2-4 孤独な少年

 とうとうメルヴィンの恐れていた長期休暇が始まった。夏休みの間中、出来ることなら学生寮に居続けたかった。それが叶わぬことは薄々承知していたけれども。

 だから青空に雲の目映い、素晴らしい一日の扉を開けても気分は沈鬱なままだ。

 さほど中身の入っていないトランクまで重たく感じられる。

 なんという最低な気分だろう。向かう場所も違えば、昨日と今日とで雲泥の差だ。

 エルジェ・アカデミーの車寄せに、背中を丸めとぼとぼと向かう。

 しばらくすると、艶やかな屋根を持つ自動車が一台止まっているのが見えた。一般に普及している車両より屋根も車高も高いセリン・アンド・ハウアー社の特注モデルである。

 その傷一つない扉の前に立っていた使用人の男が、少年の姿を認めるなり頭を下げた。


「メルヴィン・スパーク卿。お待ちしておりました」


 少年は無感動に片手で軽くいなした。


「ここではよしてくれ」


「すみません、旦那様」


 黒ずくめの使用人は小さく詫びると幼き主人の荷物を受け取った。そして少年のためにドアを開け、彼が座ったのを見届けるとトランクを自動車の後部へ積んだ。

 席に着いた運転手が肩越しに問うた。


「どこか、お立ち寄りになられますか?」


「結構だ。いや――」


 反射的に断ったが、メルヴィンは一つ思いなおした。


「ホルガー通りを西から回ってくれ。ドライブをする時間ぐらいはあるだろう?」


***


 メルヴィンがそわそわしながら通ったホルガー通り、そこは彼の大切な少女が身を寄せているグウェンドソン邸がある道だ。

 邸宅の敷地を囲う背の高い美しい鉄柵があるのは知っていた。

 もしかしたら、と少年は期待に腰を浮かせながら首を左に向けていた。

 馬車や車、自転車や歩行者がどんどんと各々の速度で通り過ぎてゆくのがうっとうしく思う。

 右側通行のルールそのものさえも呪わしい。

 すると、グウェンドソン邸の門が開いているのが見えた。

 たった一瞬だったが、噴水と玄関の扉までを見渡せた。

 だが、自動車のご機嫌な走りと生垣に邪魔をされ、少年の淡い期待は満たされなかった。

 しかたがない。と、メルヴィンは己に言い聞かせた。そう、都合よくはいかないものだよ。

 それにセシルは今、一所懸命にレポートに取り組んでいるのだから。

 ホルガー通りを南下した交差点でカルミア通りに向かって左折する。

 いよいよかと思うと、メルヴィンの心がどんどんと沈んでゆく。

 両親に手土産でも買ったほうがよかっただろうか。

 しかし、カルミア通りに乗ってしまったので、ショッピングエリアにはもう寄れない。

 メルヴィンの実家があるアンバー・ガーデンはセントラルエリアからとても近かった。

 信号を二つとムーンリバーの上にかかる跳ね橋――設計者の名を冠しクライバーと呼ばれている橋を通れば、アンバー・ガーデンはもうすぐだ。

 そこにある〈琥珀宮アンバー・パレス〉こそが、メルヴィン・スパークの生家であった。


***


 自動車はアンバー・ガーデンの入り口から奥まった位置にある建物に向けてゆったりと進み、あまりに広大な馬車寄せのある玄関の前で止まった。

〈琥珀宮〉の見慣れたアーチは古めかしく厳つくて、反吐が出そうだ。萌黄色に塗られた壁が今風だったが、建物そのものは百年以上ここに立ち続けている。同じ年月アーチを支えてきた荘厳な石の柱は艶を失っている。

