1-6 キツネと怪談

 エルジェ・アカデミーの男子寮は、四角い石に四角い窓を重ねた四角が支配する世界だった。好奇心に任せてあちこちを見渡してセシルはそう思った。しかし高い天井を支えるいくつものアーチに、少し考えを改めた。よくよく観察すれば、人の手が触れられない高所は埃がきちんと乗るぐらいに角張っているし、目線近くを触れてみれば、時間の経過と共にあらゆる彫刻の凹凸が消え、あるいはなだらかになっている。

 壁紙の彩りがない灰色に満ちた世界だが、廊下で見かける扉一つ一つの向こうに学生がいるという生活感が、この空間に言い知れぬ暖かさをもたらしている。窓からふんだんに注ぎ込む陽光がそれをより一層演出する。明るい日差しが床の上にくっきりと作り出した窓枠と窓との陰影に、セシルはまるで光のはしごの上を歩いているような気分になった。

 石の床はケルム市街の歩道のように踏み固められて、あるいは削られて、つやつやと光り輝いている。今まで何人の学生がここを行き交ったのだろう。少年の心は歩くたびにわくわくと膨らんだ。もしパーシィが女装なんか強要しなかったら、オレもここでメルヴィンたちと一緒に生活したんだろうなあ。叶わなかった未来は無数にあって、だからこそ想像の余地があった。だったら、オレも飛空艇技師になりたかったな。

 可能性を夢想しながら歩くセシルが窓ガラスに見たのは、残念ながら現在は少女の姿をしている自分だった。思わず大きなため息が出る。


「リア……」


 現状への不満も募れば、自分とそっくりな鏡の乙女の行方も知れない。

 リアの居場所を聞き出すのがこれほど骨の折れることだとは。しかも〈歌〉であんなに目くじらを立てるとか、どうかしてるよ。 調査って本当に地味で地道なものなのかも。


「どうしたんだい、セシル?」


「え、あっ。ううん、なんでもない」


 心をむかむかさせているセシルの手前を行くのは、メルヴィン唯一人だ。

 パーシィは居ない。彼はワイルダー氏の部屋に半ば引っ張られるようにして連れて行かれた。

 昼前にはここを去る約束だからいいか、とセシルは助けなかった。別にいじわるじゃないぞ。


「ごめんね。僕の部屋は三階だから、少し遠くて」


 セシルはぎくりとした。詫びるべき自分が謝られてしまった。

 十歩進むごとに――それぐらいこまめにメルヴィンが振り向いてくれる。

 暗がりにもかかわらず、どうしてか瞳をしばたたかせ、まるで眩しそうにセシルを見つめる。


「足は疲れないかい?」


「大丈夫。案内されてる気分だから」


 嘘は言っていない。友人の肩がふっと落ちる。セシルの言葉に心から安堵したようだった。


「そう。それなら、よかった」


 冷たい石づくりの廊下からは、これまた四角く正方形に区切られた中庭が見えた。小さな噴水といくつかのベンチがあって、手入れの生き届いた生垣や花壇の近くではポプラが背比べをしていた。木陰を提供してくれて、夏には重宝するだろう。噴水に水が通されるのは春学期ゼメスタが終わってからかな。

 まだ見ぬモルフェシアの夏を思うと、セシルの気持ちははやった。

 それと同時に懐かしい故郷の村ダ・マスケの山肌をなでおろす春の匂いがありありと蘇る。

 今頃は、スノードロップが咲いていそうだなあ。

 廊下をいくつ曲がったか、階段を何段上がったか。そういう数は数えなかったけれども、初めての場所と体験が積み重なってゆく。セシルはわくわくしながら歩いた。

 その鼻先で、彼より頭半分上にある短い黒髪の少年が立ち止まった。

 そしてゆったりと、あたかも背中にマントがあるかのように優雅に振り返った。そこはオーク色の扉の前だった。丸いドアノブは真鍮製だとすぐにわかるようなつやつやの黄色だ。おそらくこれも、石畳や手すり同様、数え切れない人間に触れられてきたものの一つだろう。


