2-2 社会科見学

「あ。パーシィ、ただいま。ねえ、バーバラさんいる?」


 夕餉の匂いに誘われてパーシィが一階へ降りると、珍しく遅く帰宅したセシルが、これまた珍しく着替えをせずにメイドを探していた。青年は押され気味に答えた。


「フィリナに聞くといい」


「あっ、そうだよね。わかった」


 少年は真っ赤な革鞄を斜めに掛けたまま、ぱたぱたとアンダーステアーズに降りて行った。すると、白い厨房服の男とあわやぶつかりそうになった。


「ごめん、ニールさん! 下にフィリナさんいる?」


「おっ。いるっすよ」


 くるくる赤毛の料理人は少年を見送ると、主人と瞳をかちあわせた。

 ふたりしてぱちくりとまばたきを交わし合う。


「セシル君、焦ってどうしたんすかね、殿下?」


「ああ。僕も知りたい」


 ニールは珍しいものを見たかのように目を見開いた。


「えっ。殿下が否定しないの、初めじゃないすか?」


「そうだろうか?」


 パーシィも一緒になってきょとんとした。

 そうして見つめあっていた大の大人を見つける声があった。


「なにやってるんですか、二人して」


 青年たちがくるりと首を回したところに、チョコレート色の髪の毛を二つのおさげにした女学生が立ち尽くしていた。

 不思議な沈黙が三人の間に流れたが、それを電話のベルが突然切り裂いた。

 それで全員が我に返ってパーシィは食堂へ、ニールは階下へ向かい、バーバラが電話に駆け寄って取った。


「ハロー。グレインジャー探偵事務所です。……はい。いらっしゃいます。はい」


 明るいバーバラの声がだんだんとくぐもってゆくのに、ちらりと心配して目をやった。

 すると彼女は受話器をクッションの上にそっと置いて主人を呼んだ。

 パーシィはうっすらと相手に予想をつけながら受話器を取った。

 依頼人か、ホッフェン警部か、または議会の事務職員だろう。その辺りが相場だ。


「パーシィ・グウェンドソン」


「やあ、探偵王子。首尾はどうかな?」


 パーシィの予想は近からず遠からず、かといって当たりでもなかった。


「モルフェシア大公直々にお電話とは光栄だ。晩餐の料理が遅れて、暇とみた」


 受話器の向こうで高らかに笑うバリトンがびりびりと鳴る。

 スピーカーが彼の豊かな声を受け止めきれず、再現もまたできないのだ。


「ははは。うちの料理人は君ぐらい時間に厳しくてな。私が遅れて咎められるくらいに」


「明日、議会が開かれるんだな?」


 せっつく探偵を、いや違う、とモルフェシア大公は遮った。


「社会科見学はどうかなと。君ではなく、噂の小さな魔女殿をご招待したい」


 魔女と聞けば、パーシィの体ににわかに緊張が走る。

 これまでさほどでもなかったのに、ジャスティンは最近、何かと探りを入れてくる。

 モルフェシアの機械文明を維持する〈マナの柱〉や、四つ揃えれば願いが叶うというフォルトゥーネの翼のうち地上にある二枚――〈地上の翼〉を探すためならば、理解ができる。

 だが、この期に及んで魔女の末裔まで求めるのは、どういうわけだろうか?

 セシルを一人だけで行かせるわけにはいかない。パーシィはとっさに考えた。

 彼はまだほんの子どもで、大人の処世術すら真に受けてしまうのだ。慎重に言葉を選んだ。


「ほう。少女一人をよこせ、保護者はいらない、と。そう堂々と言う男がいたとはね」


 友人の刺々しい口ぶりををものともせず、ジャスティンは笑い飛ばした。


「言わずもがな。我が友人も、ぜひに」


***


 セシルは正餐室に普段着で現れた。もちろんかつらは付けていない。

 パーシィも従来の慣習のように礼装して食事を採らないので、文句はなかった。

 たった二人が席に着く食卓には、ドライフラワーのリースと生花が飾られ、料理の香りに爽やかな春の息吹を添えている。室内を橙色に染めるシャンデリアが、煌めく影を落としながら夜を演出しているのが目にも温かい。春が訪れたとはいえまだ底冷えするので暖炉もまだ休みをもらえずにじっくりと小さな炎を抱いて燃やし続けている。

