第二楽章 女神を戴く国-Andante con moto-

2-1 アカデミーの課題

 雪がすっかり姿を消して季節は春。〈雪解けの知らせ〉の七日間が過ぎた〈白羊の月〉二日。

 青空は夏へ向かってぐんぐんと高さを増し、緑はその青さを競っている。

 春学期が間もなく終わるので学生が校舎のあちこちで口々に夏休みの予定を競い合っている。

 だが、セシルだけは別だった。


「嘘だろ! なんでオレだけ!」


 少年はうっかり、少女らしさをかなぐり捨てて吠えてしまった。

 なぜなら、掲示板に張りだされた一枚の紙に自身の名前を見つけたからだ。

 科目はモルフェシア史特講。青天の霹靂とはこのことである。


「大丈夫よ、セシーリャ!」


 顔まで青くするセシルの背中に、ばしんと突然大きな衝撃が走った。

 振り返ると、セシルよりも頭一つぶん小さな子どもがぺったんこの胸を張っていた。


「デリか! 殴んなくてもいいだろ!」


「あなたがしょげているから元気づけてあげたのよっ!」


 二人の少女――正確には女装少年と幼女がやいのやいのしているのを、赤毛のクラスメイトはにこにこと眺めている。


「大変ですわね、セシル。あの、ややこしいクロシェットの提出が終わりましたのに。お休みじゃございませんのね」


「そーだよ。てか、おかしい。エマだって一年なのに」


 ぶすっとする友人に、少女は豊かな胸を張った。


「わたくしはモルフェシアはケルム生まれケルム育ち、生粋のモルフェシア人ですもの」


「ちぇっ。いくら国民でも歴史が苦手な奴だっていそうなものだけどっ」


「そう、かりかりしなくてもいいじゃないか、セシル」


 朗らかなテノールが後ろから聞こえたと思うや否や何かがそっとセシルの頭を掠めていった。

 そんなことをする小公子は振り向かずとも誰だかわかる。メルヴィンだ。

 黒髪の貴公子は腕を組んだが微笑んだ。


「モルフェシア史……僕たちからすれば母国を知ってもらえるいい機会だと思う。それに自分の国に興味を持ってもらえるのは、やっぱり嬉しいものだから」


「メルビーノさんもケルムの方ですもんね! 訛りがぜんぜんなくて、美しい言葉づかいをされます!」


「ありがとう、デリーツィア嬢」


 いつもどおりの和やかな会話の中、セシルは腕時計を盗み見た。文字盤を守る小さな硝子板の上には、自分の瞳しか映り込まない。きっとこれが世間の普通なのだろうがきゅっと心臓を掴まれるような寂しさに襲われる。いつからだろう。しばらくリアと話していない。


「まあセシル、そんなお顔をなさらないで。今日はこのあとお時間ありまして?」


 身体も眉も傾けて、エマが気遣ってくれる。

 学校に通う以前、こうしてくれていたのはリアだった。

 そう思ってしまう自分が情けないやら心配してくれる友だちに申し訳ないやらで口が重たい。


「……帰るだけ、だけど」


 すると突然、少女の柔らかい体で抱きしめられた。

 ぎくりとするセシルを知ってか知らずか、エマは高らかに宣言した。


「では決まりです。セシルとデリさんを援護するべく、これから作戦会議に参りましょう!」


***


「あら。セシル様が寄り道だなんて珍しいこと。安心してくださいな。プディングは夜にも食べられますから」


 セシルが電話で迎え先の変更を告げると電話口に出たフィリナは気持ちのいい返事をくれた。

 図らずも大好きなプディングの無事も保障され、ひと心地がついた。

 そのあと、エマの馬車コーチに揺られて、四人は彼女おすすめのティールームに連れて行かれた。そこはかつて貴族の別荘だったという建物で、グウェンドソン邸のように散策ができる美しい前庭があった。静かなため池が内陸の都ケルムに涼やかな潤いを与えていて、早咲きの薔薇がちらほらと庭の緑に彩りを添えはじめている。

 白い花弁がまるで生クリームみたいだ。


「まあっ! お花が生クリームみたいで美味しそうよ!」


 と、デリがセシルの無言の感想と同じことを言うものだから、思わず噴き出してしまった。

 そしてその笑いはくすくすと伝播し、いつのまにか馬車の中の全員が頬を緩めていた。

 もちろん、御者もそのうちにもれなかった。

 馬車を降りると、豪華なジャケットを身につけたウェイターに出迎えられた。

 ドレスコードが確実に存在するだろう高貴で絢爛豪華な佇まいに制服のセシルはたじろいだ。

 ここって、制服で来ちゃだめなとこじゃないの?