「ここだよ」


 メルヴィンがそう言ってノブを回して扉を開けてくれた中に、セシルは遠慮なくぴょこりと飛び込んだ。


「わー! お邪魔します! 友だちの部屋に入るの、初めて!」


 壁と天井がシンプルなアイボリー色に染められた部屋は、小さな窓辺に小さな机、それからベッドが据え付けられた簡素で一般的な一人部屋スタジオだった。書きもの机の上には、参考図書とノートが気をつけをしたかのようにぴっちりと角と角とを揃えて本棚に並んでいる。引き出しも衣装箪笥の扉までもきっちり閉められているのがメルヴィンらしい。黴臭さもない。まるで召使がいるかのように整っている。ただ、ベッドのシーツの皺だけに生活感がある。


「なんか、いいね」


 ドアの金属音――閉まる音が背後で静かに鳴った。


「そう? 狭いでしょ?」


「確かに。でも、このちっちゃくまとまってるのが、落ち着くっていうか」


 セシルは新しい秘密基地を見つけたような気分で、友人の部屋にずいずいと侵入した。窓辺から差し込む陽光が暖かくて、思わず目を閉じる。深呼吸をすると、この部屋の匂いがした。

 衣服と書類の匂いの奥に少し漂った獣臭さが、メルヴィンの体臭かもしれない。

 見知らぬ場所と匂いと、けれどもよく知る陽の暖かさとで、セシルの口元は知らず知らずのうちに綻んでいた。

 ふと視線を感じて振り向くと、この部屋の主が背後にそっと歩み寄るところだった。

 メルヴィンが伸ばしかけていた腕を下ろしたので、セシルは自分の肩口をぱたぱたと叩いた。


「埃でもついてた?」


「ううん。綺麗な髪だなって思っていただけだよ」


 黒い瞳を緩めて、メルヴィンが優しく言った。

 そりゃそうだよ、とセシルは思った。作りものだし。ついでにくちびるもとがる。


「でも、大変なんだよ? 毎日まいにち、梳かないとぐしゃぐしゃになるんだ」


「そうなんだ。男に生まれてよかったよ」


「ワタシもそう思う」


 二人は顔を見合わせてくつくつと笑った。メルヴィンはなぜだかずっと嬉しそうにほっぺたを持ち上げたままだったが、声を立てると白い歯が見えた。


「グウェンドソンさん、初めてお会いしたけど、素敵な人だね」


「見た目はね」


 セシルが眉を上げて見せると、友人もきゅっと眉をしかめておどけてくれる。


「サミュエルもあんなひどい状態でなければ悪くないんだけど。でも探偵さんと並んだら誰もが霞んでしまいそうだ」


「メルヴィンでもそう思う?」


「あんな絵本から飛び出してきた王子さまみたいな人に出会えば誰だってそうじゃないかな」


「まただ! ワタシもおんなじことを思ってた!」


 十三歳の少年たち――それを知るのはセシルだけ――は、揃って破顔した。

 セシルが喉を鳴らし過ぎないようにしているのとメルヴィンが屈託なく笑うのと、その音量はだいたい同じぐらいだった。

 それが自然におさまると、黒髪の少年は立ちあがった。


「ココアでも入れようか?」


「できるの?」


「キッチンが綺麗だったらね」


 メルヴィンは戸棚から自分の調味料とマグカップをとりだして小さな籠に入れると、セシルにゆっくりしていていいよと言い残し、扉を肩で押した。男子寮にあるキッチンは共用らしい。

 セシルは付いていくと言い張ったが、友人がそれを許してくれなかった。


「お嬢様が来ていいようなところじゃないよ」


「どうして? アンダーステアーズ? メイドでもいるの?」


「いないから、悲惨なことになっているのさ」


***


 そう言うわけで、地獄絵図なキッチンを見せてもらえなかったセシルはメルヴィンのいない彼の部屋で、退屈な時間をなんとか潰さねばならなくなった。

 スタジオに独りになると、どこかうすら寒い感じがした。アイボリーの壁紙の下にあるのが廊下のと同じ石の壁だからだな。とセシルは手で触れもせずに結論付けた。石は冷たいもんな。

