2-3 瓜二つの娘
公務室に行かねばよかった。ジャスティンは深く後悔した。書類など後回しで良かったのだ。
それは、若きモルフェシア大公が友人たち――探偵とその助手が帰路についたのを見送った矢先のことだった。
「ジャスティン、なんであたくしには教えてくれなくて、あの子には教えたの?」
重たい扉の奥で斜陽と共に彼を迎えたのは物言わぬ紙ではなく父親の愛人ベラドンナだった。
彼女はまた例によって、あの土踏まずの真下にヒールが刺さっている、見た目からして歩きにくそうなクロムウェルシューズを履いて、彼の手前に立ちはだかった。
「珍しく客を呼んだと思えば! あの綺麗な顔の探偵と小娘に、なにを話したの?」
「なにをです?」
旋風のようなベラドンナを努めて気にしないように、ジャスティンは机に向かった。
「とぼけないで! フォルトゥーネ様のことよッ!」
背中に濁ったメゾソプラノが突き刺さる。歌声になぞらえられるほど、彼女の声は美しくは無かったけれども。夕日に女の赤毛が煌々と燃えている。本当に燃えてしまえば面白いのになあ、と思いながら、ジャスティンは瞳をしばたたかせて書類に目を凝らした。文字を読むには明かりが必要だと思った。
それは、ホッフェン警部がよこした簡易報告書だった。秘書官が置いてくれたものだ。
新聞記者と門番との言い分を箇条書きにしてまとめてある。
その下に大胆な筆跡で走り書きもあった。警部本人のサイン付きだ。
女にご注意。
普段ならば余計なお世話に思うところだが、爆弾と直面している今は全く笑えない冗談にしか聞こえなかった。
「どこまで話したの? あたくしには教えなかった癖に!」
赤毛をきつく巻いた女が詰問してくるのも、離れていても鼻を刺すような香水の匂いも不快だった。
この独特の不快感は、今朝からあちこちに漂っていた。
城内でひそひそとささやかれる噂の中に魔女という単語がいちいちついてまわった。
きっと、なにかしらの情報を各新聞社に流したのはベラドンナの一派だろう。
勘ぐるだけでは虫の居所はよくならない。ジャスティンは努めて穏やかに切り出した。
「何か勘違いをしていらっしゃるようだ。グウェンドソン君のところに魔女がいるとの噂が聞こえて、私も本当かどうか確かめてみたくなったわけです」
「ああ。議会をぐちゃぐちゃにしたがってる魔女は、フォルトゥーネ様じゃなくてあの娘だと思ったのね、あなたは?」
ベラドンナのつり上がった眉が得意げだ。彼女は前髪をわざとらしくかきあげた。
「いやはや。議会を覆そうとするような悪女については今朝、新聞記者に問われて初めて知りましたよ。マダムは耳がお早いのですね」
そこまで聞いて、女は己の失態に気付いたようだ。濃い頬紅の下で顔がかっと赤くなる。
「あた、あたくしはフォルトゥーネ様がそんなことなさるなんて考えてないわ!」
「ほう? フォルトゥーネ様は我々議会の矛先を指し示してくださる〈運命の輪〉であらせられる。それゆえに己を〈運命の魔女〉とも揶揄なさるけれども――」
「その話はもういいわ! あたくしを悪者扱いして!」
「そうですか。そうそう、セシル嬢は勤勉な留学生として私を訪ねてくれたのです。モルフェシア議会とフォリア教について調べているとか。だから私の知る限りを教えてあげただけです。もちろん、問われた分だけ」
「なによ、あたくしがまるで質問もできない馬鹿みたいに!」
プライドだけを育ててきた学の無さが口から溢れ出ている。
物を言う紙か。ジャスティンは思った傍から訂正した。いや、書物の方がずっと価値がある。
「おや。歴史はお好きでないと、父上から伺っていますが」
