1-7 本当の居場所

 セシルが自分を責め続けた週末が終わると、また新しい一週間が始まった。

 世界の暦を整える潤週〈雪解けの知らせ〉の七日間である。

 ダ・マスケの村の古いしきたりにおいては祝祭の一週間であり、村人は手仕事の一切を放り出して長老や今年の予言の神子からありがたい言葉を授かる。

 しかしこれらは、大都会ケルムではすっかり忘れられた伝統行事のようだ。

 だって、人々は普段と変わらない一日を忙しなく送っているのだから。


***


 メルヴィンを傷つけたかもしれない。すでに己が性を偽っている。女の子として大切に扱ってくれる小さき紳士の振る舞いが罪悪感をより深くさせる。そうは言っても契約は契約で、今のセシルにとっては女装をしてモルフェシアで生きるのが最善策なのだ。そう言い聞かせないとやっていられない。女装の事実よりも幽霊騒ぎのほうがまだ軽く感じられる。だからつい、もう一人の友人にぽろりとこぼしてしまったのだ。


「まぁ。それでは、そのふわふわして白いものが幽霊で、お手紙を書きますの?」


 エルジェ・アカデミーのカフェテリア、その中で一番太陽に愛された席を確保している一人、やんごとなき少女エマニュエラがセシルの正面で首を傾げた。

 肩で切りそろえられた内巻きの赤毛が弾む。


「うさぎなんでしょう? どうやっておててでペンを持つのかしら?」


 ゆったりとしたテンポが独特な話し方はそよ風のように温かで穏やか。せっかちな人ならば音をあげてしまいそうである。むぅ、と愛らしく突き出された少女のくちびるを、セシルも無意識に真似してしまった。エマはふと、残しておいたオレンジに気付き、上品に口の中へ運んだ。噛む口が嬉しそうに持ち上がる。


「うさぎは鳴かないし、ペンも持てないよ、エマ」


「鳴く? ではやっぱり、動物ではありませんこと?」


 ちよちよと耳をくすぐる歌声に、少女たちは二人揃って窓へ首を回す。

 小鳥の姿を見つけられなかったので、二人はまた同様に顔を見合わせた。


「そうだよ。キツネだって言ったんだけどさ、そしたら次は妖精だって」


「メルヴィンは頑固ですもの。そうと信じたらまっしぐらですわ。変わりませんのよ昔から」


 そう言う少女の口ぶりには、嘲りとも小馬鹿にするとも違うなにかが含まれている気がした。

 まるで母親が息子を語るときの雰囲気に似ている、とセシルは思った。


「あーあ。探偵の助手なんて、いったい何をしたらいいか……」


「探偵さんはなにもおっしゃいませんの?」


 ゆるりと首をかしげたエマに、セシルは返答に詰まった。

 パーシィの言った「魔女として力を貸す」とはどういうことなのか。

 事件を誘発するとされる〈マナの柱〉の発見という目的は理解できても、その方法については白紙だ。ノープラン。パーシィになにか策があるようにも思えなかった。

 それに、そんなことをアカデミーの友人に言えるわけがない。

 エルジェでのセシルは、美しきパトロンを持つ普通の女子留学生なのだから。


「……わかるように言ってくれない……」


「それでは、お仕事のしようがありませんわね」


「どうしよう。手伝いちゃんとできなかったら、アカデミー、辞めさせられるかも……」


「それはなんとかして阻止しなくては!」


 顎肘をついたセシルに合わせてか、エマも同様にして組んだ両手の上に形のよい顎を乗せた。

 深緑色のブレザージャケットに、少女の抜けるように白い肌が映える。

 エマはさっとキャラメル色の瞳を伏せた。

 あどけない顔立ちに似合わない大人っぽい表情にどきりとする。


「……白い妖精、ですわね。そういえば最近、女子寮でも同じ話を聞きましたわ」


「それホント? でもエマって女子寮じゃないよね? なんで知ってるの?」


「それは――」


 言いかけたエマと、それを聞こうと身を乗り出していたセシルの頭に、影がかかった。


「あたしよ!」


 そしてその影からきんきら声が降ってきた。


「あたしがエマニュエッラに教えてあげたのよ! セシーリャ!」


 ふと顔を上げると、セシルたちと同じ深緑の制服に身を包み、両手を腰に当てて平らな胸を反らせる少女がそこに堂々と立っていた。背負った真昼の日差しに照らされ、小麦色のソバージュがぎらついている。セシルの興味は引かなかったが。


