第4話
「よく何かを感じるのは、キッチン?」
ぐるりと身体を回して、ヤギさんは虚空に問うように呟いた。
「あとは、風呂場、洗面台…そうだな、水は媒介しやすい」
意識していなかった場所を言われて、心臓が、どきりとする。
不意に、ヤギさんは踵を返して、窓の方を見た。
「金は要らない。その代わり、問題が解決した時に出るモノをくれ」
「あ、またそんなこと言って! 食費、どうすんの!」
「お前は食費、かかんないだろ」
「ヤギさんが食べるでしょ!」
詰め寄ったバクを面倒くさそうに掌で遠ざけて、ヤギさんは耳を澄ます。
「え、何?」
「しい。聞こえませんか、誰かが、歩く音が」
人差し指を唇に当てて、ヤギさんの唇は、細い三日月のように捻じ曲がる。
「え?」
「たぶん、アナタに、近しい人だ」
ひたり。
私は背後を振り返る。
ひたり、ひたり。
進んだ足音の分だけ、私は後ずさる。
ひた。
足音が、止む。
「ヤギさん…!」
「怖いんですか、一度は、一生を共にしようとした相手のはずなのに」
「どうして、それを」
そんなことまで、私は、話しただろうか。記憶が、曖昧に抜け落ちる。
「怖いのに、あの人のことはまだ、忘れられない?」
ぎしり、とヤギさんが近づく。
「隠しているものが見つかれば、解けるんですけどね。恋人とアナタをつなぐ『どこかへいってしまったもの』。それがなにかわかれば、それで、おしまい」
簡単でしょう、と笑うヤギさんの眼は、笑っていない。
「おしまい?」
「そう、おしまいです」
「隠している、モノ?」
「アナタが、知っているはずなんですけどねえ」
ひたり。
足音が近づいて、私はヤギさんの服を掴む。
「あれは、彼?」
「そうです、アナタの恋人だった人だ」
左手が、ずきりと痛む。
ヤギさんの眼が、私の腕を滑り降りる。
恐る恐る、私は、腕を見下ろす。左腕に、ざわざわざわざわと、揺れる影、陰。絡みつく、髪のような、黒く細い無数の束。
「『死絡み』です」
「しがらみ…?」
にたり、とヤギさんが笑う。
「それがある限り、アナタは恋人と、離れられない」
私は、ヤギさんの後ろを見る。
ひたひたひた。
足音が、近づいてくる。あの人の、足音。
「や」
ヤギさんを押しのけて、私は部屋の奥へ逃げる。
コーヒーの香りが残るリビングを走り抜け、狭く逃げ場のない、洗面台にぶつかる。
ひたり。
ひたり。
「や、厭だ…」
ひたり。
「見ないほうが、いい」
振り返ろうとした私を、気怠いヤギさんの声が、押し留める。
「見ては、いけない」
ひたり。
「何も、いないんです。そこには、何も、いない。だって、そうでしょう。あなたの大切な人は」
「…死んだんだから…」
だから、なにも、いない。
彼は、もう、いない。
大切だった、あの人が、そこに…。
私は、ゆっくりと振り返る。何も。誰も。いない。胸の奥深くから息が零れ、私はぎゅっと目をつむる。
そうだ、気のせい、だったのだ。私が、彼を、思いすぎるあまり、夢を見たのだ。
前を向く。唇が、束の間震えて、それから微笑むのが分かる。
もう大丈夫。彼を、忘れられなかっただけ。
もう、大丈夫。彼は、いない。
目を開くと、そこに、男が立っていた。
「…ひっ」
一歩も、動けなかった。鏡の向こうで、彼が、私を。見ている。
青白い、痩せた頬。泣き出しそうに、震えている、唇。
『千沙』
唇が、そう呼んだ。声など、聞こえるはずもないのに。左腕が、燃えるように痛んだ。
私は、手を伸ばす。鏡の向こうに向かって、左手を伸ばす。
ざわり。左手で、陰が揺れる。
ざわり。手首から腕へ、腕から肩へ、陰が這い上る。
鏡の向こうで、彼が後ずさる。
でも、わかる。彼も鏡の向こうで、左手を上げる。私が左手を伸ばすと、彼の左腕も、鏡に向かって伸ばされる。私の腕に引きずられて、伸ばされる。
何かが私の手から伸びる。ずっとずっと、左腕に絡みついて離れなかった、黒い影。べったりと黒く腕を覆っていたそれが、しゅるりしゅるりと、解けて、まるで細い糸のように見える。黒く、紅く、どす黒い、糸。それは腕から伸びて、鏡に取りつき、髪のように細く強く、鏡に絡みつく。
左の指先が、しびれているはずなのに、とても、痛かった。
鏡は黒い死絡みに覆いつくされ、ひび割れる。私は、そのひび割れに向かって手を伸ばす。糸は鏡の隙間からあちら側へと入り込み、鏡の向こうで赤黒い糸が、彼に絡みつく。届かない私の手の代わりのように、彼の頬を撫で、唇を、瞼をなぞり、首に滑り降りる。
彼は、もがいて、もがいて、もがいて。彼がもがいて暴れるほど、糸は彼の首を、なだめるように撫で上げ、優しく愛おしむように幾重にも包み込んでいく。
彼の手が、首を掻きむしるようにした。
「どうして、逃げるの…? 私から」
彼の顔が、歪む。恐怖に、嫌悪に、歪む。指が糸を引きちぎり、首筋にいくつも赤い爪の跡が付いた。
糸は暴れる彼の指ごと、また彼の首を包み込む。糸先が彼の両手と共に、呼吸を求めて開いた口元を飲み込んでいく。彼の眼が、恐怖に開かれていく。
「私の、ワタシの、ワたシの、ワたシノ!!」
ざわり、と死絡みが溢れ出て、鏡を押し割り、あっという間もなく彼は黒い糸の束に飲み込まれる。黒い波は私の身体にも這い登り、私と彼とを引き寄せて、一つに包み込む。まるで、互いに抱きしめ合うように。
黒く、静かな、蛹の中。
彼のぬくもりが、私の身体に伝わってくる。
「ああ、これで、やっと」
誰にも、邪魔されずに。
「一緒に」
深い満足が胸の内から沸き上がり、私は甘い溜息をついた。
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