 セシルは、メルヴィンの椅子に座ってみたり、分厚い本を机の上に広げてみたりした。表紙に『飛空艇の技術と発展』と書いてあるので興味をそそられたものの、まえがきを数行読んだぐらいですぐに飽きてしまった。知らない人の知らない話は概して面白くないものだった。前髪をそよがせる速さでパラパラとページを弄んで辿り着いた最後のページには、メルヴィン・スパークと流麗な署名があった。苗字、スパークっていうんだ。

 数分も経たないうちに、セシルは暇を持て余してしまった。

 よそ行きの女装をしているのも忘れ、いつもの姿勢――ベッドの上で大の字になる。


「これなら、パーシィについていってもよかったかも」


 不承不承ながらも、助手としてわざわざ同伴してきたのだという自覚は、一応あった。彼のパトロンである探偵は、彼の仕事をこなすべく、男子寮および依頼人の部屋へ引きずられて行ったが、その直前にセシルの耳にそっと囁いてくれた。


「『せっかくだ。女性一人では来られない場所だろう。友人と遊んできたまえ』って! オレ、助手じゃねーのかよ!」


 実力を軽んじられていること、口真似が少しも似なかったこと、いずれも腹立たしい。


「ついでに、この寮に噂が無いか、ワイルダー氏の評判など聞いてきてほしい」


 パーシィの耳打ちが呼吸まで完璧に思い出されて、セシルはむしゃくしゃした。

 不満に振り回した足のせいで、ベッドがぎいぎいと軋む。

 壊しでもしないかと我に返ったセシルは慌てて立ちあがった。

 その瞬間、縦長窓の向こうに、なにか白いものが横切っていった。小鳥かな?

 体のいい暇つぶしを見つけたとばかりに、勢いよく窓に手をかけて下から上へと開けた。

 冷たい風がごおっとふきこみ、彼の亜麻色の髪の毛をくぐってゆく。

 三階の窓から見えたのは、白樺の伸ばした細長い枝々だ。

 その上に、綿毛のようにふわふわしたものが乗っている。

 まあるいそれは、左右にゆらゆらと弾んでいて、生き物のようにも見える。

 セシルは舌をちゅっちゅっと鳴らしてみた。不格好だが、小鳥の真似である。

 すると真っ白な毛玉から、ぴょこりと耳が生えた。細長い耳はうさぎのようだが、その実、ニワトリの翼のようにたっぷり、ふくふくとした体のラインを持っている。

 なんだろう? セシルの好奇心が一層くすぐられる。

 少年が再び舌を鳴らすと、その生き物はくるりと首を回した。顔の中心にとがった黒い鼻があり、まん丸の黒い瞳をしている。小さくて繊細な顔と体格は野良ネコのそれとは違う。

 その白い生き物に、セシルは見覚えがあった。懐かしさに思わず声に出してしまった。


「キツネ! うわぁ! モルフェシアにもいたんだ!」


 小さく丸くなっているキツネは、セシルの碧の瞳をじっとみつめたまま動かない。

 警戒しているのだ。見るからに小柄で、生まれて一年もたっていないだろう。

 セシルがちらと首を動かしても、親のすがたは見当たらなかった。

 雪解けの風に震えている小さな体がかわいそうで、セシルは手を伸ばした。


「迷子なの? おいで」


 きゅうう、と独り言を言いながら、キツネは小首を傾げた。ちらりと首元に真っ赤なリボンが見えた。飼い主がいるらしい。キツネはセシルが差し出した指先に興味を持ったようだ。