「あ。デリか。納得」


「そうですの。デリさんが尋ねずとも教えてくれましたわ」


「デリーツィアよ! 人の名前を省略するならもっと愛らしくなさいッ!」


 甚だしいイントネーションで捲し立てる少女デリーツィアは、セシルと机を並べる同級生だ。

 モルフェシア公国の西、コルシェン王国からメリディアン海域を北西に渡った先にある、船乗りと剣客の闊歩するエスパディア共和国の出身だそうだ。つまり留学生なので、エルジェ・アカデミーの女子寮に身を寄せている。

 うっすらと日焼けで赤らんだ肌の上に髪と同じ金色の釣り目が宝石のように鎮座し、その周りでプラチナブロンドが白波のようにうねる。口が達者で態度が大きいなど自己主張こそ激しいものの、その体はあまりに小さくて凹凸がなかった。同じ十三歳とは思えない発育の悪さをして、彼女を『妖精のプリンセス』と呼ぶ人もいるそうだ。

 当初セシルは面喰ったが、いつでもどこでも誰に対しても変わらない態度に、それが彼女なのだと思えるようになった。ただ一つの例外もあったが。


「リーチャとか、リッチェとか。ほら、いくらでも思いつくでしょ」


 リアに似てるから却下。セシルはそう思って、心の中で彼女の提案を丸めてゴミ箱に捨てた。


「デリはデリだよ。デリこそ、人の名前をエスパディア風にするのやめてよ」


「いいでしょ。これがあたしなりの愛称よ。と・こ・ろ・で! 話は聞いたわ!」


 ふふん、とデリは、腰まで伸ばしているブロンドを手で払いのけた。

 いちいち大人っぽさを演出したがるのだが、その実、セシルよりも頭一つ小さい。ぴったり四フィートぐらいだろう。そのてっぺんに大きなリボンを一つ、これ見よがしに飾っているのが幼さを強調しているのには、まだ気づいていないらしい。


「二人とも白い妖精を探しているんでしょ? だったら、あたしの部屋に来たらいいわ。こ、今夜でもいいわよ」


 妖精ならもう目の前にいるし。セシルは腕を組んだ。


「なんでデリの部屋に、しかも夜に行かなきゃいけないんだよ?」


 セシルの問いに答えたのは、少女ではなかった。


「白い妖精は、夜に現れると相場が決まっているんだ」


 少し掠れた、青臭いテノール。食事を乗せたトレイを手に現れたのは、メルヴィンだった。


「あっ、あっ……メルビーノさん……!」


 彼を見た途端、デリの顔が真っ赤になって、態度がしおらしくなった。


「ご、ご、ごき、ごきげんよう……」


「やあ、デリーツィア嬢。みんなでお昼なら、僕もぜひ混ぜてくれないかな」


 メルヴィンは全員に許可を取るような言い方をしながらセシルの瞳をまっすぐ見つめていた。

 いつもセシルとエマ、メルヴィンの三人で集まっている。

 ここで断って、変な雰囲気にはしたくないので、頷いた。


「う、うん――」


「じゃあ失礼して……」


 メルヴィンに促されたデリはエマの左隣に、少年はセシルの右隣に座った。


「はわわ……!」


 そわそわと何もできずに小さくなるクラスメイトに、セシルとエマは顔を見合わせた。

 そして、まばたきしあう。さすがにわかりやすすぎるだろ。

 そう『妖精のプリンセス』は学園のプリンスにお熱で彼の前では花も恥じらう照れ屋な乙女になってしまうのだ。誰もが見かける微笑ましい風景は、もうほとんど教室の風物詩となっている。


