1-5 たまにはそれらしく

 セシルの濁った重たい頭に白い光と会話がぼんやりと届く。

 眠りの上澄みを啜っただけのすっきりしない寝覚めに文句が浮かぶけれど、それは言葉になる前に澱んだ意識へ同化して、ただの不機嫌になってゆく。


「旦那様。どうしてセシル様のベッドに?」


「眠たくなったからだよ」


 あくび混じりの間延びした声と、執事の呆れた声が聞こえる。


「理由になっていませんが」


「セシルと話していたんだ」


「ん……?」


 セシルは揺さぶられて仕方なく目を開けた。正確に言えば、開けようとしたのだが、それを阻む目やにを両の手の甲でこすり落としてからやっと瞼を持ち上げることができた。

 少年が白む世界に見つけたのは、眼の下にくまを作った青年だった。

 彼が助けてくれと言わんばかりに空色の視線を投げてきたので、セシルはぼんやりと答えた。


「……うん。話し……てた」


 ナズレは信じられないという言葉の代わりにわざとらしい大きなため息をついた。

「お支度はどうぞお早めに。先日は議会のために調査をされなかったでしょう。今日こそは、お出かけを。先方にはお電話を差し上げておきました」


 セシルとパーシィは、無意識ながら揃って頷いた。

 けれどもナズレには眉を上げられた。ただ舟を漕いだだけと思われたに違いない。


***


 日付は〈双魚の月〉三〇日。土曜日なので通例通りニールの完璧なゆで加減の卵とフィリナの紅茶を楽しめるはずだったが、今日は時間が限られており、ゆっくりと味わう暇がなかった。

 メイドたちに二人がかりで着替えさせられている間、セシルの頭の中はモルフェシアの真実と昨日聞けなかったことでいっぱいだった。

 自動車も飛空艇も、魔法で動いてるってこと?

 お婆ちゃんがパーシィの命の恩人で、だから今度はオレを守ってくれる。

 その代りにオレがパーシィを助けるのは、百歩譲ってわかるけど。

 そうだとしても。セシルはむすっとした。女装する必要は無いと思うけど。


「はい、ドロワーズですよ」


「それぐらい自分で穿けるってば」


 急かすバーバラ、丁寧なフィリナの手で姿見の中にはあっと言う間に愛らしい令嬢が現れた。

 もちろんリアではない。セシルの髪とそっくりの色をしたかつらには埃一つないし、今日のワンピースは春を先取りしたかのような可憐なペールグリーンだ。それを芝生のようにして、首元には桃色の花のごときスカーフがふんわりと咲いている。靴はベルト付きのパンプスを勧められたが、そこは履き慣れたレースアップブーツでと押し通した。


