1-3 古の歌

 その日の授業は一言もセシルの頭に入ってこなかった。

 頭をかつらごとぐしゃぐしゃにかきむしりたい気分でいっぱいだったからだ。


「どうしてよりによって、あんなタイミングで!」


 全部パーシィのせいだ。


「別に急がなくても、母さんの電話くらい待たせておけばよかったんだよ」


 邪魔さえ入らなければリアの居場所が分かったのに。

 ケルムの空とはいったいどこのことだろう。見上げてみても、水色はセシルを見下ろしながら雲を引きちぎって遊んでいるだけだ。まさか、ずっと箒で飛んでいるわけでもあるまいし。

 立ち止まり、碧の瞳で空の輪郭をぼんやりとなぞる。裸の木の茶色くて尖った頭がいくつも並ぶ向こうに教会堂の星が見えて、それを見下ろすように時計塔がつんとそそり立っている。

 人が住めるとすれば、あそことか?

 その一瞬、真っ白な雲が視界をかすめていった。それを追いかけようとした瞬間だった。


「セシル! もう、お帰りになるの?」


「うわあ!」


 セシルは体ごと驚いた。飛び上がった拍子にかつらがずれていないか確認する。

 振り向いた先に真っ直ぐ伸びている並木道、アカデミーの正門から続いているそこに、セシルと同じ制服を着こなした少女がいた。手を振り、軽やかに駆けてくる彼女が追いつくまでの時間を使って、セシルは気持ちと言葉を整えた。


「エマか。驚かさないでよ」


「あら、ごめんあそばせ」


 少女は悪びれずにおっとりと謝った。エマニュエラという名の彼女はエルジェ・アカデミーの学友だ。同じ学年で、彼女から声をかけてくれた。

 それからなにかと一緒にいてくれるので、セシルはアカデミーで寂しい思いをしなかった。

 冬に色褪せた木々の中を、二人は並んで校門へと歩き出した。


「セシルったら、いつもそそくさと帰ってしまうんですもの。御者のところへくらい、ご一緒しましょうよ。それともお急ぎかしら。今日も探偵さんのお手伝いにいらっしゃるの?」


 少女が傾げると、毛先がふわりと内巻きになった紅色のショートヘアが揺れた。


「そう、そうなんだよ」


 セシルは軽く頭をかくふりをしてヘアピンの位置を確かめた。大丈夫そうだ。

 エマはというと、あどけなさでいっぱいのほっぺたをぷわぷわに膨らませている。


「まあ。探偵さんったら、なんて人使いが荒いのかしら。使用人にも厳しくなさるの?」


「いや、そんなことはないよ。パーシィはみんなに優しい」


 少しむかむかしながら褒めたが、嘘は言っていない。

 事実、あの美しい青年は自由主義を掲げた自立心旺盛な男のようだし、使用人からすれば、この上ない雇用主に違いない。ただ一人初老の執事ナズレだけはパーシィの手をどれほど煩わせないかについて、いつも執心していたが。