 前菜のアスパラガスを持ってきたのがバーバラだったので、パーシィは何の気なしを装って尋ねた。


「セシル。バーバラには何の用事だったんだ?」


 少年は、ナイフで切ったアスパラガスにバターソースをたっぷりつける手を止めた。


「課題が出たんだ。モルフェシア史の。自由研究」


 彼は息を吐くように答え、吸うようにフォークを口へ運んだ。ひと噛みしただけで頬が持ち上がる。美味しそうな表情に誘われてパーシィも食すと、口の中いっぱいにバターの濃厚な味わいとアスパラガスの甘い汁がじゅわりと広がった。春の味覚だ。もうそんな時期か。


「夏休みが始まるのにかい?」


「うん。留学生だけ別なんだってさ。モルフェシアについて知っておけってことらしい。それで今日は友だちが相談に乗ってくれた」


「良かったな」


「うん」


 生返事のセシルはもぐもぐと目の前の皿に夢中になっている。


「そう、それでセシル様はあたしのレポートを借りに来てくれたんです」


 スープを持ってくるタイミングを見計らっているバーバラが横入りした。


「ああ。あれはよくまとめてあるからな」


 学生の顔をもつメイドは、主人に労われ、うふふと誇らしげに微笑んで膝を小さく折った。

 前菜を二六〇〇年産の二五年物の白ワインで楽しんでいると、程なくして、ローズマリーが中央に浮かんだ真っ白なポタージュが運ばれた。食欲のままに一口含むと、冷たくてざらりとした舌触りがした。まろやかな生クリームのコクを白コショウがすっきりと整えている。じゃがいもだ。


「それで? 歴史と一口に言っても範囲が広すぎるだろう。テーマは決めたのか?」


「うん」


 青年の問いに、少年は相変わらずそっけない。

 それもそのはず目の前のスープに夢中なのだ。音もなく差し出された堅焼きパンをちぎってはスープに浸してまさに食らいついている。外では絶対にさせないぞ、とパーシィが思う手前でセシルが小さくむせた。咀嚼と嚥下のテンポが合わなかったのか、少しつまらせたらしい。

 喉を水で洗い流すと、ようやく喋る気になったようだ。


「フォリア教。天女信仰にした」


 青年のスプーンを持つ右手が止まる。セシルはそれに気付かず続けている。


「大体のモルフェシア人は永遠を生きる女神フォルトゥーネをお祭りしてるんだって。友だちが言ってた。確かに詳しく知らないから、いいかなって」


 まさか、魔法少年の口からフォルトゥーネの名が出るだなんて。


「そうそう」


 と、楽しげに引き継ぐのはメイドのバーバラだ。


「あたしたちコルシェン人が両性具有の美しきネレディア大神とネレディアス教を信じるように、モルフェシア人の精神的根幹には国興しの女神フォルトゥーネ様のフォリア教があるってこと、絶対知っておいたほうがいいです。文化の違いをきちんと理解することで相手のルーツを尊重することになりますし――」


