような暖かい声で春風を――マナを体に纏わせ、己が眷属としていた。

 これは魔法だ。青年は瞬時に理解した。前にも見たことがあった。いつだったろう。

 パーシィは呼びたかった。


「……!」


 彼女の名前を。

 しかし、すべてを盗まれてしまったから、言えなかった。

 悔しかった。

 思いだけが、自分の中でじりじりと焦げ付いている。

 こうして甘やかな思い出はいつのまにか、黒く苦い闇への片道切符になるのだろうか。

 青年はくちびるを強く噛んだ。

 そのうち、マナの補聴器を通して聴こえていた音楽も、ぱたりと止んだ。


「……パーシィ?」


 少女が振り返った。なぜだか、懐かしくてたまらなかった。

 彼女は怪訝そうに口を曲げた。


「なんで、泣いてるのさ?」


 青年はかぶりを振った。その拍子に熱いものがはらはらと頬を伝う。

 不思議と、情けなさはなかった。


「おかえり、セシル」


 呼べた名は、探偵の助手のものだった。


「いつ……いつ、帰ってきたんだい?」


 セシルはパトロンの顔を見るなり思い切り眉をしかめた。雲が太陽を覆い隠す。


「ついさっき。帰りは歩いてきた。てか、涙、拭いたら?」


 はい、と少年が差しだしてくれたハンカチーフを、パーシィは小さく礼を言って受け取った。


「待っていた。君を。話したいことがあって」


 今日は不思議だ。心に思ったことが、すぐさま身体の外へ溢れ出る。

 それにしてもみっともない鼻声だ。きっと鼻の先も赤くなっているだろう。


「ん」


 セシルはエメラルドの瞳を怪訝そうにくしゃりと歪めると、軽く顎をしゃくった。

 まずは拭え、ということらしい。

 探偵は両目を軽く押さえたあと、仕切り直した。ゆっくりと息を吸い、吐く。


「覚えているかい。半年前、僕が君に言ったことを」


「忘れるわけないだろ」


 二人の間を風が横切っている。それは新鮮な青い匂いを巻きあげて微笑むセシルの髪を弄ぶ。

 無邪気な風の中に、くすくすという陽気な談笑が混じって聞こえた気がした。

 セシルに言わせれば、マナがまだあたりに散らばっているのかもしれない。

 少年はあっけらかんと腰に手を当てた。


「オレを『魔女として雇った』……だろ? パーシィは〈マナの柱〉を探す仕事を大公様から請け負ってたから、オレの魔女の力が必要だった。そうだよね?」


 そして、オレは魔法使いだけど、と欠かさず付け足して続ける。


「もしかして、オレじゃないとだめなの?」


「ああ」


 パーシィは思わず食らいついていた。そして自分でも驚くほど力強い肯定だった。

 少年の胸が膨らむ。息を飲んだのは、目で見ても明らかだった。


「セシル。あれから僕も考えていた。君は〈魔女の歌を継ぎし人〉だ。きっと。だからこそ君が最も〈地上の翼〉に近い。君こそが〈夢追い人〉だろうと、僕はにらんでいる」


「よくわかんないけど。オレ、そんな夢なんてないよ」


「〈詩編〉に基づけば、君にはその資格があるんだ。僕が十年もモルフェシア公に飼われている理由は話した。けれど、目的はまだ話していなかった」


「なにそれ。まだ何か隠してたんだ」


 少年は足にまとわりついているスカートを両手ではたいた。


「そういうところだよ。信用できないの」


 そして、そっぽを向いた。突き出されているくちびるがもごもごと動く。


「君と同じだ。僕も、天空城ヘオフォニアに行きたい。会いたい人がいる」


「は?」


 青年の言葉に、セシルが表情を固めた。


「嘘でしょ。それってつまり――」


「そう。女神フォルトゥーネに会いたい」


 探偵は頷かなかった。ただまっすぐに、セシルの横顔を見つめて続ける。


「僕がモルフェシアにいる理由は、ただ一つ。フォルトゥーネに会うためだ。ジャスティンやこれまでのモルフェシア大公のようにお告げを頂くためじゃない。僕自身を見つけるために」


「それ、全然同じじゃないよ。オレの会いたい人は……」


 少年はまごついたが、ちらと探偵に目線をくれた。続けて良いらしい。

 少し言い訳じみている、と青年は半ば自嘲しながら口を開いた。


「十年前僕は大切な失せ物を探しにモルフェシアにやってきた。ジャスティンは〈マナの柱〉の在処と〈地上の翼〉を見つけたらフォルトゥーネに会わせてくれると言った。だがかれこれ十年だ。我ながら愚直すぎたと思う。だってもう、我慢の限界なんだ。こうみえても」