 使用人がメルヴィンのためにドアを開けると、玄関から赤毛を結い上げた貴婦人が息せき切って現れた。そして、ふくよかな腕を少年に回す。彼は熱い抱擁を黙って受けた。


「おかえりなさい、メルヴィン! お母様に会えなくて寂しかったでしょう?」


 メルヴィンの顔を包み込む手つきは、声と似てねっとりとしていた。


「ただいま戻りました」


 少年はうっとりしたままの母を見下ろし、彼女が喜ぶよう口元に笑顔を作った。


「まあまあ! 一年でなんて男らしくなったんでしょ! お父様に似てきたわ!」


 メルヴィンは下男に視線だけで荷物の指図をすると、そのまま玄関へ歩んだ。


「アカデミーはあんなに近いのにどうして一度も帰ってこなかったの? 寂しかったのよ」


 僕は別に。息子は本音を腹に隠して、さっと機転を利かせた。


「母上の驚いた顔を見たくて」


「やだわ。もう立派な紳士なのね」


 母親はメルヴィンをほとんど抱くようにして並んで歩き出した。まるで恋人にするようだ。

 二人の動きに使用人が倣い、メルヴィンのコートを流れるように受け取った。


「ありがとうございます。父上は――」


「お元気よ。あなたに会いたがってる」


 チークが濃く乗った頬をたっぷり持ち上げた女に、パーラーメイドが膝を折った。


「アイナ様。失礼いたします。お茶のお支度はいかがなさいますか」


「三〇分後にいくから、そうして」


 アイナと呼ばれた女主人は、手のひらを返したように顔を不機嫌に曲げ、ぴしゃりと言った。

 恐縮したメイドが駆けていったのを見送りもせず、彼女は再び笑顔を取り出した。


「ねぇえ、メルヴィン。アカデミーの小さい部屋なんてあなたに窮屈でしょ? ほとんど豚箱じゃなあい。来年度からはもっといい部屋を用意させましょうよ?」


「いえ。それでは市井を見学する趣旨に反しますから」


「あたくしは部屋の話をしてるのよ」


「僕は、あの狭さがなかなか気に入っています」


 息子は遠慮がちに母を見下ろした。そうすると自分でも己の成長を自覚せざるを得なかった。


「では、父上にご挨拶をしてまいります」


「それがいいわ!」


「お茶会は三〇分後ですね。またあとで」


 メルヴィンが静かに階段を上がる背後で、アイナがメイドに厳しく指示を飛ばしているのが聴こえていた。


***


 父親がいるのは、いつもサンルームと決まっていた。

 メルヴィンは応接間を通り抜けて、真鍮のドアノブを握った。

 回したけれども手汗に滑って開かない。そうなのだ。彼に会うときはいつも緊張する。

 改めてノブを回す。軋みながら開いた木製のドアに気付いたのだろう。父は顔をこちらへ向けていた。あちこちに置かれた観葉植物とともに、五枚の格子窓から降り注ぐ陽光を一身に浴びている。少年を認めると、けだるげだった瞳に光が宿った。


「おお……! メルヴィン! 我が息子よ! よく戻ったな」


 そう言い、老いた男は立ち上がろうとした。

 しかし、金属があちこち軋む音を立てて言う事を聞かない。

 ふらついた男にメルヴィンは駆け寄り、支えた。触れた左肩は冷たく洋服がつるりと滑る。


「父上! ご無理はいけません」


「〈歌〉が聴こえたからな、大丈夫だと思ったんだが」


 そう言って父親は乾いた咳を散らした。息子がその背中を撫ぜる。

 肉体と金属の境目は昼夜の境のように温かく、そして冷たかった。

 メルヴィンはその身体をそっと、椅子に戻す。


「歌……、フォルトゥーネ様のですか?」


「ああ」


 父は胸を上下させ、熱に浮かされたように両手を天に伸ばした。


「歌は鍵。マナは音楽だ。メルヴィン、お前もいつか解る日が来る」


 少年は窓の一つを開けた。爽やかな風がレースのカーテンを揺らし、新鮮な空気を運んでくれる。頬に浮かんだ冷や汗も乾かしてくれたらいいのに。


「いつか、解るでしょうか」


 鸚鵡返しに震える声を必死で引き締めた。そうしなければいけないほどに緊張していた。

 五〇歳年上の父親は、その存在感からいつも彼を圧倒するのだ。


「お前は跡継ぎだからな」


「ですが、僕は庶子です」


 愛人の子である自負もあったし、母があまり利口でないこともよくわかっていた。


「ああ。だが、私チャリオットの息子だ」


「兄上がいらっしゃいます」


 父は生真面目にしている息子を、乾いたバリトンでからからと笑い飛ばした。


「相当の権利がある。だから生まれながらにして侯爵の位を持っているんだ」


 日だまりの中、メジロの歌う声が聴こえる。

 暢気な小鳥にさえ呪詛を唱えようとした自分に、メルヴィンは嫌気がさした。


「過ぎた身分だと、思っています」


「殊勝なことよ。いずれ解ろうて。モルフェシアの全て――機械文明とマナの力を手にできる血脈に生まれついた誇りを」


 男はゆっくりと立ち上がろうとした。メルヴィンが手を貸そうとすると、それをやんわりと断り、生身の右手で樫のつえを突きながら、息子の隣へとやってきた。そして、髪を梳く風へ心地よさそうに目を細めた。

 メルヴィンが見上げた横顔は白髪に彩られている。

 もとは黒かったのだろうが、少なくとも、少年が物心ついたときにはすでにそうだった。

 ふと、彼と目が合った。黒真珠を思わせる虹色の光を宿した瞳に捕らえられてしまう。


「お前が元気だと、私も精がつくような気がする。なあ、可愛い我が子よ」


 厳しい声が緩んだのに、メルヴィンははっとした。次の台詞は――。


「いくつになった?」


 予想通りだ。


「十三です。この夏で十四になります」


 父は、生まれてからずっと共に暮らしているのに、会う度に年を訪ねてくる。今日もだ。


「ほう。して、アカデミーはどうだ?」


「お陰様で、集中して勉学に取り組めています」


「そうか」


 また、沈黙が訪れた。

 メルヴィンはなぜだか、エルジェ・アカデミーでの事を話したくなかった。

 商家としても名を馳せている名家、プリマヴェラ伯爵家の末娘については、言わずとも聞き及んでいるだろう。父親はかつて、この国だった男なのだから。

 顔なじみのエマニュエラがアカデミーにいることは当初、不安材料でしかなかった。けれどもありがたいことに、出身を秘匿してくれるアカデミーのシステムをよく知っている彼女は、メルヴィン・スパーク侯爵を特別扱いしてくれなかった。つくづく頭のよい娘である。