 焦点を合わせているのか、首を左右へ傾げながらゆっくりと枝の上を進む。

 まだ小さくて短い四つ足を懸命に伸ばしては、危なっかしく運ぶ。

 よく見ると小刻みに震えている。バランスを取っているのだ。

 ありとあらゆる仕草があまりにも愛らしくて、セシルの心と喉元がきゅっと締め付けられる。

 見た目にもふんわりと柔らかそうな毛並みに触れてみたくてたまらない。

 正直、飢えていた。ダ・マスケの実家にいる猫たちから離れて数カ月、動物に触れられたのは先ほどの寮母の小鳥ぐらいなものだ。

 キツネが恐る恐る、ゆっくりと近づいてくるのがもどかしい。けれども、セシルはよくわかっていた。動物が初対面の人間を怖がらないほうが稀有だということを。

 豆のような黒い鼻先が、セシルの人差し指につんと触れた、そのときだった。


「セシル、すまないが開けてくれないかい」


 メルヴィンだ。


「ふわ!」


 扉の外から呼び掛ける少年の声に驚いたのは、セシルだけではなかった。

 白い子ギツネは声を出すのも忘れるほどにびっくりして、目にも止まらぬ速さでそのまま白樺の幹を駆け下りて行ってしまった。木々の合間に小さな姿が見えなくなる。


「あーあ。……いっちゃった」


 セシルは誰にも見られていないのをよいことに思いっきり口をひん曲げた。


「あとちょっとだったのに」


「セシル?」


 部屋の主が、扉の外で呼んでいる。


「ごめんっ。今、開ける」


 ささっと手だけで身だしなみを確認し――悲しいかな、これも習慣になってしまった――セシルが扉を開けると、甘く香ばしい匂いがまっさきに躍り出た。先ほどの不満を上書きしてしまうほどのおいしそうな香りだ。セシルがふと気付くとメルヴィンがにっこりしていた。


「ごめんね、セシル。君の手を使わせたくはなかったんだけれど、ご覧の通り両手が塞がっていて」


 二つのマグをそれぞれ両手に持つココアの運び手は、申し訳なさそうに眉を傾けた。


「いや、いいよ。ワタシが気が利かなかったんだもん」


 セシルがそう言って片方を受け取ろうとすると、友人はやんわりとよけた。


「んっ?」


「さ、座っていて。お客様なんだから」


「う、うん」


 メルヴィンのガーネットのような凛とした瞳に貫かれるとなぜだか言い返せず、セシルはそのまま従った。椅子に腰かけたのを見届けると、少年は机の上にマグを置いてくれた。ことりと優しく置かれたそれには、茶色の液体がなみなみと入って、甘い香りを湯気と共に立ち昇らせている。斜めにたなびいていたそれが、急にまっすぐになった。


「窓、開けてたんだね。なにか変な匂いがしていたかな、ごめん」


 友人が窓を閉めたのだ。きりりと冷えた外気の進入がなくなり、室温が緩みだす。


「あ、ちがう、そうじゃなくて。動物がいたから」


「動物?」


「うん。キツネ」


 メルヴィンはベッドの上へ腰を下ろした。


「キツネなんて、この辺にいないはずだけど……」


 少年は少し訝しむと、無造作にマグに口をつけた。セシルもそれにつられてマグを掴んだが、本体はとても熱くて持ち上げられそうになかった。指先でバランスを取りながら持ち上げ、気が済むまで息を吹きかけてからカップのへりにくちびるをつける。行儀の悪さを棚に上げて啜ると、熱い甘みが口の中いっぱいに広がった。バターのように濃厚な乳臭さが、気持ちまで温める。