「それならいいんですけれど」


 セシルの下ろした右手が、ふいにエマの小さな左手に包まれる。


「あなたが熱心ならわたくしは止めません。でもいつかグウェンドソン様にちゃあんと物申して差し上げますわ。学生の本分は学びにこそあるのですと」


 その温かさは少女の心根を思わせた。それゆえに少年の心がちくりと心の次は胃が痛んだ。


「そろそろ試験だもんね」


「そう! そうですのよ。一緒に頑張りましょうね、セシル」


「……うん」


〈双魚の月〉も残り数日。潤週〈雪解けの知らせ〉の一週間を過ぎれば季節はまもなく春。

〈白羊の月〉を迎えることはつまり、セシルの初めての春学期が終わることを意味していた。

 一月後にある試験さえ無事にクリアできれば、約三か月間の楽しい夏休みがやってくる。

 それを心の支えにするほかない。セシルはこっそり苦虫を噛んだ。

 苦手な足踏みミシンの扱いさえこなせれば、ほかはどうとでもなる。

 積もった雪と共に冬が去ろうとして、春が扉をノックしているのに、セシルは試験の予感に震えている。けれども、隣のエマはこげ茶色の瞳をきらきらさせて見上げてきた。


「それだけじゃありませんわ。お嫁に行く前の青春をセシルと一緒に楽しみたいのです」


 申し訳なさが募る。ごめん。オレ、お嫁さんをもらう方なんだ。


「でも、みんなには内緒ですけれど、わたくし、実はお嫁さんになるのが夢ではないんです」


「え? そうなの? てっきりそうだから言ってるのかと――」


 エマは恥ずかしげに、けれどもしっかりと首を横に振る。


「わたくし、強い女性になりたいのです。コルシェン王国のスヴェンナ王女殿下のように」


「それって、お姫さまになりたいってこと?」


 セシルはまじまじと少女を見つめてしまった。結わえたリボンの先まで手入れの行き届いている頭髪にあかぎれを知らない真っ白な手と爪。人を疑うことのないまっすぐな瞳のその全てがこの少女エマニュエラの生まれの貴さを物語っていた。それこそ、一国の姫君であると打ち明けられても簡単に信じてしまいそうなほど、彼女には欠けたところなどなかった。


「そうじゃありません。器量を磨いて――」


 そのとき、轟々と空が唸り、大きな影が二人の上を通った。エマは逆巻く風と耳障りな音に耳を塞いだが、セシルはさりげなくかつらを押さえながら影の正体を見上げた。

 車輪のついた船底が特徴的な、飛ぶ船――飛空艇が、その高度をぐんぐんと上げていく。帆を張る代わり翼を広げ、渡り鳥のように風を見つけてその波に乗る。躯体の通った後には白い道筋が描かれて、そしていつしか消えてゆく。

 今度、あれに乗るのはいつだろう。セシルは飛空艇の姿が小さくなってゆくのをぼんやりと見送る。ケルムの空の上を渡る船底はまるで自分が海の住人になったような気分にさえさせる。


「セシルは飛空艇に乗りたいのかい?」


「そうかな。そうかも」


「それが君の夢ならば、僕が叶えてあげたいな」


「夢、なのかな……」


 横から聞こえてきた青いテノールに、セシルは何の気なしに答えていた。

 だが、くすくす笑う少女の声で気付いた。その勢いで隣を見ると黒髪の少年が頬笑んでいた。

 彼の黒い瞳が陽に透け、ガーネットのように燃えた。


「メルヴィン!」


「本当に、飛空艇にご執心なお嬢さまなんて、君ぐらいだよ、セシル!」


 男子制服に身を包んだ少年――メルヴィンも、エマと一緒になって笑う。彼もまたセシルの数少ない友人の一人だ。だが彼はセシルとエマとは違い、飛空艇の操縦士としての訓練を受けていた。女子の教育課程には無いからセシルには羨ましい限りだった。パーシィが余計なことさえしなければ、オレだって。

 心の中でパトロンを呪う少年を、メルヴィンは目一杯レディ扱いしてくれていた。

 その証拠に、スカートを履く二人を先導して歩き出してくれた。


「僕が夢を叶えたら――操縦士になったら、そのときは一番に乗せてあげるよ、セシル」


「本当に? いいの?」


「もちろん!」


「うわぁ! 早く免許取ってね、メルヴィン!」


「セシル、わたくしとお話しましょう。飛空艇だなんて、男の子みたいですわ」


 やきもちを焼いたのか、エマがセシルに抱きついてきた。

 スミレの香りがふわりとセシルの鼻をくすぐる。

 少女のコミュニティというのは少年には不思議なもので、簡単に触れたり抱きしめたりする。普通の少年には喜ばしいことだろうが、セシルにとってそうでもなかった。こちらは少しずつ骨ばってきた身体の線を詰め物でふんわりさせた洋服でどうにか誤魔化しているのだ。