「さあ、お帽子も」


 フィリナからは、冷たさの残る突風でかつらが脱げないようにと紺色のベレー帽を頭に載せられた。鏡の中の美少女がどんどん完璧に近づく。まるで生きた着せ替え人形だ。

 メイドのセンスに感心すると同時に、少女姿の己を見慣れている自分が呪わしくもあった。コスモス色のコートの上からお気に入りの真っ赤な皮鞄を斜めがけにする。

 少年は階段を下りた先の玄関ホールで煤けた色合いを纏ったパーシィに出会った。

 彼もまた帽子をかぶり、よく目立つ蜂蜜色の髪を隠していた。

 二人は並ぶとどちらともなく歩き出した。セシルは扉を開けてくれたナズレに手を振った。


***


「今日はここまでで良い」


 と、言うパーシィとともにナズレの車を降りて、二人はホルガー通りを北に歩きだした。

 そこには深い緑を鉄柵が守っている壁が並ぶだけで、商店などは対向線にある。


「ねえねえ、おかしくない?」


 耳打ちした助手の頭からつま先までを、パーシィは瞳だけで撫でた。


「どこも。よかったな。今日も可愛くしてもらえて」


 さらりと出てきた言葉は厭味か讃美か。どこまでが本気かわからない。


「可愛いは嫌だってば! そうじゃなくて、昨日の話! 〈マナの柱〉を探すだけなら、別に探偵なんてやらなくていいと思うんだけど」


「ああ、そっちのことか」


 探偵は突然セシルの肩を掴んだかと思うと、道路側にいた少年と場所を代わった。

 紳士のすぐ横を、三輪自転車の女性が猛スピードで通り過ぎて行った。


「……ありがと。探偵とマナってなんにも関係ない。モルフェシア大公に言ったら? 夏休みくださいってさ」


「それはどうだろうか。これまで傾向として事件のほとんどは〈マナの柱〉の近くで起こっている」


「えっ」


 ぽかんとしたセシルに、パーシィがコートのポケットから何やらさっと取り出した。手帳だ。それを手渡してくれたので、遠慮なく開く。少年がめくりあてたページ、モルフェシアの簡略地図には、大きな星が四つと、その周りに赤い点が描きこまれている。聞けば、前者が〈マナの柱〉で後者が事件発生箇所らしい。


「まるでマナが原因みたいだ……」


「それもまだ不確実だ。傾向はあくまで傾向だ。たまたま〈柱〉の近くでたまたま立て続けに不思議な事件が起こる。あるいはその逆で〈柱〉が見つかったのさ。引き寄せられた人間をたどれば第五、第六の〈マナの柱〉を見つけられる可能性がある」


「今回も?」


「宛て名も差出人も不明、おまけに消印もない手紙が過去の日付で届く。十分、不思議だ」


「まあ、確かに」


 探偵は帽子を目深に被りなおしてにやりとした。


「さあ、モルフェシアの小さな謎を暴きに行こうじゃないか、相棒ミレディ


***


 緑を囲う鉄柵をなぞるように二人が辿り着いたのは、見慣れたエルジェ・アカデミーだった。

 そうだった。セシルはぼんやりと納得した。今回の依頼人は学生だったっけ。すごく年上の。

 馬車や自動車が入れるような大きな門――正門はいつも閉ざされており、別にある通用口を使わねばならない。正門が開くとき、それはモルフェシア大公の乗る車両が入ってくるときだというが、それに出くわしたことはまだなかった。


「ごきげんよう」


 セシルがその手前にあつらえられた小屋の戸口を叩くと、守衛が首だけを伸ばし丸い顔を見せた。チャーミングな口髭と頭髪に白いものが混じる彼は、受け取ったセシルの学生証と自分の首を前後させて確認すると、瞳の厳しさを和らげた。そして、そのたれ目をしばたたかせながら小屋から出てきて、鍵を開けてくれた。


「休みに勉強ですか、お嬢様。さすがのお志ですなあ」


「えへ、へへ……」


 オレ、女の子でもないし貴族でもないし、ましてや勉強に来たわけでもないんだけどね。

 少年は色んな後ろめたさで視線を泳がせた。


「ありがとう。今日はセシルが、忘れ物があると言うものだから。よければ見学も兼ねて」


 それを彼の付添いがなんの躊躇いもなく引き継ぐ。朗らかに声と口元を緩ませてもいる。


「そうでしょうね。やんごとないお方も少なくない。昼間でも用心するに越したことはありません」


 同意に深く頷く初老の守衛に、パーシィは小さく鼻を鳴らした。


「と、いうと? 最近、この辺りでなにかあったのかな?」


「いやいや。大したことはありませんよ。学生さんになにかあれば、真っ先に首が飛ぶのは私たちですから。もっとも、この塀の外は圏外ですがね」


「ほう。敷地内は庭のようなものと。それは安心だ」


「そりゃあ、エルジェ・アカデミーの昼も夜も見てますからね。目をつぶって歩いたって、道を守るポプラ並木にぶつかりっこないですよ」


 二人の男がのんびり会話をするのがじれったい。世間話をするぐらいなら早く依頼人のところへ行って、早く調査を終えたい。もちろん、セシルが真っ先に脱したいのは小気味よい会話でもエルジェ・アカデミーでもなく、少女装である。