「バーバラ。お食事中よ。いい加減にしなさい」


 得意げな彼女の横腹を姉がつつこうが、勢いは止まらない。


「フォルトゥーネ……」


 探偵の思考が、俄然一つの考えに浸食される。

 なぜか魔女を求めるジャスティン。彼とセシルを引き合わせてみるのはどうか。


「パーシィは知ってる? 空の上にいるんだって。だからなんでもお見通し、らしいよ」


 彼の誘いに乗じて、セシルをフォベトラ城へ連れて行くのは。


「いや、詳しくはない」


 青年の舌から嘘がするりと飛び出した。

 それは確かに口の外へ出たはずなのに、今も喉に閊えている。

 飲み込もうとするが、乾ききった喉が張り付いてしかたがない。思わずワインを口にする。

 セシルはとっくにスープを平らげ、副菜が来るのを待ち受けていて、手持無沙汰なのを手元のナプキンで誤魔化している。


「モルフェシア議会がなんとか、ってメルヴィンが言ってたしな。議会の仕組みも調べないと。んー、意外と面倒かもしれない」


「ならば、直接教えてもらうといい」


 チャンスかもしれない。パーシィは思った。ジャスティンのことはどうだってよい。

 僕の望みは一つだけだ。


「なにそれ」


 セシルはまともに受け取らない。それもそうだった。

 モルフェシア議会は、ケルム市民にさえも議員は一切秘密にされていた。


「議会のトップであるモルフェシア大公に直接聞くんだ。ちょうど彼も、僕たちに会いたいと言っていた」


「嘘。パーシィ、モルフェシア大公と知り合いなの?」


「ああ」


 偽りのない言葉の、なんと清々しい事よ。そう思うパーシィの胸はまだ閊えていた。


「やるじゃん」


 副菜のタラとポテトのパイが現れるよりも先に、セシルの瞳が煌めいた。


***


 翌日、パーシィはナズレの訪れよりもずっと先に目覚めた。

 寝起きの耳に飛空艇の離陸音がやけにうるさい。

 そもそも眠れたのだろうか。眠りの上澄みを啜らされる、昏く長い夜から解放された喜びでベッドから体を起こしただけではないか。


「……はぁ」


 ため息は重たい。疲れが取れた感じがしないのだ。

 身じろぎし続けたベッドの上が乱れているのに気付く。

 とても独りで眠ったようには見えないな。パーシィは心の中で揶揄した。相手もいないのに。

 うっすらと夜明けを告げる窓辺が、まだ夢と現実の境目をぼかしている。

 このまま朝日を受け入れればきっと、夢に尋ねた彼女の面影は再び影と消えるだろう。

 ある日突然、真っ黒な影だけになってしまった少女。

 記憶の影があるなら、まだよいほうだ。

 関わりのあった人間――家族からも忘れ去られてしまった彼女は、ただ独りパーシィの中にだけくっきりと影を残していた。これにどれだけ苦しめられてきたことだろう。

 十年以上経ってまだ、こうして彼女を思う度に目頭が熱くなる。

 大切にしていた。大切だった。愛おしかった。

 彼女の名前も、顔も、姿かたちも、その全てが。

 けれどもそれらは思い出の世界で無残に塗り潰された。鈴を転がすような笑い声さえも。

 パーシィははっとした。


「声……?」


 それは甘やかな初恋の思い出から彼女と共に消えてしまったものの一つ。そのはずだった。

 慌てて、翼の揺れる補聴器を右耳につける。

 左にのみ広がっていた音世界が全身のものとなったとき、誰かに呼ばれた気がした。

 このケルムでは、決して呼ばれる事のない名で。

 パルシファル様。

 首を回したパーシィが見たのは、一条の光に照らしだされた姿見だった。


***


 セシルの装いはいつも通り、メイドたちが小奇麗にまとめてくれた。

 フィリナとバーバラの姉妹は、クローゼットの中からケリー・マクミランの新作をめざとく見つけてくれた。これは先日、パーシィが選んできた一枚だ。いまの時期まさに葉を茂らせる植え込みに似た緑のドレスにレースのつけ襟が美しく、青空にくっきりと浮かぶ雲のようだ。そこへ薔薇色のサテンのリボンが彩りを添えて、春の香りを演出している。亜麻色の髪の上には同じ色のヘッドドレスが乗っている。よっぽどのことが無い限りかつらだと気付かれることは無いだろう。

 少年は不服そうだが、洋服は喜んでいるように見えた。

 けれどそう言えばまた臍を曲げるに違いないのでパーシィは思いつきをそっと心にしまった。

 めかし込んだ二人と執事を乗せて、自動車は動き出した。

 フォベトラ城に行くのは初めてだからかセシルは腰を浮かせながら窓辺の景色を見ていた。

 パーシィにとっては不定期ながらも十年通い詰めている道のりで、全く珍しいものではない。

 軒先の看板が下され見慣れぬものにとって変わっても、さほど違いもわからぬほどだ。

 ホルガー通りを南下し、ほどなくして差しかかった交差点を北東へ曲がればカルミア通りだ。そこから道なりに進みさらに東へもう一つ曲がるとムーンリバーに沿ってセントラルへ向かうリバーサイド通りに変わる。日差しにキラキラとご機嫌な水面を見るためセシルは窓を開けた。湿った水の匂いがたっぷりと車内に運ばれる。水道が整備されている証拠だ。探偵は改めて文化に感謝した。透き通った水路の上に、水先案内人がボートを浮かべている。