「え、エマ! や、やめてよ!」


 メルヴィンもセシルの隣へ、そしてエマの鼻を指差す。


「そうだよ、エマ。いくら自分と違う趣味を持っていても偏見はいけない。僕の筆記体が女性のようにくるくると愛らしかったら、そのときは笑ってくれてもいいけど」


「あら。心外だわ。女性でも雄弁たる筆跡をお持ちの方はいらっしゃいます。あなたの口ぶりこそ偏見にみちみちているんじゃなくって? ねえ、セシル?」


 両側から視線を浴びて、少年は冷や汗をかいた。


「ワ、ワタシは、わかんない、かな」


 ダ・マスケの子供とは真逆の上品で穏やかな口げんかだ。彼らの出身と育ちの良さが滲む。

 エルジェ・アカデミーは生徒、教諭にさえ生まれと育ちとを公表しない。教育機関でもあり、貴人、要人の子供をかくまう場所でもあるからだという。

 ケルムの出身者は自宅から通うが、留学生は寮に入る。

 本来ならばセシルもそこに入る予定だったが、彼の場合は保護者がケルム市内にいた。

 馬車でアカデミーを往復しているところを見るに、エマも同様らしい。

 だが、メルヴィンは寮住まいだ。でも。セシルは小さな疑問を弄んだ。

 それにしてはモルフ語が上手いよな。コルシェンの出身なのかな。

 頭一つぶんの差を大したことと思わないのか、エマは見上げながらも屹然としている。


「メルヴィンの頭は大きくて固そうですもの。女の子は結婚して、隣でニコニコお歌を歌っていればいいと思っているんだわ」


 一方の黒髪の少年は、紳士よろしくシルクハットを上下するパントマイムを見せた。


「お褒めにあずかりまして、リトルレディ。でも、セシルがそうしてくれるんなら、男の子は誰も断らないと思うよ」


「セシルを? そんなのいけませんっ!」


「今、なんて言った?」


 両の眉を上げておどけるメルヴィンに、スカートの二人が同時に噛みついた。

 エマが小さくくちびるを尖らせて瞳をしばたたかせる。


「セシル? 結婚、かしら?」


「その後!」


「歌――?」


「そうだよ、歌だ! 『歌は鍵』なんだよ」


 どうして気付かなかったんだろう!

 セシルはひらめきの興奮と共に、友人二人の手をぎゅっと握った。

 答えを与えられるのを待つまでもない。〈歌〉を駆使して自分で探しに行けばいいんだ。


「二人とも、ありがとう!」


 エマとメルヴィンは一瞬きょとんとしたが、すぐにとろりと笑顔を溢れさせた。


***


 帰宅した少年は、パトロンの不在に心底ほっとした。依頼人が来ないので女装をせずに済むからだ。朝、あれだけ不機嫌を見せつけた手前どんな顔をして会ったらいいのかもわからない。ううん。こっちが本音。執事が言うには、パーシィは晩餐までには帰ってくるそうだ。

 試す時間はあるな。セシルは心の中で拳を握った。


「ちょっと歌の練習してくる!」


「あら。お部屋でも、服を畳みながらでもできますよ」


「外がいいの!」


 メイドのフィリナに脱ぎ散らかした服を任せてセシルはネルの部屋着のままグウェンドソン邸が誇る広い庭園を目指して部屋を飛び出した。薄いスリッパで階段を叩きながら下る。

 アンダーステアーズから厨房へ行き、裏口から抜けるのがもっとも近道だ。

 四人の使用人たちが仕事と生活をする地階は事実上半地下にあるが、頭上の採光窓から風や光を取り込めるので湿っぽくはない。むしろ温かい人の営みを感じられる場所でお気に入りですらある。セシルが嗅ぎ慣れた溶けたバターとタマネギの炒められた匂いや採れたてのハーブたちの青臭さが闊歩しているところなど、たった三か月の付き合いなのにもはや懐かしささえ感じる。空腹に突き刺さる香りに導かれるようにして階上よりも狭い通路――人がすれ違うのがやっとの通路を行くと、広い厨房に出た。


「あれ、セシル様。今日はおめかししなくていいんすか?」


「ニールさん」


 口調と同じ軽い笑顔を浮かべる料理人ニールが、セシルへの茶々と前菜のムースを冷蔵庫に入れた。厨房の王である彼はいつもここにいて美味しいものの仕込みと調理に余念がない。