 しかしながら、何の気なしに交わす会話が事件解決の糸口になることも知っている。

 相手と顔見知りになっておくのも情報戦にとっては有効打となる。一発で情報が得られるとも限らないのだ。ここは黙って待つほかない。セシルは暇つぶしに守衛を観察をしはじめた。

 濃緑色の警備員の制服をビール腹で膨らませている男の胸に、きらりと光る名札があった。

 フランカという名らしい彼は、その丸い顔によく似合うご機嫌な笑顔で語る。


「エルジェには他と違って学生寮がありますし、この守衛所は二四時間、人がいなくなることはない。正直、ケルム市街で一人暮らしをするよりも賢い選択ですよ、学生寮に住むっていうのは。料金も良心的で、友だちもいれば寮母もいる。独りにはなれないでしょうが、ホームシックも少しは軽くなるってもんです」


「へえ。しかし、こんなにも広い庭だ。不審者が入ってきてもわからないのでは?」


 探偵は、神経質な保護者を装うことにしたようだった。


「どうぞご安心を!」


 パーシィの鋭い指摘を、フランカ氏は堂々と受け止めた。


「ご存知の通りアカデミーの敷地をぐるりと囲むのは二フィートの石垣の上に立つ五フィートの鉄柵です。その柵の間隔だって小さな子供がすり抜けられないぐらい狭いんですよ。その上、大きな車両が来ない限り正門は明け放たれることがありません。すなわち、出入り口はここだけなんです」


「どこかが壊されていて抜け道になっている、ということはないのか?」


「ございません」


 フランカがきっぱりと言うのを、パーシィは、いつの間にか取り出していた手帳と万年筆を手に興味深そうに頷いている。万年筆のキャップの頭を、形のよいくちびるの下にある頤に当てている。それが探偵が思考を深めるときの癖なのだ。


「別に見回る者がいて、異常があればアカデミー側に報告をしますし、それが外部からと判断すれば、警察にも連絡を入れて外回りをしてもらいますから」


「では、警備員は別にいて、外を見回ってくれている、ということか」


「ええ」


「そしてアカデミーの人間はすべてここを玄関にする」


「その通りです」


「では、外部の人間は?」


「グウェンドソン様。あなた様のように、保護者として同伴されるのでしたら許可されます。外部講師も、職員の迎えか書状が無ければ通れません。安全対策は万全です」


「ふむ……」


 どうしてそこまで、セキュリティを気にするのだろうか。

 セシルがそう思った瞬間に本音が口から飛び出していた。


「過保護すぎない?」


 探偵がちらと視線を落とす。


「なに。せっかくだから、君を預けているアカデミーを知りたくてね」


 ウインク混じりの一言にどこか引っかかりながら、セシルは鼻を鳴らしてしぶしぶ了承した。

 そのときだった。セシルの立ち話に冷えたタイツの足元を、なにか温かいものがすり抜けて行った。驚いてブーツを見下ろすが、なにも無い。小さく身じろぎしながらあちこちを窺っていると、視界の端に白いふわふわしたなにかが通って行った。疑惑が確信めく。

 なんだろう?

 長い髪と共に小首を傾げる少年の手前では、冗長な世間話が終わりを迎えようとしていた。


「しかし、いったい何時ごろ、何人で警備にあたってもらっているのか……」


「ああ、それなら勤務表をお見せしますよ」


「お申し出に感謝する。だが、門外不出では?」


「我々はみんな持っています」


 くつくつと笑いながら、フランカは守衛の勤務表を持ってきてくれた。

 探偵と助手は二人で覗き込む。


「へえ。守衛さんは二人でひと組なんだ」


「そうですよ。どっちかが居眠りしてもいいようにね」


「あっ! 散歩の時間って書いてある! これは運動不足の解消に?」


 セシルが冗談を言うとフランカは眉を上げた。それでも弛んだ頬は伸びきることがなかった。

「そうそう。最近、決まった時間に白い子イヌを散歩させる女性がいましてね。彼女を口説きたがる男で、その時間帯は取り合いになっているんですよ。私なら『妻』と書きたいですな」