「……デリ……」


「本当にお好きなのですね。ふふっ」


 にっこりと満足げに頬笑むエマが窓ガラスに映り込んでいる。

 それを見てセシルは、はっと思いついた。ぴっと自身を指差す。


「ねえ、デリ! そういえばさ、女子寮にワタシみたいな子、いない?」


 むくれたように縮こまっている金髪の少女が、潤んだ金色の瞳でセシルを下から睨みつける。


「セシーリャみたいな? お名前かしら、それともお顔?」


「どっちも。リアって名前で、顔も瓜二つで、女の子」


 そう言ったセシルの鼻先に顔をグイッと近づけたのは、エマだった。


「あら。セシルに双子のお姉様がいらっしゃるということ? 初耳ですわ!」


「ま、まあそんな感じかな」


 魔少年がたじろいで体を引くとエマの残念そうな顔とメルヴィンのほっとした顔、それからデリの曲がった口が目に入った。それがもごもごと動く。


「あなたみたいなフシギな子、会ったら絶対に忘れたりしないわ。あたしの知るあなたはここにいるあなた、だ・け!」


「……そっか……」


 セシルのため息と上半身ががっくりと落ちる。

 期待してなかったけどさ。と、自分に言い訳をしてみたけれど、落ちた肩はそうそう簡単に持ち上がりはしなかった。また、ふりだしか。

 ふむ、と鼻を鳴らしたのは黒髪の少年だ。

 それを耳にするなり、デリはまた頬を真っ赤に染め、きゅっと小さくなって鳴りを潜めた。


「それこそ、ドッペルゲンガーという瓜二つの生霊かなにかじゃ……!」


「メルヴィン。あなた、真面目におっしゃっていて?」


 追求する言葉なのに使う人が使うと品がよく聞こえるものだなあ。

 と、セシルが他人事のように聞く傍で、二人は上品な口喧嘩をしている。


「オカルトのお話なら、別の方にしてちょうだい」


「僕はいつだって真面目だ。こと、セシルについてなら、なおさら」


「えっ?」


 だから、急に名前を呼ばれて驚いた。一斉に三人の視線を浴びて体が強張る。

 デリからじっとりとねめつけられているのには、気付いていないふりをした。

 メルヴィンが穏やかにまばたいて、その手をセシルの手に重ねた。

 温かいな、と魔少年が思ったのも束の間、急な接触の意図が読めなくて息が詰まる。


「君のそっくりさんがいるというのも大変気になる。でも、今、君が優先すべきことはなんだろうとあれから考えてみたんだ。けれどやっぱり、仕事も大切だと思う。だって、それが君とグウェンドソンさんとの契約なんだから。君はその仕事をすることでアカデミーの学生であり続けられるんだろう。白い妖精が果たしてサミュエルに関係しているかはわからないけれど、その有無を確かめるのも、有益じゃないかな。そのために今夜、学生寮に行くと言うのなら、僕が付き合おう」