「パーシィがいないからいいの」


「なるほど。出てったらそこの戸口の鍵はばっちり閉めとくんで、安心していいっすよ」


「ホントにやったら怒るから」


 セシルは歯を見せて威嚇してから、厨房の裏口から頭だけを出し、あたりを窺った。

 緑の世界――温室と庭に雇われ庭師の背中を見つけると、しばらくそのままで待った。

 彼が去ったのを見届けると、少年は軽いステップで躍り出て小さな噴水へ駆けた。

 庭師が水を止めて帰ったので水面は凪いでいて、今は風にそうっと撫でられてはくすぐったがっているだけだ。

 あらゆる仕事と文化を求めて国内外の人間が押し寄せ、同様にひしめきあう集合住宅で生活するのが当たり前のケルムの中にあって、庭を持つのは並大抵のことではない。

 ここでもパトロンの青年に感謝した。直接言う気にはなれないけれど。

 お金があってもデリカシーがないんじゃ、どっこいどっこいだよ。

 セシルは荒れた心をなだめるのに深呼吸をし、瞳を閉じた。

 柔らかな日差しが瞼を橙色に温めてくれる。弾む呼吸が切られたばかりの草花の青臭さを胸に送りこむ。それは自動車の排気臭さを少し和らげてくれていた。耳を澄ますと遠くに重たげな飛空艇のエンジン音が、それよりも近くに馬蹄が石畳を蹴る音が、そしてセシルのすぐ足元にはクロウタドリのおしゃべりが聞こえる。命の奏でる音楽が立体的に少年を包みこんでいる。音を運んでくれる風は鼓膜を乾かしながら興奮に火照った頬を冷やしてもくれる。さっきまでからからだった喉も、水をコップ一杯あおってきたから大丈夫だろう。

 少年はくちびるをひと舐めすると、古い言葉を舌に、それから風に乗せた。

 文字を持たぬ黴臭い言葉は、さざめく水面の立てる緩やかなリズムとハーモニーを取りだす。水がその昔、自らの身体に溶かした音楽を思い出させてやるのだ。それは歌というよりも音程を持った語りであり、精霊への呼びかけだった。

 教えて。リアの居場所を。

 セシルの奏でられる喉はたった一つしかなかった。けれども、歌う声に共鳴した水の倍音や差音が幾重にも重なり、まあるくお互いに干渉し合って響きが響きを呼び合っている。それは陽光に輝く喜びのメロディと、星空を映し焦がれる祈りに似たオブリガートが絡み合う、命の音楽だった。

 言葉の雫が喜びの波に飲まれながら再び舞い踊る手ごたえを感じつつ、セシルはうっとりとその音楽に体を浸した。

 どれほどの時間が経ったかわからない。名残惜しみながら水のバルカローレを締めくくると、セシルは瞳を開いた。さっきよりも太陽が赤いような気がする。明るい世界が、彼に無言の拍手を送ってくれている。それを誇らしく受け止めると、静まり返った水鏡を覗き込んだ。歪みなく張りつめたそれからは、揺れるスノードロップ、あるいはあどけない乙女の告白のような、セシルにだけ聞こえる光の言葉が聞こえてきた。

 セシル。継承者。

 水の雫が花びらならば、喜びに舞い踊っていただろう。そういう明るい印象があった。


「久しぶり〈水のヴァトゥンス〉。リアの居場所ってわかる?」


 リア。空の上。翼。さがして。


「空のどこ? 翼ってなに?」


 少年が水鏡に乗り出すと、青く映り込んでいた自分に叱り飛ばされた。


「セシル! あなた、なんてことをしたの!」


 むうっとくちびるを突きだす少女こそ、セシルが居場所を求める幼馴染だった。


「リア! なんで邪魔するのさ――!」


「ああん、違うの! どうして今、ここで、〈バルカローレ〉を歌ったかを聞いてるの!」


 水面の向こうの彼女は見たことのない必死の形相で、まるで一大事と言わんばかりだ。


「そんなに目くじらを立てなくても!」


〈六つのマナの歌〉は、聴く人が聴けば世界のマナを寄せ集めた和声を感じ取れるが、ダ・マスケ村の外であるケルムの人間――魔法を扱えない〈非魔(ディマジカ〉が聞いたところでただの歌なのだ。それはリアも、セシルの家族も口をそろえて言っていたはずだが。


「別に大丈夫でしょ? リアが『歌は鍵』だって言ってたの思い出してさ。精霊に聞いたっていいじゃん。それで、ホントに空の上にいるの? 翼ってなに?」


 立て板に水、問い詰めるセシルに、リアは瞳を丸めた。

 そして、指をさして勢いよく首を横に振った。


「だめ、セシル――」


「翼?」


「そう、翼。翼を探すって、どういうことだと思う?」


「セシル!」


 叫んですぐ少女が姿を消したので、少年はやっと気付いた。警告だったのだ。

 急いで振り返ると、そこにはシルクハットの紳士が立っていた。聞かれてた!