 固まるセシル、そしてデリの手前で、エマはいつもと変わらず堂々としたものだった。


「ラ・プリマヴェラ嬢、ようこそお越しくださいました」


「ごきげんよう。サンルームは空いてらして?」


 案内係の丁寧な対応にも、そつなく答えている。


「はい。ただいまご案内いたします」


「ありがとう。さ、参りましょう」


 と、振り向き微笑む少女は間違いなくセシルの女友だちだ。けれど、無駄が無く美しい所作がこの空間に、いや、この場所があまりに彼女に相応しい。本当に恐縮してしまいそうだ。

 そんなセシルの足元――と言ったらきっと彼女は怒りに転げまわるだろう――で、デリが小さく震えていた。


「どうしましょう。エマニュエッラ、あたしより大人っぽい……!」


 そうだ。デリの言うとおりだ。知らない大人みたいに見えたんだ。

 セシルの背中を、そっと押す手があった。少し大きな手のひらは少年のものだった。


「セシル。コートを」


「ああ、うん」


 メルヴィンは執事や小さな紳士がするように、学校指定のコートを脱がせてくれた。

 そしてそれをクロークに手渡すと、四人はあらためてサンルームへ案内された。

 サンルームはその名の通りこの建物で一番太陽に愛された部屋だった。大きな卵を内側から支えるような八本の梁が頭上高くにある。ティールーム全体からは少し離れていて、ホールの喧騒から少し切り離された居心地のよいテーブルだった。そして何より、日だまりを独占しているのでぽかぽかと暖かい。ここに狐のアルプを連れてきたら、きっとすぐに丸まって昼寝をはじめるだろう。強ばっていた肩や気分が少し解れる気がする。

 そのうち、カフェのホールを担当しているウェイターが姿を見せた。

 エマは渡されたメニューを見ずに色んな呪文を口にした。と、セシルは思った。トライフルのシロップはリキュール無しで、とか、ファーストフラッシュはあるのかしら、とか。

 あの呪文でいったいどんなものが出てくるのだろう。

 どきどきしながら待っていると、エマがくすりと笑った。


「すぐに魔法みたいなお菓子が来ますわ」


 そして、彼女の言う通りになった。

 ウェイターが持ってきたのは足つきのガラスボウルに白と赤が山盛りにされた一皿だった。

 魅惑的な白い山にスプーンをひとさしすると、それはふんわりと銀色を受け止めた。

 堪らずひと舐めすると、柔らかな甘さが舌の上を撫でてすぐに消え去った。

 もうひと掬いし口に運ぶと、今度はとろける甘さと瑞々しいイチゴが噛むほどにはじけた。

 セシルがときめきにまかせてエマを見つめると、彼女は瞳を輝かせて言った。


「そのお顔が見たかったのです。ね。とてもありあわせ《トライフル》だなんて思えませんわよね」


 そうして四人は、たっぷりの生クリームとカスタードクリーム、イチゴにラズベリー、ブルーベリーやぶどうがスポンジケーキの上にどっさりと乗せられた食べ物を紅茶と共に堪能した。

 全員のガラスボウルがすっかり空になったころ、メルヴィンが口を開いた。


「モルフェシア史特講だけども、範囲はどのくらいなんだい?」


 セシルは紅茶を飲み込んだ。鼻にすっと抜けていった華やかな香りを名残惜しみながら、鞄からメモ紙を取り出した。立ちながら急いで記入したので字が汚い。


「えっと、ほぼ自由研究かな。モルフェシアに関わることならなんでもいいみたい。三枚から十枚書けって」


「広すぎてわかんない上に、締切は一週間後ですって。突然だし早すぎるし! 先生方も早く夏休みにしたいなら課題なんてださなきゃいいんだわっ!」


 デリがむーむーと眉根を寄せて不貞腐れる。一言一句彼女の言うとおりだとセシルは思った。

 エマがカップを静かに置く。


「最後までお手伝いして差し上げたいのですけれど、わたくし、明日から別荘に参りますの。お父様の出張にお付き合いしなくてはいけなくて。それこそ、提出の日に戻ると思いますわ」