 しかし僕たちが恩恵を受けているのは、マナストーンが無ければ稼働しない浄水施設なのだ。

 そう思うと、隣の少年のように無邪気では居られない。

 パーシィが見慣れたファタル湖を目にした途端、セシルがはしゃぎだした。


「うわあ! 近くで見るのはじめて! でっかいな!」


 瞳の邪魔をしたくないのか、少年にしては長い睫毛がまばたきを惜しんでいる。


「ファタル湖だ。ケルムの生活用水をすべてまかなっている」


「へぇー」


 パーシィの解説は、少年の耳を通りすがっただけのようだった。

 その証拠に、セシルは自分の目で見たものについて語る。


「船は一隻もいない……。禁止されてるのか? ねえパーシィ、あれがフォベトラ城?」


「ああ」


 肩を揺すられた青年は、セシルの指さす方にいつもの景色が広がっているのを目視した。

 変わらなさが、安心感を誘う。

 けれども、とパーシィは気を引き締めた。今日は独りじゃない。

 自動車を降りてナズレとアヴレンカ橋の手前で別れた二人は橋ではなく人だかりを目にした。


「なにあれ。オペラ女優でもいるの?」


 パーシィは見なくとも、隣のセシルが思いっきり顔をしかめたのをわかった。


「さあ。この場所に現れる可能性が高い一番の有名人は――」


「モルフェシア大公!」


 群衆の中から、男の声が一際高く響いた。

 それと同時にパシャリとシャッターが切られる音が始まり、それらは争うように続いた。


「一言! なにか一言!」


「ノーコメントだ。下がれ下がれ!」


 セシルを喧騒の脇へ逃がしたパーシィが少し背伸びをすると、くたびれたジャケットの新聞記者たちと制服の門番たちがせめぎ合っているのが見えた。

 門番の後ろに身柄を保護されているのは、黒髪と同じく髭をうっすらと蓄えた男だ。

 国家元首が先頭に立つことについての是非はともかく、予想は大当たりだ。


「やはり、ジャスティン……!」


 探偵の呟きは不躾な問いによってすぐにかき消されてしまった。


「モルフェシア議会が魔女に乗っ取られているというのは本当ですか!」


「いや、俺が聞いたのはフォルトゥーネ様が地上に降りてこられると!」


「はいはい! 下がって!」


「公式の発表をお待ちください!」


 パーシィの知己のロウとコッツが、あえて鈍らにしてある槍を交差させて、新聞記者たちの猛攻を防いでいる。

 これではとてもアヴレンカ橋なんて通れない。


「君たち――」


 痺れを切らしたパーシィが新聞記者の一人に手をかけようとした。その時だった。


「やめたまえ、グウェンドソン君」


 だが、その左手は何者かに掴まれた。


「自ら事を大きくしに行くのは、バカのやることだろう」


 パーシィが振りほどこうとそちらを睨みつけると、見知った顔があった。

 くっきりと持ち上がった真っ赤な頬と団子鼻、その下に丁寧にカットされた髭。

 大きなパーツの載った大きな頭の上に、小さな帽子がちょこんと乗っている彼のケルム市警の制服が窮屈そうだ。知り合いの登場に、パーシィは少しほっとした。


「ホッフェン警部」


「いやはや。呼ばれて来てみればひどい有様だ。グウェンドソン君、セシル嬢のことは大公伝令より聞いている。端に寄っていたまえ」


 ホッフェンはそう言うと、自分より背も足も長い部下たちに指示を出した。

 新聞記者たちは盾を持つ警官の列に制圧されて、どんどんと馬車広場から遠ざけられる。


「記者諸君、警察の手を煩わせるな!」


 それを胸を張って指揮したホッフェンの背中を、探偵と助手はそっと通り抜けた。


「おじさん、ありがと」


 セシルのささやかな礼に、警部が頬をとろかせたのを、パーシィは見過ごさなかった。


***


 ロウとコッツ、門番が勢ぞろいしている中央でパーシィたちを待ち受けていたのはモルフェシア公だった。目に見えて疲弊している彼らを、風が豪快にファタル湖ごと撫でてゆく。