 パーシィはばつが悪そうに空色の瞳をまたたかせながら、ぎこちなく帽子を脱いだ。

 セシルの顔が熱く火照る。きまずいどころではない。 黙っている噴水にほとんど頭を突っ込むようにして大きな独り言を繰り返す姿は、誰から見ても奇怪なものだろう。

 昨日の比ではない。なんと言い訳をすればいいか頑張って頭を働かせてみるも、すっかり血が上ってしまってどうにもならない。転じて相手の非を責めるのが一番手っ取り早かったが、今日に限ってはセシルの方が分が悪かった。

 言葉を探していたのは探偵も同じなのか彼は一頻り遠慮したあとおずおずと声をかけてきた。


「やあ」


 少年はそっぽを向いた。真っ赤な頬をまともに見られて恥ずかしいが、それしかできない。

 もちろん、言葉の用意も追いつかない。

 ごきげんよう、とクラスメイトのエマのように機転を利かして白を切られればよかったが、生憎セシルはそんな器用さを持ち合わせていなかった。

 だからだんまりを決め込んで、パーシィの横をすり抜けようとした。

 しかし紳士の手によってそれは遮られた。

 優しく、けれどもしっかりと肩ごと振り向かされる。


「待ってくれ、セシル」


 青年が声音同様の丁寧さで肩に置いた手を、セシルは払った。


「……オレ、昨日のこと、まだ――」


「だから、すまないと」


 バリトンがそこで途切れた。

 なんて? セシルは半ば呆然として彼を見上げ、まじまじと見つめてしまった。

 パーシィの整った顔はマネキンのように微動だにしなかったが、その瞳はあちこち忙しなく動いている。


「……返事を待たず、部屋に入って……申し訳なかった。君のお母様から電話が……ご家族と話したいだろうと思って、つい気が急いて……」


 とつとつと伝えてくれる優しさが、少年の心を締め付ける。

 セシルは自分のことしか考えていなかったというのに。己の身勝手さが醜すぎる。

 彼はシルクハットが足元に落ちるのも構わず手袋を脱いだ。

 そしてセシルの両手を取って跪き、少年の顔を恭しく覗き込んだ。


「許してくれるだろうか?」


 整った青年の相貌が、少年の視界を占拠した。

 吸い込まれそうな空色の瞳が、セシルの顔を映しているのまでくっきりと見えた。

 風が頬へ吹きつけている感覚はあるのに、まったく冷やされた気がしない。


「……うん」


 セシルは魔法にかけられたような気分で、ゆっくりと頷いた。


「ありがとう」


 パーシィの声は暖かかった。指先からも彼の温もりが伝わってくる。

 セシルは自分の目を疑った。そこで、心とろかすようなとびきりの笑顔が咲いたから。


***


 セシルは気付けば温かい湯船の中にいた。最近発売されたばかりのシャワー付きの浴槽だ。蛇口をひねれば清潔な湯が降り注ぐ。すごいよなぁ。村の誰かに言っても信じられなさそう。

 あと、フィリナさんが言ってたっけ。


「文明の利器は素晴らしいですよね。わたしもお湯を運ばずに済んで助かります」


 顔を洗い続ける湯水にふと気付き、慌ててシャワーを止めた。

 水音が乱れる。少年は撫でおろした胸ごと再び身体を沈めた。


「危なかった……」


 晩餐を共にしたことは覚えている。それは、ふくれたお腹が証明してくれていた。そのあと、この家で最も偉いパーシィが入浴を終えたからとメイドに背中を押されるまま浴室へ行き、服を脱いだ。姉妹のどちらだったかも覚えていない。

