1-4 見えざる神の翼

 まばらな雪明かりだけが支配する夜。

 モルフェシア大公ジャスティンは独り、月の色を移した銀色の鍵を使ってフォベトラ城の星の塔を登った。静かに静かに、塔の厚い壁に沿って点々と続く細長い隅切り窓からちらちらと満月の顔を見ながら。暖かな色を灯す蝋燭を持つ手は闇夜に冷え切り凍ってしまったかのように強張っている。けれども、月の居る場所を目指す足と心は寒さに負けない。

 狭く孤独な螺旋階段を上りつめたところに小さな扉があった。ジャスティンのような現代人ならば必ず体をかがめねば通り抜けられないほどだ。もちろんこれは子ども用ではない。古き昔、フォベトラ城を建てた先祖の時代の大人――ジャスティンが名ばかりしか知らない先祖のための扉であった。

 そこで再び、枝別れの無い不思議な銀の鍵を使った。それを鍵穴に差し込むと、扉の縁をなぞるようにして、じんわりと青白い光が滲みだした。朝を告げる色彩とそっくりだが、夜はまだ深いとジャスティンの瞼が告げている。

 入場を許された彼は恭しく頭をたれながら、扉の中へ足を踏み入れた。

 無知な人は冷たくてなにも無い部屋が、あるいはこぢんまりとしたバルコニーがあるはずだと考えるだろう。

 けれどもジャスティンが踏み入れたのは部屋ではなく、開けた空間であった。

 天井はもちろん無い。足元には草の絨毯が、頭上には星空が広がり、先ほどまで彼を見下ろしていたはずの満月が彼と顔を並べている。目前には静謐に水を湛える泉が一つあるが、湧き出ているのに物音ひとつ立てていない。


「ようこそ、ヘオフォニアへ」


 そのとき、甘やかな声と共に少女が泉の上へ舞い降りた。


「こんばんは。モルフェシア大公」


 彼女だ。

 少女は翼を持たずしてゆったりと空から降りてきた。体の重さを感じさせないさまは、まるで彼女が一枚の羽そのものであるようだ。生娘の最後の衣装と同じ、真珠色の装いが似合う。髪は夜闇においてさえ月と同じ輝きを秘め、星空を刺繍するかのように自由にたゆたっている。

 星のまたたきにも似た微かな微笑みに、ジャスティンの胸が張り裂けそうになった。

 駆け寄りたいのをなんとか堪えて声を絞り出す。心からの呼びかけを。


「フォルトゥーネ様」


 名を呼ばれた彼女はあどけなさの残る輪郭の形を変えずにふわりと寂しそうな笑みを深めた。

 離れて見る瞳の色は、夜の海と同じ色だ。

 太陽の下で彼女の瞳を――本当の虹彩を覗き込めたらと何度願ったことだろう。


「モルフェシア大公、定例会はいかがでしたか?」


 少女の薄いくちびるが無感動に問う。


「はい、フォルトゥーネ様。面白いことは、なにも」


「つまらなそうなお顔をなさっていますものね」


 フォルトゥーネは、くすりと笑みを零した。


「マナストーンの様子も、つまらないものですか?」


 ジャスティンは黒い瞳を丸めた。彼女なりの冗談が聞けるのは、初めてのことだった。


「いいえ。モルフェシアのために、今日も歌っていただけますか?」


 私のために。飲み込んだ彼の本音を知ってか知らずか、フォルトゥーネは頷いてくれた。

 彼女は見えない翼を羽ばたかせ、泉を囲う森の上に音もなく腰を下ろした。

 しかしそれが森ではないとジャスティンは知っていた。

 小高い緑の丘は遥かな昔に役目を終えたかつての王城で、現在は緑の褥に抱かれている。

 しかしこの空の城には朽ち果てたという表現は似合わないだろう。すべての過去を内包して、それを誰にも伝えることなく、木々に守られて静かに眠り続けているだけなのだから。

 そう、この天空の城ヘオフォニアは、女神の宮殿として今もひっそりと生きている。

 フォルトゥーネは、枝々の合間からほんの少し露出した城壁の上に腰かけ、今まさに細い喉を奏でているところだった。少女のか細く透明なソプラノは、劇場歌手の朗々としたそれとは違う。地上の舞台女優が感情豊かに歌いあげ、心身とホールに歌声を響き渡らせるのとは異なり、ただただ、世界に呼び掛けている。

 だが悲しいかな、ジャスティンの耳に聴こえるのは、フォルトゥーネが歌うソプラノ、それだけだった。書物にも残されていない古い言葉で紡がれる音楽が、歓喜を、あるいは悲愴を、または憤怒を表しているのか。それは曲調と彼女のレトリックから推察するほかなかった。