「ケルム市警と連携をとって、警備を強化してくれ」


「ハイ!」


 パーシィを認めると、その顔が見るからに弛緩した。


「やあ。こんな日にようこそ」


「どうも。こんなに大勢の歓迎を受けたのは久しぶりだ」


 探偵は、大公がいつも通り差し出してくれた右手を握る。

 彼の力が無いのに気付いて、はっと顔を見据えてしまった。

 ジャスティンの真っ黒な瞳が、セシルに釘付けになっていた。

 思わぬ沈黙の訪れで、遠くに行ったはずの喧騒がにわかに近づいた気分になる。

 セシルは視線をそらしていて、ものすごく気まずそうにしている。だが、瞳の角度からしてパーシィの背中を見ているのは確かだった。かき乱されている髪の下から不安そうな色を見せている。助けろ、と言われている気がして、青年は口を開いた。


「ジャスティン。こちらがセシル嬢だ。エルジェ・アカデミーに通いながら僕の助手をさせている。セシル。モルフェシア大公ジャスティン殿だ」


「はじめまして」


「君……、いや、あなたが……」


 止まっていた時が動き出したかのように、ジャスティンはぎこちなく一歩踏み出した。

 そしてなぜか膝を折ってまでしてセシルの手を取り、グローブの上からくちづけた。

 やけに長いな、と思った矢先に魔少年が固まって動かなくなり、パーシィにまばたきを送りつづけている。ヘッドドレスが影をつくって青ざめた顔を誤魔化している。

 青年はそっと促した。


「ジャスティン、いいのか?」


「あ、ああ……。そうだな。こう風が強いとセシル嬢が冷えてしまうな。さあこちらへ」


「えっ! わ、ワタシは別に、ですね……!」


「長らく立たせてしまい、申し訳がたたない」


 モルフェシア公は恭しくセシルの手を取ってフォベトラ城に向かった。

 探偵は、インヴァネスコートの温かさを一瞬忘れてしまった。


***


 お茶会の前に、フォベトラ城の見学を許された。案内人はモルフェシア大公その人である。

 パーシィが眉を上げる手前でセシルが恐縮したが、当の大公はお付きも外した。

 そうしてあちこちに連れだって、探偵と助手は一般人が入る事の叶わぬフォベトラ城を歩き回った。窓からときどき見えるのは青と街だ。空と湖が広がり、あたかもこの城が天空に浮かんでいるような錯覚さえ覚える。


「天空城……」


 ときおり窓から上を見上げるなど、セシルはそわそわしていた。

 しかし、パーシィにとってそれよりも目に余ったのはジャスティンのほうである。

 ジャスティンは何かにつけ、大層嬉しそうにセシルを見つめている。

 人が恋する顔などそう見ないが、それに似ていて、黒々とした瞳に星が浮かぶようだった。


「はじめにファタル湖ありき。ゆえに、ファタル湖を砦とし守らんとして、この城フォベトラは作られた」


「……フォベトラ」


 セシルは少し含みながら繰り返した。


「代々のモルフェシア公が住まっているのだよ」


「独りで?」


 住まいとしては厳ついフォベトラ城のあちこちに、少年がきょろきょろと首を回す。

 その度にジャスティンが解説のため進み出ては、小さな感謝の言葉にうち震えていた。

 パーシィには、そう見えた。


「寂しくないんですか?」


「なに、かえって静かなものだよ」


 セシルのほうは、当初モルフェシア大公の丁寧な対応に縮こまっていた。けれども、グウェンドソン邸よりも歴史ある荘厳な建物に興味をそそられ、すぐにいつもどおりになっていた。