 頭がぼんやりする。少年は濡れて濃くなった亜麻色の前髪をひと思いに後ろへ撫でつけた。


「パーシィ、変なの」


 ため息とともに独り言が落ちる。誰に問うでもない素直な疑問だ。

 普段の涼やかな表情は、ともすれば他人への無関心にさえ見える。

 それが、手に手を取っ、鼻と鼻を突き合わせて。嘘のような一瞬だった。

 違う。本当にお姫様扱いされちゃった。


「あんなに丁寧に謝られたら、許しちゃうじゃないか」


 独り言が湯気の中に溶けるのを見送る間、セシルはもう一つの心のしこりを見つめた。

 それはこういうとき、真っ先に口をはさんでくるお喋りな幼馴染のことだ。きまぐれなところがあるとはいえ、こんなふうにプライベートが約束されたときに現れないなんて。


「リアも、大概だけど」


 二つのわだかまりを抱えながら身体を拭って部屋着に着替えたセシルはガス灯を消し、その代わりに灯した蝋燭を持って浴室を出た。静かな廊下から自室に戻ると、大きなベッドに腰掛けて髪の毛から雫が垂れなくなるまでタオルで頭を拭く。昼間できなかったのを果たすように、ぐしゃぐしゃと乱暴にやっていたけれども、品のよい三つのノックはきちんと耳に届いた。