 ジャスティンは少女の歌を聴くのは好きだ。だからこそ、じりじりとした不満が募る。

 知りたい。聴きたい。彼女が奏でているだろう音楽のすべてを知ることができたら。

 マナを注ぐ魔法そのものである歌を視ることができたら。

 知らず知らずのうちに噛み締めていたジャスティンの脳裏に、ふと友人の顔がよぎった。

 金色の探偵王子――パーシィが傍に置いているという娘が本物の魔女ならば、フォルトゥーネ様の音楽がわかるのだろうか。

 ぼんやりと考えを弄ぶうちに、彼の耳を癒す歌はいつの間にかどこかへ消えていた。

 はっとして、彼女の姿を探す。


「フォルトゥーネ様!」


「ここにいます。モルフェシア大公」


 女神は音もなく彼の正面に現れた。口元がふんわりと持ち上げられている。

「白昼夢でもご覧になられていましたか?」

 星空の下で少女が咲く。女神は見た目こそ少女だが、時折耐えがたい大人の色香を匂わせる。

 彼女は決して誘っているわけではない。だが、惹かれずにはいられない艶やかさがあるのだ。

 男は息を詰めた。

 まだ大人になりきれていない、細くなだらかな肩を抱き寄せたい。

 月に輝く肌の柔らかさを確かめたい。頬を染めるところを、一番近くで見てみたい。

 強く思うままに握った拳が爪を手のひらに食い込ませ、その痛みが現実を証明してくれる。

 だが、目の前の彼女が現実のものかは、彼にも証明ができない。

 ただ、彼女が女神フォルトゥーネの名に相応しい仕事をすることしかわからなかった。


「どうか。どうか、名で呼んでください。ジャスティンと。あなたを愛するしもべの名を」


 ジャスティンはうっとりと目をしばたたかせた。まばたきの数だけ心が伝わればいいのに。

 彼の思いを振り払うように、幼き女神は首を振った。長い髪が宙に泳ぐ。


「あなたの言う愛は、地上の愛です。わたくしには縁がないものです」


「だからこそ、あなたが仰られたとおり、〈マナの柱〉と〈地上の翼〉を探しております」


「そうですか」


「喜んでは下さらないのですか」


 フォルトゥーネは、ふわふわと空中に浮かぶ髪の毛を抱きしめた。

 つま先が水面に触れても波紋の一つも立たない。泉は彼女を溶かすように受け入れている。


「そうまでして、わたくしを娶りたいと仰られるのですか」


 あどけないソプラノは、フォルトゥーネの可憐な外見に反して厳しい響きを持っていた。

 それは、ジャスティンが即位したときからずっと変わらないものの一つだ。そして出会いに芽生えた気持ちもそうだ。むしろ彼の恋心は燃え、その炎は大きくなる一方だった。


「あなた以外には考えられません」


「わたくしは運命の魔女。この国を守護する役目を負う者。もはや人間ではありません」


「それならば私もそうです。先祖がしてきたようにモルフェシアを守り、発展させるさだめに生まれつきました。ですから、わたしたちが手に手を取ることは、なにもおかしいことではありません!」

 食いついたジャスティンのバリトンは真っ白な呼気となり、天高く響く。

 その後に残された静寂が、星々の無言の拍手だった。

 手渡したい思いを紡いでも、かくも空しく無きものとされるのか。

 歓喜の逢瀬も束の間、ジャスティンは我に返って、己の体が天の風に凍えさせられているのに気付いた。真冬のための厚いフエルトのコートを着てきたのに、体が芯まで冷え切っている。気を抜けば、負けてしまいそうな寒さだ。

 その寒空の下で、女神の着るものは薄手のドレスその一枚だけだった。

 申し訳程度にロンググローブをはめているが、それも防寒具の役目は果たさないだろう。

 フォルトゥーネは目に見えぬ翼を音もなく羽ばたかせ、ジャスティンの目の前に降り立った。

 そして小さな手を、彼の手に乗せた。触れられたというのに羽一枚の重みすら無い。


「〈地上の翼〉が見つかるとき、立ち会うおつもりですか? その夢を叶えられるために?」


 ジャスティンは堪らず、彼女の手を握った。

 そう思った。けれども掴んだのは虚空だった。

 女神は手を下ろし、諦めたように、あるいは己を嘲るように小さく口元に笑顔を作った。


「もし、わたくしにも願いがあると聞いたら、あなた様は驚かれるかしら」


「なぜです?」


 少女は満月に向かって翼を広げた。今度は、ジャスティンにも見えた。


「けれど、わたくしは運命に従います。そうするほか、できないの」


 凍てついた世界にのみ帳を下ろす煌めきのカーテン――オーロラにも似た輝きを持った、美しい翼が。月の光に透かし彫られたそれは彼女がフォルトゥーネである証明そのものに思えた。

 少女は広場の切り立った端から世界を見下ろした。


「わたくしが願いを叶えてしまえば、文明国家モルフェシアは終わりを迎えるのですもの」

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