 守衛の冗談にセシルは思わずくすりとした。


「これを、また今度見せてもらうことは可能かな?」


 パーシィは、なにやら書きとめると筆記用具を全てをコートのポケットに落とし込んだ。


「ええ、もちろん。誰にでも言ってください。しかしそのときは書類を書いてもらいますが。あなたさまのご心配もよくわかりますよ。わたしにも娘が二人おりますからね。だからこそわたしは、この仕事に誇りを持って取り組ませてもらっています」


***


 数多の学生が踏んできた石畳の脇にポプラがお行儀よく並ぶ。その影で雪のかたまりが、日差しから逃げ続けている。あたりには湿った土の匂いがたちこめていた。


「あーあ。休みなのにアカデミーに来ちゃった」


 人気のない園庭に、二人分の足音が静かに鳴る。

 それに気付いたリスやウサギがこっそり逃げていったのを、セシルは少し残念に思った。

 さっきのも、ウサギかなにかかな。猫とか。だったら、久しぶりに触りたかったな。

 そう、ぼんやりと不満を弄ぶ少年の顔を、パーシィが覗き込んできた。


「では、平日に出直そうか?」


「それは嫌。オレ、目立ちたくないもん」


「目立つ……?」


 パーシィがきょとんとするのに、セシルは心の底から顎を下げた。

 ついでに眉根がくっつきそうなほど寄せて見せつけてやった。


「どうしてそんなに顔をしかめる?」


 堂々とした身のこなし。無駄なく筋肉のついた長身に、スーツを着こなす長い手足。癖のない金髪が彩るのは、意志の強そうな眉と高すぎない鼻だ。涼しい目元は理知的で、常に引き結ばれている口元には日々よく磨かれた白い歯が綺麗に並んでいる。

 絵に描いたような美男子という、セシルが抱いた第一印象は今も変わらなかった。むしろ、歩くたびに女性の視線を集める探偵の隣にいるのは、同じ男性として引け目を感じるぐらいだ。講義室に彼が顔を出したら、悲鳴が上がるだろう。でも、それにまったく無自覚だなんて。厭味の一つぐらい言いたくなる。少年は口を曲げた。


「パーシィって、鏡見ないの?」


 青年は小首を傾げて自分の頬をなぞった。


「髭のそり残しでもあったかな?」


「家に帰ってから確認したらいいよ」


 セシルが憮然として歩くのも束の間、彼の耳に小鳥たちのさえずりと羽ばたきが飛び込んできた。にわかに心が躍る。


「セシル、靴が汚れるぞ」


「いい。後で磨く」


 セシルははやる気持ちのままに湿っぽい土の上へ足を踏み出した。

 ふかふかの土に足裏を沈めてかきわけた木陰のむこう、鳥と戯れる女性の姿を見つけた。

 ふくよかな体の中年女性はすぐにセシルに気づいた。満面の笑みで手を振ってくれたので、少年は躊躇うことなく彼女のもとへ近寄った。小鳥たちは黄色い穀物の粒をついばむのに忙しく、逃げ出すことを忘れている。そのどちらを笑ったのかわからないが、女性はくつくつと笑った。その手には紙袋が握られている。