 メルヴィンの言葉は、あらかじめ用意されたスピーチのように流暢だった。

 その証拠に、デリが正面からうっとりと称賛のまなざしを送っている。

 だが彼女は彼が何を言ったか気付くと、途端に牙をむいた。椅子を倒さんばかりの勢いで立ちあがったが、座るメルヴィンと視線を同じくしただけだった。

 デリは、メルヴィンの手を両手で恭しくとって、セシルから引きはがす。


「め、メルビーノさんが、セシーリャと、夜の逢瀬! だめ、だめだめ! 破廉恥だわッ!」


 デリの吠えた甲高い声は、カフェテリアの隅々にまで響き渡った。

 その場にいた生徒たちが一斉に小さな少女を認めると、デリは隣に座るエマの陰に隠れた。

 赤毛の少女がうんうんと頷く。それを、髪を彩る細口の白いリボンが蝶々の尾状突起のように追随した。


「確かに、逢引はいけませんわね。学生寮では異性間交遊は認められていませんもの」


「ほォら!」


「保護者がいればよいのですわ」


「エマニュエッラもこう言ってるわッ! ……んっ?」


 デリが賛成に抱きついたエマは彼女の重さをものともせずおっとりと両の手のひらを叩いた。


「セシル、パトロンのグウェンドソンさま――探偵の王子さまと連れだってお越しなさいませ。理由は、そうですわね……。ワイルダーさんの警護というのはいかがかしら?」


 うふ、と満足げに提案するエマのキャラメル色の瞳がきらきらと輝いているのは、真昼の光のせいだけではなさそうだ。


「それ、本気……?」


 セシルの顔が笑顔のまま凍りつく。碧の瞳だけで他の二人を窺うと、一方は悪くない、一方はそうよそれよ、とそれぞれに納得したような表情を見せていた。

 セシルは、分が悪すぎることに遅まきながら気付いた。


「もちろん本気ですわ」


 小さな女傑が張った胸は、大人の女性へと豊かに成長の一途を辿っていた。

 それゆえかは知らないが自信たっぷりの笑みが彼女の口元に浮かぶ。


「だってセシルが有能な探偵助手であると証明できれば、アカデミーにずっといられるのでしょう? わたくし、あなたと一緒に卒業したいのですもの」


***


 執事の運転する車で帰宅したセシルは、まっすぐパーシィの書斎に向かった。

 直感だ。きっとそこにいるだろうと思ったのだ。

 ノックもせず扉を押すと、ゆったりとした部屋着姿の青年が優雅に紅茶を飲んでいるところだった。窓から忍びこんだ午後の明かりが彼の髪を赤く染めている。


「パーシィ」


 セシルが声をかけると、探偵は整った眉をついと上げた。

 彼なりに驚いたようだ。口に含んでいたものを飲み下すと、口を開いた。


「お帰り、セシル。君から尋ねて来てくれるなんて、珍しいな」


「珍しいついでに、もっと珍しいことを言ってあげるよ。でも、その前に」


 少年はずかずかと彼のテーブルに歩み寄り、ティーセットの頂上を飾るクッキーを一つ口に放り込んだ。バターといちご、チョコレートの風味が口いっぱいに広がる。

 そこへタイミングぴったりに紅茶がなみなみと注がれたカップが差しだされた。

 パーシィがサーブしてくれたのだ。セシルは物も言わず受け取り口をつけた。


「あち」


「火傷は?」


 降ってきた心配の言葉が、友人の声と重なる。ついでに、触れられた手指の記憶も。

 それらを努めて無視しようとして、セシルはすぐに返事をした。


「してない」


「よかった。それで、珍しい話とは?」


 少年は口の中で湿ったクッキーをひと思いにのみ込んだ。


「今夜、一緒に出かけよう」


 青年の瞳がぐいと見開かれた。深く吸い込んだ息とともに幅広の肩も持ち上がる。


「それは――?」


「調査! こないだ男子寮で幽霊を見たんだ。正確にはキツネなんだけど、白い火の玉とか、妖精とか、ちょっと寮で話題になってるやつ……なんだけど……」


 威勢よくしゃべりだしたつもりが、セシルの意に反してどんどんと声は萎んでいった。

 話すうちに、何をどう話そうか、そもそも話をまともにとりあってくれるか自信がなくなっていったからだ。

 パーシィの表情が、にわかに引き締まった。


「続けてくれたまえ」


「……そのキツネって、なんでかエルジェの敷地に住みついてるっぽいんだ。で、なんかうろついてるらしい。でも、どう見てもキツネだったし、でも、友だちは火の玉を吐く幽霊か妖精だって言ってきかないし。でも、キツネって火なんか吐かないし……」


 ぼそぼそとしか言えない自分が情けなくて、セシルは自分にいらいらしはじめた。

 相手にぶつけるべきではない、やり場のない不満の感情がどんどんと膨らむ。

 それと時を同じくして、耳の奥にチリチリとした嫌な感覚が芽生える。

 にごった感情と音楽が結びついて悪夢になるような気配がする。

 また具合の悪いことに、パトロンの青年はいつの間にか取り出していた万年筆の端を顎につけて黙りこくったままだ。美しい蝋人形のように、身じろぎひとつしない。時間を止める魔法など聞いたことも見たことも、使えるとも知らないが、急に怖くなったセシルは、思わず彼の腕に手をかけていた。