「セシル。いいかな」


 それは夜にふさわしい、静かな呼び声だった。


「……いいよ」


 少年の許可のあと、ドアノブがおずおずと音を立てた。顔を出したのはこの家の主人だった。

 彼もまた寝巻姿だったが、その上に浅黄色のニットのカーディガンを羽織っていた。


「せっかくだから、話そうと思って。君が嫌ならばまた日を改めよう。どうだろう、喫茶には遅すぎる時間だけども」


 そう言うパーシィの左手には銀の盆が、その上には小さなティーセットがあった。

 セシルの背筋が思わず伸びる。それを見た青年はくすりと笑って部屋に入ってきた。

 足元に置いたランタンも忘れずに持ち、盆とそれをセシルの勉強机の上に置く。

 蝋燭の明かりが彼の長身を切り抜いて、絨毯の上でゆらゆらと引き延ばして弄んでいる。

 橙色の温かさにつられたセシルが素足のつま先で軽やかにやってくると、彼は椅子を引いてくれた。そこへ得意げにとすんと座ると、小さな炎がふわふわと揺れた。


「くるしゅーないよ」


「それはよかった。それじゃあ、冷めないうちに」


 パーシィは一人用のソファに腰を下ろす前に、二人分のお茶をカップへ注いだ。

 その真っ赤な色合いは紅茶のようだった一口含んでみると全然違った。

 口あたりと風味のまろやかさに驚いた。


「これ、なに? 紅茶じゃないの?」


 甘いバニラの香りが鼻を抜けていったあとには、ミントに似た清涼感が残る。

 舌の上を転がすほど、ささやかな甘みが口の中いっぱいに広がる。


「違う。夜に飲んでも構わないとフィリナが言っていた。リネアリスという木の葉を発酵させたものだそうだ。この辺りではなくて、南の高原でのみ生産されるらしい」


「へえ。おもしろい味がする」


「気に入ったかな?」


「うん。母さんの薬膳茶みたいだ」


 セシルが進んで口にするのにそそられたのか、青年もカップに口をつけた。

 喉が上下する前に、彼は目を白黒させた。

 どうやらパーシィも初めてらしい。褒め言葉を探しているのかあるいは苦手な香味に極めて平静を保とうとしているのか。

 絵に描いたような美男子が浮かべたどちらともつかない微妙な表情はなんだか愉快で、つい声を立てて笑ってしまった。背もたれもセシルと一緒に小さく呻いた。


「そんなに笑わなくてもいいだろう」


「だって我慢してるから。好きじゃないならそう言えばいいのに。強がっちゃってさ」


「強がってなどいない」


 パーシィは少しむっとしてみせたが、すぐに目元を緩ませた。

 蝋燭の炎で、蜂蜜色の髪が朝焼けの太陽と同じ色に染まっている。


「そろそろ、僕と言う人間が解ってきたんじゃないか、セシル?」


「そう?」


 少年はカップを持たない右手で机に顎肘をついて、小首をかしげた。


「パーシィは秘密主義者って感じ。嘘は吐かないけど、その代わりなんにも教えてくれない」


「それは、聞かれないからだ」


 二人は蝋燭を挟み、揃ってくちびるを尖らせた。


「それが不親切なんだよ」


「興味のない話を延々と語られるのは嫌なものだろう。君もそうかな、と」


「そりゃ、全然興味のない人からされるのは嫌。でも、いろいろと親切にしてくれる人の話は聞いてみたいかな」


「例えば、何を知りたい?」


「そうだなぁ。女装を辞める方法とか」


 投げやりに言ったセシルは、体を一つ震わせた。

 夜が冷やした空気に耐えかねたのだ。すると青年が彼の羽織っていたニットをかけてくれた。


「それは難しいな。あれは見た目に反して君を守る鎧のようなものだから」


 パーシィは長い両腕を自らに巻き付けるようにして組んだ。


「その余計な気遣いのせいで魔女だってばれそうなんだけど」


「では、君を守れるよう、魔法の秘密を教えて欲しい。僕も秘密を教えよう」


 セシルはにやりとしてみせた。


「わかった。でも、眠たくなったら言ってね。そのときはベッドを貸してあげる」


***


 その晩、カップの底が乾き喉が渇いても、二人はおしゃべりを楽しんだ。

 それは、秘密を共有し合うと言う意味で、まさに密談と呼べるものだった。


「オレたちが使う魔法は世界中に散らばっているマナをちょっと借りるものなんだよ。空気と同じでどこにでもあるんだけど、見えない。常に混じり合って流れているけど、それはなんていうか……肌の感覚でしかわかんなくて。うまく言えない。〈歌〉は、たくさん力を借りたいときや精霊に話を聞きたいときに使うんだ」


 青年の瞳がきらりとした。わくわくしている、とセシルは直感でわかった。


「では、先程君が奏でていた音楽が〈歌〉なのかい?」


「なんで音楽だってわかったの?」


「どうしてだろう。でも聴こえたんだ。君の声に寄り添う、ハープかギターの八分の六のアルペジオを」


 セシルがその血に流れる魔法の力と〈六つのマナの歌〉を教えた次はパーシィの番だった。

 少年は秘密のお返しに、なぜダ・マスケの村と魔女の存在を知り得たのかをせがんだ。

 春の入り口とはいえ、冷え込みは容赦が無かったので、二人はベッドの上でシーツにくるまって、額を突き合わせていた。兄弟ができたような気がして、セシルはくすぐったい気持になった。大きなベッドには二人を乗せてもまだ余裕があった。


「僕が子供のとき、ヴァイオレットどのに助けてもらったそうだ。ものすごい高熱をだして、十日間生死をさまよっていたらしい」


 ちょうどきみと同じぐらいの歳に。そう青年は、夜闇に相応しい静謐な声で話してくれた。セシルのほかにそれを聞いていたのは、サイドボードの上で静かにしている小さな灯火だけだ。


「らしい、って他人事みたいに」


「仕方が無いだろう、ききづてなんだから。あのときのことはほとんど覚えていない。父上が国中の医者を呼んだけれども手立てがなくて、ついには葬式の支度まで始まっていたらしい」


 鼻で笑うパーシィだったが、反対にセシルはくちびるをぎゅっと結んだ。笑い事じゃない。


「みんなが途方にくれていた中、母上だけは魔女の住む伝説の村を探していたそうだ。母上の願いが聞き届けられたのか、森を歩いて三日三晩経ったある日、ついにその村を見つけた」


「あっ! それって、ダ・マスケのこと?」


 青年は優しく頷いた。


「そう。母上を最初に出迎えてくれたのが男の人で、たいそう驚いたらしい」


「ちょっと。パーシィのお母さん、何が出てくる思ってたの?」


「さあ。ドラゴンじゃないか?」


 二人はくすくす笑いあう。


「そこで母上の話をすぐに信じて名乗りを上げ、母上と一緒に城まで来てくれたのが、君のお婆様だった。ヴァイオレット殿と僕の両親は約束をした。僕の病を治すかわり、ダ・マスケの保護を頼みたいと。そのとき、村は人口減少の一途を辿っていたらしくてね」