「素敵な出会いはあったかね?」


 だからこそ、父親の質問にどきりとしてしまった。

 メルヴィンは、カーテンの陰に隠れたくなった。だが、彼はそうしない自制心を持っていた。


「聡明で時代を切り開くような慧眼を持った、素晴らしいお嬢さんを見つけました」


 チャリオットは太い眉を上げた。


「ほう。それはさぞかし素敵な娘なのだろうね」


 くつくつと満足げに笑われて恥ずかしかったが、それよりも誇らしさが勝っていた。


「はい。魔法にかけられたように、彼女から目が離せません」


 メルヴィンは、自分でも不思議なほどにきっぱりと答えた。


***


 チャリオットをサンルームから自室へと送り届けると、メルヴィンは母親の部屋へ急いだ。

 虫の居所が悪いと、時間を大層気にする女なのだ。

 我が母ながら、移り気で気分屋で、美点の少ない女である。

 丁寧に詫びるための言葉をいくつか用意して扉を叩くと、控えていたパーラーメイドがすぐに開けてくれた。三つ編みの少女の顔色がよかったので、メルヴィンはアイナの上機嫌に気付いた。ほっとしながらも、やはり詫びる。


「母上、遅くなりすみません」


 アイナは食べ散らかしたティーセットの手前で、足を組んで新聞を読んでいた。

 女傑気分のようだ。そして新聞の上から顔を出した。


「いいのよ、メルヴィン。あなたも見なさい」


 母に呼ばれるまま、新聞を覗き込む。

 すると、三面に書かれた大きな見出しと腹違いの兄の写真が真っ先に瞳に飛び込んできた。


「『モルフェシア大公、女神の降臨を秘匿か』? どういうことですか?」


「文字通りよ。ま、ジャスティンも少しは俗世と関わりを持てばいいんだわ」


 アイナが投げ捨てた言葉に、メルヴィンは気付いた。


「母上が新聞社に情報を流したのですか? 栄えある議員なのに?」


 そして無意識のうちに、母の手から新聞をもぎ取っていた。

 彼女はまったく自覚していないが、議会の話題を漏洩するのは規約に反していた。

 メルヴィンが記事に目を通した限りでは、話題は女神フォルトゥーネの存在の是非に終始していた。少年には衝撃的だった。慎ましさや信仰心がこれほどまでに薄れているとは。

 息子の強引さに眉を上げたが、アイナはすぐに顎肘をついた。


「議員がなによ。あたくしは、これから神になるのよ」


 そして、尖った鼻から鋭く息をついた。


「マナストーンが活性化しているんですって! なんでかは知らないけど。ここ十年なかったことってチャリオット様が言ってたわ。きっともうすぐよ。もうすぐ〈地上の翼〉が手に入る。そしてあたくしが、あなたのお母様がこの世の神になるのよ!」


 いつもの夢想めいた戯言と、メルヴィンは聞き流せなかった。


「母上が? そんな。フォルトゥーネ様を差し置いてそんなことができるわけがありません」


「できるのよ! 〈地上の翼〉さえあれば!」


 金切り声を上げたアイナから意識を遠ざけたくて、メルヴィンは視線を再び新聞に戻した。ふと目にとまったジャスティンの写真、その後ろに長身痩躯の青年と彼に続く乙女を見つけた。


「セシル……?」


 少年の呟きに、女が立ち上がった。


「メルヴィンもあの娘を知ってるの? どこの子? いったい何者なの?」


 剣幕とともに香水が刺さる。それを努めて無視しながら、息子は答えた。


「彼女は僕の知人です。エルジェ・アカデミーの生徒で――」


「それは昨日聞いたわ!」


「昨日?」


「留学生がなによ。あたくしを差し置いてフォルトゥーネに近づこうだなんて許さない!」


 アイナは頭をかきむしった。結った赤毛に刺さったピンが、ばらばらと床に落ちる。

 メイドが結ったであろう髪も、ぐしゃぐしゃに乱れた。


「昨日、ジャスティンのところにきたのよ、その魔女とあの探偵が!」


「セシルは魔女じゃない!」


 メルヴィンはカッとなった。

 普段なら喧嘩を売られても買わない彼だったが、ことセシルについては別だった。


「あら、証明できるの?」


「それは……!」


 少年はくらくらする怒りにまかせて踵を返した。こう思い込みが激しくては話にならない。


「魔女……! そうよね、そうだわ! いいことを思いついた……」


 その背中に向かってアイナ=ベラドンナは、虚空に高笑った。


「メルヴィン! 見てなさい! 真実なんて、どうとでもねじ曲げられるのよ!」

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