「パーシィ……?」


 すると、虚空を見つめていた空色の瞳がセシルの双眸を捉えた。


「君が……。君が怪しいと思うなら、そうなんだろう」


 なかばうわごとのように、青年は声を絞り出した。


「魔女の血を持つ君だ。僕が気付けないことを察するに違いない」


 探偵は次の瞬間、蜂蜜色の髪をさらりと揺らして頷いてくれた。

 その口元はしっかりと引き結ばれていたが上向きだ。

 そして彼は、壁際にあつらえられたサーヴァント・ベルを鳴らして内線の受話器を取った。


「ニール。今日の晩餐は早めに。軽くつまめるもので構わない。夜に急用が入った」


 なにやらもしょもしょと話す返事が聞こえたがそれが色のよい返事だったことは間違いない。

 受話器を置いたパーシィの口元がそれを証明していた。

 セシルはお尻から背中にかけてそわそわするのを感じた。わくわくかもしれない。

 パトロンに対し、自分から提案するのは初めてだった。いや、自発的に行動すること自体が、モルフェシアに来ることを決めて以来、はじめてと言えた。

 流されるだけで不平不満を言うしかできない自分と近いうちに決別できるかもしれない。

 そんな気がしてきた。


「突然だったのに、ありがとう……」


「礼を言うべきはこちらだ、セシル。これで全てのヒントが揃ったんだからね」


 青年は、小さくにやりとした。


「お茶のおかわりはいかが、ミレディ? それとも着替えが先かな?」


***


 あらかじめ、パーシィからは少年装を禁じられた。

 真夜中の調査とはいえ、セシルはアカデミーの女子生徒として男子寮に向かうからだ。

 それに賛成すると、探偵は不思議がった。


「『嫌』ではないのか?」


「クラスメイトが手伝ってくれるから。男子寮で合流するんだ。ばれたら、困る」


 軽い晩餐の支度があるフィリナと、大学のレポートがあるバーバラの不在が重なり、今日の着替えはセシル独りでやらねばならなかった。幸い、制服は一人で着替えられるように誂えられていたので着脱はかなり簡単だった。問題は何を着るかだ。身軽に足さばきができて自分で着られる洋服は、ツーピースに限られるだろう。

 少年が下着姿で鏡の前にふんぞり返っていると、ふわりと少女が姿を現した。

 セシルのかつらと異なるふわふわと巻いた長い髪の毛が宙を泳いでいる。


「セシル、おでかけするの? 今日は何を着るの?」


 あんなに姉のように慕っていた彼女なのに、なぜだかここ最近顔を見るだけでいらいらした。

 その気持ちが刃となって逆にセシルを痛めつける。


「リアってさ、鏡の中なら移動できるんでしょ。一緒に見張りやってくれない?」


 知らず知らずのうちに、刺々しい物言いをしてしまう。


「できないわ」


 少女もそっけない。


「なんでさ。どこにでもでてくるくせに。さぼり?」


「ちがうわよう! わたしは、あなたの身の回りにしか顔を出せないのよ」


「なにそれ。初耳なんだけど」


「……言ってないもの」


 ぷい、と顔をそむけたリアの横顔に、セシルの感情が爆発した。


「なんでそうやって、オレにだけ意地悪するんだよ! 会いに来てって言ってみたり、探そうと歌ったら止めてきたり! リア、ホントは何がしたいのさ!」


「とにかく、そういうことなの! セシルの近くにしか出られないから、諜報員みたいなことはできないの。……ごめんね」


「信じられないよ! どこにいるのかもはぐらかす君を、どうやって信じたらいいのさ!」


 セシルは鏡にまき散らした唾で、自分が言い過ぎたことに気付いた。

 謝りたい気持ちがわき起こるけれども、思い切ってぶつけたのは本心だったから、詫びればそれを撤回してしまうような気がして、できなかった。

 リアは消えずに、ガラス板の中でうつむくばかりだ。

 セシルも同じく、鏡映しのようにしていた。

 大きな沈黙が訪れた。普段は気にも留めない、小さな置時計と少年の腕時計が時を刻む競い合いをしているのが、耳に大きく響く。日はすっかり落ちて、カラスの鳴き声さえ聞こえない。

 セシルは詰めていた息をゆっくりと吐きだした。

 その音は落胆のため息と同じ色をしていた。本当はそんなつもりはなかったのに。

 だが、それがきっかけになった。


「……空の上……」


 ぽつりと少女がつぶやいた。それは微かなのに、やけにくっきりと耳に届いた。


「天国ってこと?」


 鏡の国の住民ではなく、彼女自身、マナの凝縮した存在だと言われても信じられる。


「……まちがってない……」


 そう、早合点しそうになったセシルを、リアが見据えた。

 自分と同じ色をした瞳は凛然としていて、そこに彼女の成熟した精神が見える気がした。


「わたしがいるのは、この国の空に浮かぶ城――天空城ヘオフォニア。全ての〈マナの柱〉を蘇らせて、隠されている地上の翼を探して。そしてその翼で、わたしに会いに来て」

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