「あら、お嬢様、そんなにあわてなくてもこのこたちは逃げやしませんよ」


「どうして? おばさんのことを好きだから?」


「いいえ」


 女性はセシルがうきうきと問う背後に男が追いついたのをにこやかに認めた。

 だが、それは後回しにしたようだった。そのかわりにセシルの右手を取って、その上に例の穀物をひとつまみ乗せてくれた。


「この場所が好きなのよ」


「場所――? うわあっ!」


 セシルが首を傾げるのと同時に、彼の顔の真ん前に小鳥が舞い下りてきた。

 若草色の翼をもつ小鳥は、器用にホバリングを繰り返し少年の手のひらをつんつんとつつく。

 それが肌にも心にもくすぐったくて、セシルの口元は自然に綻んでいた。

 青年も同じだったらしい。くつくつと頬笑むのがセシルの後ろから聞こえた。


「素敵なお出迎え、感謝するよ、レディ。僕はグレインジャー探偵事務所の――」


「グウェンドソン様ですね。電話をくだすった。そうじゃないかって思っていたんです」


 セシルは小鳥の猛攻にあいながら、もうひとつ首を傾げた。

 どうしてわかったんだろう? 電話をしたのはナズレさんだったはずだけど。

 以心伝心したのか、パーシィが同じことをそっくり尋ねてくれた。

 すると女性はパンのようにまんまるで美味しそうなほっぺたをふっくらと持ち上げた。


「一目で解りましたよ、噂の探偵さんだって。王子様のようだというのがまったく嘘じゃないともね」


 セシルは腕時計を見た。約束よりも二〇分早い。やっぱりな。探偵は時間に極めて厳しい。

 アカデミーの外から庭園まで歩き、守衛や寮母とゆっくり話したのにもかかわらず、この余裕である。これらが全て計算通りだとすれば脱帽である。

 パーシィは常に時間に余裕を持たせて行動する。これは時計を身につける慣習のあるモルフェシアにおいても頭一つ抜きんでていると思う。セシルなんて、ナズレの送迎が無ければ朝礼に間に合うかどうかなのに。訪問時も同様で約束の五分前にならなければ絶対に扉を叩かない。

 なので二人は、この余った十五分を使って寮母の女性と一緒に小鳥の餌付けする朝の楽しい時間を過ごしてから、男子寮に向かった。

 赤茶けた、古めかしい石づくりの建物の四角い頭は先ほどから見えていた。

 常緑樹の合間からのぞいていた屋根は黒く、その上からは白くてこれまた四角い煙突が首をにょっきりと伸ばしていた。

 二人が入口に着くと、両開きの扉が重たそうに開いて、その奥から私服の男子学生が三人、連れだって出てきた。彼らの足取りは、軽やかな靴音でうきうきとしている。


「あっれ! 女子だ! お前の妹?」


 セシルはそのうちの一人と目が合ってしまい、気まずさからついと視線をそらした。


「ちげえよ。いねえし」


「……ごゆっくり」


 その三人のうちの誰かが口を開いた。


「マルガさん、俺たち、夜には帰るから。はい、これ」


 一人の学生が小さなカードを寮母に手渡すと、彼女は満面の笑みで受け取った。


「はいはい。好きなだけ遊んできなさいな。門限を過ぎるのを楽しみにしてるわよ」


「うっわ。そうして実家に電話するつもりなんだろ? いじわるだなぁ」


「ちゃんと帰ってきますって」


 マルガは豊かな体を震わせて笑いながら、三人の背中をそれぞれ一回ずつ叩いた。


「気をつけてね」


 軽口を叩き合う三人の男子学生がやいのやいのと去っていくのを見送る。

 離れていったけれど、時折振り向かれては、顔にまだ視線が刺さり続けている

 気のせい、気のせい。気付かぬふりをする女装少年の首筋に、ひやりと汗が流れた。

 うっかりしていたが、親族以外は女人禁制とされている男子寮で、ロングヘアとワンピースの装いは悪目立ちするに違いなかった。こんなにじろじろ見られるほど物珍しいんだったら、オレもパーシィのこと、言えた義理じゃなかったな。

 そしてマルガと呼ばれた寮母は、慣れた手つきでカードをエプロンのポケットに突っ込んだ。

 その表紙になにかに気付いて小さな声を上げると、そこを指し示してパーシィを振り向いた。


「グウェンドソン様。ここが以前お尋ねになられたポストです」


「ふむ」


「部屋の扉にはポストはありませんからね。ここだけです」


 青年は頷いてまじまじと観察した。セシルも倣ってみたけれどもそれはどこにでもあるような、鋼鉄製で少し端々がさびているところまで何の変哲もないポストだった。親の仇のように睨みつけるべき相手にはとても思えない。