そのとき、書斎の扉が叩かれた。
「大公様」
聞きなれた秘書官の声だ。モルフェシア公はゆっくりと胸を下ろした。このまま卑しい女と話していると、自分にもそれが移ってしまいそうな気がしていたのだ。息子は聡明なのに。
「ああ、今行く」
「ジャスティン! またそうやってあたくしから、本題から逃げるのね!」
大公は彼女の感情的な部分を煽ることで本題から意識を背けさせてきた。
だがそろそろ限界だ。好きでヒステリーをいつまでも聞いている訳ではないのだ。
秘書官が開けた扉から、ガス灯の暖かな明かりが呼んでいる。彼はそちらにつま先を向けた。
「本題? そうだ。私も聞きたかった。真っ当な手続きを踏まずして、どうしてあなたが議会にいられるのか。そう、疑問に思う人も多い」
少しの意地悪が滲む。自分らしくない、と彼は思った。
けれども先日、彼女が同じ言い回しでジャスティンを糾弾したことすらも忘れているだろう。
父の愛人は目に見えて焦った。
「それは! チャリオット様の体が悪いからで――!」
「別に〈隠者〉は誰でも構わない。本来ならば知恵者の座るべき椅子だ」
「また、あたくしを馬鹿にしたわね!」
ベラドンナがずかずかと近づいてくるのを牽制するように、ジャスティンは音もない歩みを止めて、肩越しに言った。
「今は私がこの国の主だ。言動は慎みたまえ」
暮れた闇の中、女の髪が焼けたように黒かったのを、モルフェシア大公は見なかった。
***
工業都市でさえ寝静まる夜が訪れた。繁華街だけが煌々と明るい。
飛空艇の飛ばぬ夜のケルムは昼の賑わいを忘れたかのように息を潜めている。
しかし静寂のように大きな音は無い。と、モルフェシア大公は思った。つまり眠れないのだ。
ベッドに横たわったものの、ジャスティンの焼けついた心は、夢まで焦がしていた。
彼の脳裏に浮かぶのは、一つの顔だ。
その娘の青白い肌の上で、魔法めいたエメラルドの瞳が理知的にきらめく。卵のようにつるりとした頬は、彫り物のように計算しつくされた曲線を描き、滅多なことでは動かない。意志の力で引き結ばれたくちびるにはいつも知性と芯の強さを、そして愛らしさを感じた。
寝返りを打てば打つほど、喉が締め付けられる思いがする。渇きを潤すために手を伸ばしたけれども、サイドボードに置かれた水瓶はすでに空になっていた。
彼は、思いきってベッドを後にした。寝巻のローブではいけない。そう思って、軽い部屋着に着替えて外套を纏うと、ランタンに火を灯した。闇に慣れた瞳に小さな光が刺さるも、じきに慣れた。部屋を出ると、扉の衛兵たちに見つかった。
「どちらへ。お供いたしましょうか」
「かまうな。星の塔へ登る」
「では、入口までお送りいたします」
忠義者の一人に送られて、モルフェシア大公は長い階段へ続く扉を開いた。
***
腿を上げる度、心臓が確かに脈打つ。
興奮のパルスが指先にまで届き、吐く息も震えている。
たった一人に許された特権だというのに、禁忌を犯している後ろめたさと昂ぶりがあった。
階段を上る間、ジャスティンの心で少女が微笑んでいた。
娘はこう口にする。
「こんばんは、モルフェシア大公。ようこそヘオフォニアへ」
その言葉が本物のように聞こえたので、夢かと思い、彼は目元を擦った。
気付けばジャスティンは、天空の城の前にいた。とっくに辿り着いていたのだ。
「眠れませんでしたか? あるいは、とても早起きをされたのかしら?」
女神が真珠色のドレスと亜麻色の髪をふわふわと宙に遊ばせながら、ジャスティンの目の前にいた。まるで空気の椅子に腰かけているように、つま先も揺れている。
「あなたは、私に意地悪をされたのですか?」