 そういうふうにしてセシルはココアを飲むのに没頭していたので、メルヴィンから注視されているのに少し遅れて気付いた。ちょっと気まずくて、マグを置く。


「どうかな」


「おいしい」


「よかった。ところで――」


 少女の装いの時は誰に対しても強迫観念のように笑顔をつくる必要があるセシルだったが、このときはなにも考えずに笑えた。けれども友人の口元は僅かに強張っている。


「さっきの話だけど。キツネって、赤茶けた毛のイヌみたいな動物だよね?」


 その声もどこか角張った気がしたが、セシルは気に留めないことにした。


「あ、それもキツネだね。でも違うのもいて。白くて、ふわふわって――」


「もしかして、きゅう、と鳴く?」


「そう! フェネックギツネっていうんだけど。メルヴィンも見たことあるんだ? さっきは近くに来てさ、あと少しで触れそう――」


「危ないじゃないか!」


 セシルが嬉々として説明していると、メルヴィンは慌てて立ち上がり、手にしていたマグを勢いよく机に置いた。大きな音がした割に、中身はこぼれなかった。

 そして整った黒髪を乱す勢いで、セシルの手をとった。

 手指をまじまじと見つめられて緊張が全身に走る。


「怪我は? 火傷はしていない?」


「や、火傷?」


 碧の瞳をしばたたかせる友人を、メルヴィンが信じられないという顔で見つめている。


「君が見たのはきっと……いや、間違いない。最近この寮で噂になっている幽霊だ。僕は妖精だと思っているけど。真っ白な火の玉の姿をしているんだって」


「いやいやいやいや……」


 セシルはくらりとのけ反りそうになった。

 手紙を書く女について調べていたはずが次はキツネが幽霊、あるいは火の玉の妖精だという。

 話がこんがらがりそうな匂いがする。すぐに説明する必要があった。

 頭のいいメルヴィンのことだから、きっとすぐに幽霊ではないと理解してくれるはずだ。


「ワタシが見たのは、耳と目が二つの四つ足の生き物で……」


「でも、白くてまあるい」


「……うん」


 品行方正、生真面目な優等生として名高いメルヴィンが冗談を言っているわけがない。

 現に、凛々しい太眉をぎゅっと寄せて、心の底からセシルに忠告してくれている。


「サミュエルが不可解な手紙――幽霊の手紙だそうだね――に悩まされているのは聞こえてる。きっと、君と君のパトロンが調べにきたのもその件のことだろう。でも、相手は危険な幽霊か、妖精だ」


 にわかにメルヴィンの筋張った手指に力がこもる。


「君は守られるべきリトルレディなんだ! 危険な真似はしてほしくない」


 メルヴィンが覗き込んでくる瞳に、自分の顔が映る。

 まっすぐな言葉と真摯な態度を大きく否定できない。

 こんなに正面から向き合ってくれる優しい友だちに、オレは嘘をついているんだ。

 そう思うと心がちくりと痛むし、そのせいで何が正しい答えなのかを見つけられない。

 セシルは、友人から顔をそむけた。


「……でも、ワイルダーさんが困ってるし……。ワタシも、こうやってパーシィの手伝いをするのが契約だし……」


「契約……! 僕の部屋に来てくれたのも、本当は調査の一環……だったりしないよね?」


「それは……!」


 セシルは、強く言えない自分に気付いた。

 口では文句ばかり、その癖成り行きまかせに宙ぶらりんの現状をふらふらとしている自分と、それに気付かぬふりをしてきた自分に。己の決断の拠り所となるような強い気持ちが無いのをまざまざと見せつけられて、セシルはまごついた。言葉が出ない。

 メルヴィンが心配そうに見つめているのが、かえってつらさを増長させる。

 彼は辛抱強くセシルの言葉を待ってくれている。

 どうして、そんなにもまっすぐでいられるんだろう?