 古めかしいつくりの柱や建物に現代的な装飾が施され今も生きている空間だ。

 確かに、モルフェシアの現代史を直視しているかのような錯覚さえ覚える。

 好奇心に勝るものなし、と探偵が半ば冷めた目で過ごしたフォベトラ城の見学は、いつしか会議室にまで及んでいた。

 ジャスティンが、さも普通の事のように装いながら得意げに話している。


「モルフェシアの議会は、人間で構成されている」


 パーシィは思った。ああ、あの話だな。


「この場合の人間というのは、二四枚のカルトのうち、零から十のことを指すんだ。この十一枚には地上の人間が描かれているから」


 そう言って、ジャスティンは懐からひと組のカードを取り出し、会議室の机の上に広げた。そして、その中から一枚を引いた。


「私は名はジャスティンだが現在の役職は〈皇帝〉だ。この議会を治め、最終決定を下す役割を課されている」


 セシルはいつもの赤い革鞄から慌ててノートを取り出した。

 だが、肝心の書くものを忘れたようだったので、パーシィはいつもの万年筆を貸してやった。


「議長ってことですか?」


 小さな客の問いに、モルフェシア公は首を振った。


「いや、議長は〈教皇〉が務めることになっている。フォリア教の司祭から毎年一人が選出される……。ここまで言っても構わんのかな?」


 そこまで説明して、ジャスティンはくるりとパーシィの顔色をうかがってきた。

 セシルは懸命に慣れない万年筆を走らせている。

 モルフェシア議会は、その仕組みそのものは広く知られているものの、議員が誰かはひた隠しにされているのだ。数年に一度、公的な場においてその知見を認められた人物に、秘密裏に依頼している。よって、過去議員を務めた人物だけが認知されていた。


「僕に聞かないでくれたまえ」


「個人が特定されない程度にとどめておくとしよう」


 セシルが困惑に瞳をしばたたかせているのに気付き、ジャスティンは再び口を開いた。

 正確には、開こうとしたところでセシルの質問が飛んだ。


「あの、フォリア教ってなんですか?」


 ジャスティンは瞳を丸めた後、咳払いをした。


「天女……長きに渡りこのファタル湖の空に住まう女神フォルトゥーネ様を敬う信仰だ。運命の魔女ともいわれている。なぜなら、山もない痩せた土地の真ん中に、こんこんと湧き出でる水たまりがファタル湖で――」


 そう言いながら彼は、セシルを伴って壁に張られた地図のタペストリーの前へ行く。


「このファタル湖は女神の涙でできているといわれているからだ。我々モルフェシアの民――古くはファタルの騎士と呼ばれていた――が、歴史以前からここに住み続けていられるのは、フォルトゥーネ様のお力によるものと信じているわけだ。そうして、ファタルの騎士は夢見る男たちの集まり、すなわち夢見男モルフェウスに例えられ、モルフェウス騎士団としてまとまった。これが、モルフェシアの系譜さ」


 ジャスティンの言葉には、誇張も過信もなかった。


「フォリアとは舞曲のことでね。われわれの感謝の意を天上からフォルトゥーネ様がご覧になれるよう、お祭りしお納めしていた舞なのだ」


 ただの事実として語る姿勢が、かえって真実味を匂わせているとパーシィは思った。


「我々が国をつくるとき、モルフェウス騎士団長が代表に選ばれ、ときのコルシェンの国王から大公爵の位をいただいた。我らにとって、フォルトゥーネ様こそが王であり象徴だったからという。個人的に、実に共感できる話だ」


 ジャスティンが淡々と物語る歴史は、お伽噺のようだった。

 パーシィはそっと、机の上からカードを一枚引いた。

 翼を持つ子どもたちに祝福された人ならざるもの―〈運命のFORTUNE〉だった。

 運命の女神、か。

 探偵とて、フォルトゥーネの存在を頭から疑ったことはない。

 けれども、はぐらかされ続けた十年に疑いを持たぬわけでもなかった。


「それが、フォリア教、天女信仰……」


 先ほどのひと悶着が嘘のように、会議室は静謐だ。

 セシルが書きとめるペン先が、ノートを擦るささやかな音が耳に心地よい。

 発展し、人間が集まったケルムでは静けさは買うものだ。

 この極上の音空間は、首都随一に違いない。


「セシル嬢は、疑わないのだね」


「えっ?」


 モルフェシア公は、肩をすくめた。


「さっきのを見ただろう」


 パーシィは友人が何を言いたいかすぐに察知した。


「ああ。新聞記者が言っていたな。『魔女』だの『フォルトゥーネ様』だの」


 探偵には思い当たる節があった。


「ベラドンナにしてやられたのか?」


「おそらく、そうに違いない」


 助手がおびえる。探偵の魔女――それが彼の通り名になってはいけないと思っているらしい。


「ま、魔女って?」


「安心されよ、セシル嬢。探偵事務所の噂ではない」


 大公がさりげなく、セシルの背中に触れたのをパーシィはちらと見咎めた。


「……よかった……」


「苦くても噂は噂さ。さて、喉が乾かないかね、諸君?」


 腕を広げたモルフェシア大公の提案を反対する人間は誰もいなかった。

 少年はというと、ジャスティンの手が離れた瞬間、かつらがずれていないかさりげなく確かめていた。


***


 その後のお茶会は、パーシィが受けたこともないような歓待だった。

 セシルはかわいそうに、じっくり楽しめなかっただろう。贅の限りを尽くしたもてなしに舌を打ちながらジャスティンの質問に答えなければならなかった。それは日が傾くまで続いた。