ふふ、と小花の揺れるような頬笑みがこぼれる。
「そんな夢をご覧になったのですか、モルフェシア大公?」
「夢かと、思いました」
少女は愁いを帯びた瞳でまばたきをした。
「これは夢ではありません」
「では、本当に? 今日、あの午後、あなたに会ったのは本当だったのですか!」
ジャスティンはとっさに手を伸ばした。
だがすぐに自分の愚かさに気が付いた。何人たりとも彼女には触れられない。
ふと見上げた先で、フォルトゥーネはくちびるを噛んだ。瞳も揺れている。
屹然とした女神の風格が、一瞬で剥がれ落ちたように思えた。そのとき、少女が首を振った。
「いいえ。あの子はわたくしではありません」
「では、なぜ! あなたと瓜二つだったのですか!」
「それは……!」
言い淀んだフォルトゥーネのくちびるが、開いたままになった。
ジャスティンから逸らしていた目線が遠く、ヘオフォニア城の彼方を求めた。
「やだ、まただわ……!」
そして女神らしからぬ呪詛を零すと軽やかに身を翻し、浮島の端へと降り立った。
まるでそこから身を投げるように見えて、大公は駆け寄った。
「危険です! それとも、ケルムでなにか異変が?」
少女は振り向かない。
天も地も小さな光に満ちた世界で、彼女がとても小さく見えた。
「聴こえたのです」
「なにが?」
二人の足元に目を見開き物言わぬケルムが横たわっている。
目とはファタル湖だ。星空を体にして、フォベトラ城を瞳孔のように黒く抱いている。
巨大な瞳が、孤独に浮かぶ城ヘオフォニアをじっと見つめ返していた。
「〈アリア〉が。わたくしを呼んでいるのです」
ジャスティンは首をひねった。
「それがあの、瓜二つ娘の隠された名ですか?」
「いいえ。〈アリア〉は〈六つのマナの歌〉の一つなのです」
「なにも聞こえませんが……」
少女はゆらりと踵を返した。下から吹き付ける風が彼女の長く豊かな髪を梳いている。
地上の物質には干渉されないのに、なぜか風と彼女は通じ合っていた。
「〈風のアリア〉、〈水のバルカローレ〉、〈土のクラント〉。既に三つの歌が歌われ、それぞれのマナストーンが目覚めました。〈地上の翼〉が目覚めるのも時間の問題でしょう」
ささやきにも独り言にも似た小さな声だ。にもかかわらず、一つ一つの言葉に重さがあった。
大公は目を見張った。
夜は水を打ったように静かで、歌など聞こえない。ましてや、音楽なんて。
「そんなもの、誰が歌って――!」
しかし、すぐに考えに至った。
ジャスティンのジェットのような瞳と、女神の夜の海の色をした瞳とがかち合う。
彼女だ。あの瓜二つの娘。
フォルトゥーネは小さく頷いた。
「セシル。わたくしの後を継ぐ者です」
「そ、それでは、フォルトゥーネを辞してくださると……!」
少女は再び、頷く。
胸を締め付けるような肯定だった。できるならば、この腕で抱きしめたかった。
彼女が、ついに共に生きようとしてくれている。長かった。十四年だ。
「モルフェシア大公。あの子に、ここへ来る方法を教えましたか?」
彼は震えるくちびるで答えた。興奮が血液とともに全身へ脈打つ。
「いえ。パーシィも同席していたので『鏡を通して語らっている』と答えました」
「そう……」
世界に墨を落としたような夜闇が、その端でうっすらと紫色にほどけはじめている。
新しい一日の幕開けを一足先に喜ぶ鳥の声も、ちらほらと聞こえてきた。
「歌は鍵なのよ……」
しかし、ふんわりと白みを帯びた女神の表情は、喜びとはほど遠いものだった。
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