 気まずい沈黙がどれだけ続いたかはわからない。

 しばらくして、それを破ってくれたのはメルヴィンだった。


「……サミュエルはいい人だよ。僕らよりだいぶ年上で、少し変わってるけど」


「メルヴィン……?」


 黒髪の少年は、視線をわきへ逸らした。


「人が言ったことを真に受けてしまう。全部、額面通り受け取るきらいがあるんだ」


 額面、と発言したメルヴィンなのに、なぜか顔までも背けてしまった。

 けれどもセシルの手を握る力は、弱まるどころか強くなった。

 震えている? セシルの乾いた喉が上下した。


「……それって悪いこと?」


「生きるには――人と人の間をすり抜けていくには、そんな真っ正直なことをしていては辛い目に合うだけだ」


 その瞬間、友人の声からいつもの明朗さが消えた。


「素直、正直、実直と言えば美徳かもしれない。けれど、僕から言わせてみれば、不器用だ。不器用に立ちまわれば自分を傷つけるだけなのに……」


 ぼそぼそといじけたような響きだ。

 メルヴィンには似合わない、とセシルが思った矢先彼はぱっと手を離して立ち上がった。

 その顔にはいつもの穏やかな頬笑みが浮かび、まるで何事もなかったかのように、瞳に光を宿している。


「ココア、冷めちゃったね。新しいのを作ろうか?」


「あっ、ごめん……」


 こんなとき、感謝すればいいのか詫びればいいのか、セシルには判断がつかなかった。

 刹那、鐘が遠くから聞こえはじめた。飽きずに鳴っている鐘に魔少年が慌ててシャツの袖をまくりあげて腕時計をみると、長針が差していたその数は、真上の十二。正午を告げていた。


「時間だ。いかなきゃ」


 楽しい訪問として終われればよかったのに。

 苦い気持ちをかみ殺しながら、セシルはコートを羽織りなおした。

 なんだか気まずくて、メルヴィンの顔を正視できないまま扉に向かう。頭も足も重い。


「セシル」


「うん?」


 彼は、はやくパーシィに会いたいと思いながら振り返った。

 そしておそるおそる友人を見上げると、彼はまたセシルの知らない顔をしていた。

 まるで、今にも泣き出しそうなのを堪えているような。


「僕にできることがあれば遠慮なく言ってほしい。助けたいんだ。友だち、だから」


***


 メルヴィンに送られた男子寮の玄関、そこでセシルが目にしたのは、納得がいかないという顔をした探偵の横顔だった。ともすれば不機嫌そうに人を寄せ付けない冷たさがあった。

 だが、それを見てセシルはほっとした。

 なにせ、少年がただ遊びに来ただけではないという証明がこの男だったから。


***


 帰る道すがら聞くには、パーシィの方、すなわち、サミュエル・ワイルダーの自室には何の問題もなかったらしい。


「男子寮のポストは寮母のそれ一つ。だから寮生の部屋にポストは無く、学生がそれぞれ寮母のところにまで取りに行く取り決めになっている。これでポストマンを介さずして届けられる裏付けが取れた」


 セシルは、パーシィが歩きながら取ったと思われるメモの、その文字の綺麗さに唸った。

 どうしてぶれないんだろう。探偵紳士は、歩道の車道側から続ける。


「よって、件の手紙が直接ワイルダー氏の部屋に入れられる事象が不可思議現象であることがわかった。ときにセシル?」


「ん?」


 そのとき、正面の曲がり角から馬車コーチが姿を現した。

 紳士がセシルを背にかばい立ち止まる。急に、しかも触れてしまいそうなくらいに近づいたため、少年の心臓が跳ね上がった。しかし振り向いたパーシィの顔は涼しい。


「魔法を使って、物を運ぶことはできるのか?」


「んー……。ちょっと手の届かないものを引き寄せるくらい、かな」


「それはなんでも?」


「軽いものなら、まあ」


 セシルがそう言うやいなや腕を引っ張られた。気付くと、パーシィの体にぴったりと抱き寄せられていた。あまりに突然のことで文句を言う事も忘れてしまう。次の瞬間、セシルのいたところ――歩道の上を、馬車が通って行った。間一髪のところで轢かれずにすんだ。


「す、すみません!」


 去り際に謝罪の言葉だけ投げてきた御者は新米のようだ。

 馬を精一杯御しながら去っていった。さいわい、彼の主人は乗っていなかった。

 パーシィは息を吐いた。


「引き寄せるだけ?」


 どぎまぎしてしまって口がまごついたが、セシルはなんとか声を出せた。


「だけ。オレがやったことあるのは」


 探偵はシルクハットの下から探るような視線を送ってきたが、すぐに諦めたようだった。

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