 セシルの視線がパーシィの額に刺さっている。警戒しているのだ。

 あの秋、最悪の出会いを果たしたベッカ空港でのことがありありと思い起こされる。

 少年は青年に差し出された手を疑うことなく握り、青年は彼を少女として扱い、保護した。


「だが君は違った。果敢なことに、ヘオフォニアへ行きたいと口にした。誰しもが一度は思い、言えなかったことを。たった一度の面会で」


 本当に、セシルを見ていると思い出せそうな気がするのだ。

 その昔、癒しの魔女ヴァイオレットが連れてきた、若き魔女――〈記憶の君〉のことを。


「あの日、ジャスティンが真実を語ったとは思えない。だが、僕には本物の魔女がついている。誰も君の目を誤魔化せない」


 たとえフォルトゥーネに会えなくても。


「それで? 大公様に内緒で天空の城までオレの箒で連れて行ってほしいって?」


 セシルは探偵を試すような口ぶりで下からねめつけてきた。声音も攻撃的にくぐもっている。


「そうは言っていない――」


「でも、そういう意味じゃん。オレに頼りたいって。〈地上の翼〉とか〈夢追い人〉とか全然わかんないし、正直、どうでもいい」


 そのとき、セシルの碧の瞳が挑戦的にぎらついた。


「言ってなかったけどさ。オレだって目的は一つだ。たった一人の幼馴染が泣いてオレに会いたいって言った。初めて頼ってくれた。女の子を泣かせるなんて男のすることじゃない」


 そこまで一息で言い尽くすと、少年は喉を鳴らして息を吸った。


「だから、オレはモルフェシアに来たんだ。進学なんて口実だよ。リアのところに――ヘオフォニアに行くための! だから、それさえ――夢が叶えば! なんだっていい!」


「ならば共に行こう、天空城へ!」


 逆巻く風を斬るようにしてパーシィはつい、右手をセシルへ差し出した。


「どうやって行くのさ? 場所も、行き方も解らないのに」


 パーシィの右手を努めて見ないようにしながら、少年が噛みつく。


「不明? 大歓迎だ。だからといって存在しないという理由にはならない」


 息が弾み、口元が知らず知らずのうちに持ちあがる。


「共に願いを叶えよう。いや、僕たちの手で掴むんだ」


「掴むって何を?」


「君はその幼馴染の手を。僕は奪われた想い出を」


 年の離れた二人は、揃って瞳を乾かし、頬を上気させていた。


「僕が取り戻したいもの、それは大切な想い出だ。僕には大好きな女の子がいた。素敵な子だ。彼女はある日、突然世界から消えてしまった。名前すら残さずに。それこそ理由は知れない。僕だけが辛うじて、彼女の想い出の端を握りしめている。だが、それも日ごとに塗り潰されて今にも消えかけている。彼女は確かにいた。存在しなかったことにはしたくないんだ! あの優しい気持ちまでも! だから完全に失くしてしまうその前にどうしても取り戻したい!」


 こんな高揚感は初めてだ。違う。彼女と過ごした十三歳の日々にはあったものだ。


「これまでは一人だった。しかし今は君がいる。頼む。僕の〈運命の魔女〉よ。どうか天空の城まで導いて欲しい!」


 パーシィは差し出していた右手の手袋を、乱暴に脱いだ。

 そして一歩踏み出して、もう一度差し出した。

 東屋の階段に左足を乗せて跪く。それはまるで、プロポーズのように。


「……それは、嫌……」


 セシルはその微かな声を上書きした。


「だってオレはオレだよ! パーシィが欲しいのはオレじゃなくて魔法だろ!」


「違う」


 いっそ、無理矢理にでも抱きしめてやろうか。パーシィはそうささやく己を押さえつけた。

 いたずらに拒絶を招くだけだ。青年はセシルを見つめたまま、そのまま動かない。


「いや。最初はそうだった。君の魔女の力をあてにしていたのは本当だ。けれどあの日、エルジェの森の中で炎に包まれているのを見て怖くなった。また失うかと思った。君を放っておいた僕を呪った。僕は君のことも守りたい」


 見上げる少年の薄い胸が上下する。


「ここまできて、オレのこと女の子扱いする?」


 信じられないといったふうだ。もしくは、あの日の恐怖を思い出したのかもしれない。


「ではこうしよう。僕たちは出資者と学生だが、探偵と助手でもあり二人の対等な男である」


 パーシィは、本心を口にした。


「つまりセシル。僕のパートナーになってくれ」


 これ以上、言いようがない。だから探偵は口を噤んだ。

 とっておきのプロポーズは何度も言うものではない。

 かといって、返事を待つ間の沈黙は耐えがたいものだった。

 また遠くで、飛空艇が二つ三つ、飛び交っている。

 雲が陽光を暖かさごと遮っていて、春風に厳しい冷たさがにじむ。

 パーシィが瞳を落とした。そのときだった。


「わかった」


 ぶわりと足元から風が巻き起こり、陽が差した。

 悴みはじめていた右手に、ぱしんという乾いた音と心地よい衝撃が走った。


「つまり、オレがいいんだな」


 ブラウスの袖をぐいっと勢い任せにたくしあげ、探偵の右手を力強く握った。


「ああ!」


 パーシィもしっかりと握り返す。


「協力してあげるのはいいけど、オレ、ホントに天空城のこと何にも知らないよ?」


「実は、場所の見当はついている。調査は優雅に飛空艇で、なんてどうだろう?」


「乗った!」


 一回り小さな手のひらを、目の前の少年を、確かに感じた。


「なんか、共犯者、って感じ」


 きらきらした瞳で、セシルが見つめてくる。彼は口を悪戯っぽく曲げて見せた。


「いいの? 勝手にヘオフォニアに行ったら、大公様に怒られちゃうんじゃない?」


「さあ? 僕の主人は彼じゃない。僕自身だ」


 青年の右耳に、祝福のハーモニーが聴こえたような気がした。


「でさ。いいよね? 女装をやめても」


「む? それとこれとは、話が別だ」

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