第5話

 しんと、暗く、静かな蛹の中。

 彼の心臓の音。とくん、とくんと響く、優しい彼の心音。とくん、とくん、と響く、一つきりの心臓の音。

 ふと、不安を覚えて、私は胸の真ん中を掴む。乱れているはずの鼓動は、しんと、静まり返っている。この蛹の中みたいに。

 いくら耳を傾けても、優しい響きは一つきり。もう一つは、どこへいってしまったのだろう。私は、胸に当てた指をぎゅっと握る。

「行けませんよ、同じ場所なんかには」

 蛹の向こうで、声がした。

 他の音はひどく遠く、ぼんやりとして聞こえないのに。たった一つの声だけが、まるで耳元で囁くように、小さいのにはっきりと、鼓膜を震わせる。

「たとえ、このまま、命が尽きたとしても」

 同じ場所なんかには、決して、辿りつけない。

 冷たく気だるい声が、蛹をこじ開ける。黒く完璧な暗闇が、細く切り開かれて、こじ開けられる。刃物のような、冷たい煌めきの声。

 その隙間から、温かな色が滑り込む。橙色の、あれは、ライターの火。ちらちらと、橙色の炎が、蛹を溶かす。

「だ、ダメ、蛹が溶けたら」

「全ては、流れて、消える」

 黒い糸は炎に炙られ、千切れて、剥がれ落ちていく。溶け落ちる綿あめのように、ぐずぐずと、柔らかく、優しく落ちて、私を闇から放り出す。

 ずるり、と腕が這いこんで、私と彼を剥がしていく。彼の身体を抱きとめようとしたのに、絡んだ糸が邪魔をして、身動きが取れない。蜘蛛の糸に捕らわれた虫のように、私は力なく、もがいた。彼の身体は、ずるりと、繭の向こうに生れ落ちていく。

 一人取り残されて、私は闇の中で膝を抱えて背を丸める。丸まったまま、おずおずと、光に向けて顔を上げた。

 炎と糸の隙間から、ヤギさんが見下ろしていた。ひどく冷たく、醒めた目をして、笑っている。私は、成す術もなく、ただ、その顔を見つめていた。

 炎が蛹を溶かし尽くし、へたりこんだ私を、バクの華奢な腕が引っ張り上げた。その強さに、思わず目を見張る。

「ヤギさん、やり方が乱暴なんだけど」

「仕方がないだろ、見えなかったんだ、それが」

 私は左腕に残った死絡みに視線を落とす。黒く絡んだ糸の中に、何かが煌めいて、目を射る。

「アナタにしか、解けないんです、それ」

 物憂げに腕を掻いて、ヤギさんは少し不機嫌そうな声を出した。

 腕に残った糸の塊と、その向こうの煌めきは、私の胸を締め上げる。ずきんと、糸に包まれた指先が、鼓動のように疼いた。

 ヤギさんの足元に、私の恋人が、目を閉じて伏している。伸ばそうとした私の手を、バクがそっと止めた。

 ああ、そうか。彼に触れては、いけないのだ。彼は甘やかに脈打つ生き物で、私は冷たく凝っているのだ。

 黒い繭の中で、心音が一つしかしなかったのは。

「私が、死んで、いるのね」

 掴んだ胸の真ん中には、命を刻むはずの鼓動が、しない。

 ヤギさんが下唇を少し突き出して、明後日の方を見て頷く。

「部屋の中で物音が、気配がしていたのは」

「部屋の中で気配を感じて困っていたのは、アナタの恋人の方ですよ」

 寂し気な眼差しを、ヤギさんは私の恋人だった人に向ける。

「アナタが事故で亡くなってから、病室で物音や気配がすると言っていた。部屋を変えても、月日を重ねても、気配は消えない。それで、相談に来た」

 手に焼け残った黒い糸が、はらりとほつれる。ヤギさんの静かな声を聴きながら、左腕の死絡みを、私は少しずつ、解いていく。

「二人があんまりぴったり重なっているから、剥がせなくてね」

 ヤギさんが依頼人として話しかけていたのは、私が影のように寄り添っていた、彼にだったのだろう。私は彼の行くところに行き、彼の聴くものを聞いていた。まるで、それが自分の意志であるかのように。肝心の、彼の言葉は、それほど近くにいながら、何一つ聞こえなかったのに。

「それから、アナタの恋人が『どこかへいってしまったもの』があると、思い出した」

 ぽろぽろと、炎に焼かれた死絡みが腕から剥がれ落ちる。もはやそれは、糸の形すら保てないほど脆い。

「アナタも恋人も、忘れたいのに、忘れられなかった。それが『どこかへいってしまったもの』で、強く結びついた」

 糸の塊の向こうで指先が、冷たい何かに触れる。

「忘れたい、忘れない。忘れようとすればするほど、思い出す。それがせめぎ合って、零れ落ちて、死絡みになって、巻き付いた」

 指先がなぞった優しい曲線の形に、私の口元はほころびる。

 ヤギさんがほんの一瞬、優しい目をして、笑った。

「でも、もう、放せるでしょう」

「死んでいたのは、私…。離れられなかったのは」

 死絡みが溶け落ちた左手の薬指には、煌めく指輪。私は愛おしんで、薬指にはめられた指輪を撫でる。

「嬉しかったから…」

 まだ、離れたくなど、なかった。死んだはずの私の指に、最期に贈られた指輪。

「骨と一緒に収めるつもりが、いつの間にか、なくなっていたそうです」

「嬉しかったの」

 煌めく指輪を、そっと指でなぞる。

 零れるはずのない涙が、身体の奥から溢れて、落ちた。

 ぱちん。

 闇の中に、炎が灯る。小さな、ライターの、明かり。

 ヤギさんは、すうっと腕を掲げる。暗い闇の向こうを、明かりが照らす。

「あれが、アナタの来し方、行く末」

 後ろを振り返れば、どうしてそこまで小さな炎が照らしだせるのかと思うほどに、遠くから続く、眩い道。私の前には仄暗く、それでも続いていく、曲がりくねった道。

 終わりでは、ないのだ。

 もう、ここで、愛しい人と別れはしても。終わりでは、ないのだ。

 私は彼の傍らに跪いて、そっと手を取り、口づけた。今度は、ヤギさんもバクも、止めなかった。

「あの…何を言えばよいのか、わからないけれど。ありがとうございます」

「お気になさらず、報酬はいただいたんで」

 ヤギさんの手の中で、きらりと指輪が光を跳ねる。最後に出てきたものを報酬に、それが契約の対価だった。

「いいの、それ、渡しちゃって」

「もうなくても大丈夫。それに、持っていくわけにもいかないし」

 私が笑うと、バクは少し不服そうにしていたけれどすぐに肩をすくめて微笑み返した。

「それじゃあ」

 癖っ毛の隙間から、どうしてか、ヤギさんが寂しそうな眼をして、笑った。

 私は踵を返して、一歩を踏み出す。

 曲がりくねった、道の向こうへ。

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