「セシル?」


 そのとき、背後で少年の声がした。


「うわあ!」


 てっきり後ろにいるのはマルガ一人だけだと思って心の準備をしていなかったので、セシルは体ごと驚き、振り向いた。確かめると、声の主はよく知った顔を持っていた。


「メルヴィン! はぁ、驚かさないでよ!」


 跳ねる心臓は急な出会いだけが理由じゃなかった。今のでかつらずれてないかな。

 つややかな黒髪のクラスメイトは、休みの日にもかかわらず、しっかりとシャツのボタンを首元まで留めている。彼は同じ色をした瞳を輝かせてセシルの手を取った。


「驚いたのは僕のほうだよ、セシル。まさか休日にまさか男子寮で会えるだなんて! 君一人では来られないはずだけれど――」


「仕事なんだ」


 セシルが言い知れぬ気まずさを覚えて瞳を泳がせると、いつの間にかポストの観察を終えたパトロンと目が合った。その瞳はすうっと動き、次にメルヴィンを見た。さっきまでと違い、空色の瞳はどこか冷たいような気がした。

 急に吹き込んできた雪風のように、探偵の口からつららが飛んでこないうちに、とセシルは慌てて二人の間に割って入り、紹介した。


「パーシィ、こちらメルヴィン。クラスメイト。同い年なんだ。メルヴィン、こちらパーシィ。ワタシの――」


 青年はセシルに聞こえるだけの小ささで鼻を鳴らすと、少年へ手を差し出した。

 メルヴィンは彼に臆せず、堂々と握りかえす。その隙を見て、セシルはベレー帽の下に手を忍ばせた。よかった、ヘアピンちゃんとついてる。


「よろしく。僕のセシルが世話になっている」


「お噂はかねがね、探偵さん」


「ああ、探偵さん! 魔女さん!」


 頭一つ違う二人の男が握手を交わした間に、もう一人、男が飛び出してきた。

 寮の扉が分厚かったからよかったものの、安い貸家の薄いそれだったらば、留め具ごと飛んで行きかねないような猛烈な勢いだった。

 にごった金髪はぼさぼさでフケまみれ、その頭で誰だかすぐに分かった。

 依頼人の青年サミュエル・ワイルダーだ。三日前に出会ったときよりもひどいことに顔じゅうに赤いニキビ跡が無数にある。目の下のクマも色濃い。誰から見ても明らかな寝不足だった。

 サミュエルはパーシィの右手をもぎとると激しく上下に振って、その勢いのまま手を離した。

 パーシィは少し目を丸めた後、その瞳をくるりと回してメルヴィンに小さく詫びを入れた。


「見に来てくれたんですね! ほら、これ! ポスト! 一つしかないでしょう!」


「おはよう、ワイルダーさん。ええ、確かにここにポストが一つあることはわかった」


「そして、私の部屋にはポストは無いんです!」


 角張る子音と共にパーシィへ向かって飛ぶのは唾しぶきだ。セシルは心底気の毒に思った。

 探偵の口調も顔色も変わらなかったが、その靴はじりじりと後退していた。


「それを実際に見せてもらうために来たんだ」


「じゃあ、さっそく! 魔女さんも!」


 うわっ! と、セシルが声に出さずに済んだのは、メルヴィンの前で魔女と呼ばれた衝撃が思いのほか大きかったからだ。どきりどころではない。

 作りものの笑顔がぱりぱりに凍りついたが、なんとか口を動かす。


「あのね、メルヴィン、ほら、噂だから……」


「魔女ってあのグレインジャー探偵事務所の? 君のことだったのか」


 動揺するどころかにこりとしてみせるクラスメイトの気品に、セシルの方が戸惑ってしまう。

 本当に自分が魔女の末裔だと知れば、これまで通りではいられないだろう。

 気味悪がられて、折角育んできた友情も水の泡となるだろう。

 そして噂が噂を呼び、セシルはエルジェ・アカデミーにいられなくなる。

 そうなれば、山奥のド田舎ダ・マスケにとんぼ返りせざるを得なくなり、延々と母メアリーの魔法薬作りに従事せねばならなくなる。

 夢を、そしてリアを見つける前にそうなるのは、絶対に避けたいことだった。


「め、メルヴィン! その、違うから! オレは魔女じゃない――!」


 少年はそっと、セシルの髪を撫でた。


「信じるよ。大切な君の言うことだもの」

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