「僕は実家に……。ごめん、セシル」


 申し訳なさそうにするエマとメルヴィンに、セシルは首を振る。


「いいよ。レポートって知識を入れさせたいから書かせるものだって知ってるし。それにこういうのは一人でやらないと意味が無いでしょ? 多分、新学期には口頭試問もあるだろうし。二人とも、ありがとう」


 そうは言ったものの二人の留学生が持つモルフェシア大公国の知識はほんの少しで心許ない。

 ならばせめて、とモルフェシア人の二人は、いろいろと糸口を提案してくれた。


「セシル、モルフェシアは別名、夢追い人の国といわれておりますのはご存知?」


「うん」


 その糸口とは、モルフェシアの政治や工業、地理、流通など、留学生側の知識を問い、興味関心を探るようなものだった。新聞記事で見かける単語の意味がわかったりもした。

 それに加えて、友人の新たな一面を見聞きするのがなんとも面白い。

 レポートも勉強もさほど好きではないけれど、この勉強会は不思議と楽しめていた。


「由来は知っているわ! 夢を司るという伝説の神様をお守りする騎士団から取ったんでしょう? それはそれは美しい女神様だったのよね。お顔を拝見してみたいわ」


「それなら、国立博物館に行くのはどうだろう」


 とメルヴィンが提案するのをスムーズにエマが引き継ぐ。セシルとデリの首も同様に動いた。

「そうですわね。本物かはわかりませんけれど、女神様のお顔を模した作品がたくさん見られますし。モルフェシアの芸術をご覧になるのも一興ですわ」


 なるほど。確かに芸術作品も歴史の一部だ。セシルが納得する傍でデリが瞳を輝かせている。


「それは知らなかったわ。行ってみようかしら! ねえ、アクセサリーもある?」


「ええ」


「素敵! カメオがあったら模写してみたいわ!」


 へえ。絵が描けるんだ。セシルは素直に感心した。

 そして、頬を薔薇色にしてわくわくしているデリの顔に、その場に居た全員がにっこりした。


「あのね、あたし、たまに兄様のお手伝いをすることがあって。だからお邪魔にならないように少しでも宝飾品のお勉強をしておきたいの」


 と、照れくさそうに教えてくれたデリに、エマが抱きついた。


「デリさんはそれだけでレポートになりそうですわね」


「ま、まあね!」


 微笑ましいやりとりの間、ふと、機械の動力源がマナストーンであることを思い出した。

 それはだめだ。少年はその考えをぎゅっと頭の隅っこへ追いやった。

 人々はモルフェシアの科学技術は自分たちが発展させてきたものと信じてやまない。

〈マナの柱〉の真実はきっと、ここにいる誰もが知らない。

 でも。セシルは思い直した。どうしてそんな重要なことをパーシィは知っているんだろう?

 ふと、八角形のサンルームの窓に目をやる。

 そこに、自分と同じ顔をした髪の長い少女が映り込んでいる。

 ゆっくりと口が開く。それは空気をはむようであり、彼を呼ぼうとするかのようで――。


「セシル」


 突然肩に手が置かれ、魔少年は座ったまま跳び上がった。


「……何、エマ?」


「ねえ、セシル。歴史という観点でしたら、フォリア教の天女信仰をおさらいされては?」


「天女?」


「女神フォルトゥーネ様のことですわ。建国以前より、遥か天のお住まいからわたくしたちを見守っていてくださっている女神フォルトゥーネ様を仰ぎ尊ぶのが天女信仰、宗派で言えば、フォリア教ですわ。彼女はモルフェシア議会の十人目〈運命の輪〉であらせられるとも」


「天のお住まい……?」


 天空城ヘオフォニア。そのとき、リアが言った言葉がありありと耳に蘇った。

 むう、と呻ったのはセシルだけではなかった。


「エマニュエッラ。あなたの神様を愚弄するわけじゃないけど、お空に何かが浮かんでいたら飛空艇は飛べないじゃない。本当に天のお住まいがあったら、神様のお家に行けてしまうわ」


「それでも天空城はある、と僕たちは信じている」


 くちびるを尖らせるデリに、今度はメルヴィンが説明する。


「目には見えないのか、あるいは飛空艇が辿り着けないとても高いところなのか。それでも、絶対にいらっしゃる。敬虔なフォリア教徒なら、必ずね。そして今も議会のためモルフェシア大公に直接お告げを下さる。これは僕たちにとって真実なんだ」


「詳しいんだね」


 セシルは、いつもながらすらすらと述べる友人を称賛した。


「……まあね」


 けれどもメルヴィンの笑顔はどこかぎこちなくて、張り付けたもののようだった。

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