 そのためか、セシルは何回も紅茶のおかわりを頼んでいた。喉が渇いたのだろう。

 それに三人ではとても食べ切れない量のケーキやマフィン、スコーンなどを出された。

 余った分を手土産に持たせてくれるというので、パーラーメイドが包むためにそれらを下げると、テーブルの上が急に寂しくなった。


「あの、大公様」


「ジャスティンで構わないよ、セシル嬢」


 セシルは淑女がそうするような楚々とした笑みを返事がわりにした。

 慎ましやかに持ち上げられた頬の上品さに、二人の男は揃って息を飲んだ。

 パーシィは一瞬、彼が少年であることを忘れてしまった。

 まだ男になりきれない体をドレスで覆っている一方で、柔らかさの残る顔立ちは成人女性のそれのように美しかった。本物の少女が持つ乳臭さが無いのに、成人がなくしがちな、黙っていても滲みだす若さがあるのだ。その、枇杷のように艶やかなくちびるが開かれた。


「教えてもらいたいことがもう一つあるんです」


「なんだね」


「フォルトゥーネ様が住むのって、空の上、ですよね?」


 モルフェシア公はにっこりと頷いた。


「ああ、そうだよ――」


「そこ、ヘオフォニアっていうんですよね?」


 セシルの声に、大公の顔が凍りついた。何があろうとも穏やかで快も不快もどちらともつかない表情を浮かべる彼が、ほとんど無表情に近いものを見せている。表情を繕う余裕が一瞬にして消えたのだろう。だが、その糸口を容易く見せはしない。


「……よく、知っているね」


「そこへは、どうやったら行けますか? ワタシの会いたい人が、そこにいるんです」


 単刀直入とはこのことだろう。魔少年の言葉が稲妻のようにパーシィの心に落ちて轟いた。

 モルフェシア公はまたも声を失った。しかし何事もなかったようにさらさらと言葉を紡いだ。


「知っていれば、教えてあげられたのだが……」


「大公様でも、知らないんですか?」


「……ああ」


 パーシィは、ジャスティンが一瞬言い淀んだのをすぐに察知した。

 しかし、追随はしなかった。本物の無知と好奇心には誰も敵わないからだ。


「フォルトゥーネ様はそのお言葉を鏡を通して伝えてくださるのだ。だから私にはお姿を拝見することしかできない」


 申し訳なさそうな声音を紡いだジャスティンの表情は、逆光になってよく見えなかった。


「鏡! それってどこにでもあるものですか? それとも光を反射するものならなんでも?」


「い、いや。特別な鏡に限られる」


 だが、セシルはその姿を焼きつけようとするかのように、果敢に質問を重ねた。


「じゃあ、じゃあ! 誰も天空城ヘオフォニアには行ったことがないんですか? これまでも、これからも?」


「……ああ」


 モルフェシア公が絞り出した苦い肯定の後に、沈黙が続く。

 パーシィがちらと瞳を回すと、セシルのまっすぐにしていた背筋から、ふっと力が抜けた。

 握る両の拳がそれぞれ膝の上で震えて、やるかたない気持ちがそこでわだかまっている。

 だからだろうか。青年は気付けば口にしていた。


「では、ジャスティン。どうして僕は〈地上の翼〉を探しているんだ?」


 セシルの視線が頬に刺さるのを努めて無視する。


「君が〈詩篇〉を知らぬわけがないだろう。僕はてっきり〈地上の翼〉は天空城への鍵なのだと思っていたが……」


 そのとき、がしゃりと机のうえのティーセットが一斉にぶつかり合った。

 セシルが体を縮こまらせる。ジャスティンが急に席を立ったのだ。

 窓辺に歩んだ彼の濃紺のジャケットは、斜陽に黒々と焦げている。

 そしておもむろに、ベランダへ続く扉を開いた。

 ファタル湖の水の香りを運んでくる風が、部屋に入り込んで渦巻いている。


「すまない。少し、息苦しくは無いかと思ってな」


 潮時か。パーシィは悟った。

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