 セシルは口を開きかけたが、それは続く言葉に全てかっさらわれた。


「そうして僕は命を取り留めて、僕の右耳は、聴く力を失くした」


「え……?」


 少年が絶句したのも想定内なのか、青年は気軽に続ける。


「それで、これが手放せなくなった」


 パーシィは、右耳を彩っていた銀色の耳飾りを外してセシルの手のひらに乗せた。

 四枚の羽が外へ向かってはばたき、重心となる翡翠色の石がはめ込まれている。

 温かさの残るそれをよく観察すると、瞳がするように石がまばたきをし、色をひらめかせた。

 中では風が渦巻き小魚のようにいきいきとした姿を見せてはくるりと円を描いて泳いでいる。


「風のマナが入ってる……?」


「そう。これは、モルフェシアから買った特注の補聴器だ」


「補聴器? 機械なの? これ、魔法が入ってるのと同じだよ! モルフェシアって機械の、文明の国じゃないの?」


 噛みついた少年の口に、パーシィが人差し指の戸を立てる。声が大きすぎた。


「文明国家モルフェシア。世界のどこよりも発展し機械が支配する顔は表向き。その内側にはマナストーンがある。どの機械の動力源も、そうだ。補聴器の石も。そしてすべての機械だけでなく、ケルムの街は六種類のマナストーン――〈マナの柱〉の均衡の上で成り立っている。と、いう伝説があるんだが、今のところまだ四つしか見つかっていない」


「待って、全然わかんない! それって、ケルムの人たちは知ってるの? 機械が全部、魔法で動いているって!」


 パーシィは静かに首を振った。


「それを隠しておくため、議会の人間が街中で目を光らせている。不調があればすぐに大公に知らせて、対処を促す」


 暗闇が誘っていたうっすらと心地良い眠気が、一気に遠のいた。

 セシルは知らず知らずのうちに激しくまばたきを繰り返した。


「そんな大きな魔法を、たくさんのマナを使える人間なんて、人間じゃないよ! 魔女にもいない。魔女よりもすごいなにかだよ!」


 セシルの十三年間の人生を思っても、そんな魔女はダ・マスケにいなかった。

 少年が知らないだけかもしれない。

 しかし日常を助ける分の小さな魔法とは桁違いのマナを使うのは想像に易かった。


「魔女よりも強い存在、か」


 青年の声はひどく落ち着いていて、どこか腑に落ちたようだった。


「僕の仕事――探偵業は、モルフェシア公から与えられた。僕は彼と取引をした。ここに住まう代償としてモルフェシア議会の一員〈愚者〉として大公の目になり、モルフェシアを地下で支配しているマナストーン――〈マナの柱〉を探す役目を負った」


 まだ真実のショックからさめないセシルは、うわ言のようにあえいだ。


「だから、オレの〈力〉が必要だったの?」


 横たわっているのに頭がくらくらした。セシルはただ、自分の夢と幼馴染を探すために村を出た。そのつもりだった。それが今や世界の秘密、真実をたった一晩のうちに知ってしまい、さらにはその片棒を担がされようとしている。ダ・マスケの存在と己に流れる魔法の血を隠す方が、何倍も簡単にさえ感じられた。

 愕然とする少年の頭に、なにか温かいものが載せられた。パーシィの大きな手のひらだ。

 彼は亜麻色の髪に指を通し、撫ぜてくれる。


「それは全くの別件だ。ヴァイオレット殿から連絡をもらった。ダ・マスケから外に出たい子を保護するのは、僕たち一族の義務だから。妹は国を離れられない身だし、君はモルフェシアへ行きたいと言っていた。だから僕が引き受けた」


 彼は、セシルの手から補聴器を受け取ると、上体を起こしサイドボードの上に乗せた。

 そして鋭いひと吹きで蝋燭の明かりを消した。


「でも、理解した上で助けてくれると嬉しい」


 訪れた暗闇は静けさの象徴なのに、なんだか騒がしく感じられた。

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