第3話

 あの日、どうやって自分の部屋まで帰ってきたのか、よく覚えていなかった。

 ひんやりとした手が私の右手に触れていたような感覚があるから、バクと呼ばれた少年が付き添ってくれていたのかもしれない。いつの間にか、私は自分の部屋にいて、コーヒーの香りがあたりに浮かんでいた。

 もう一度あのビルへ行こうと何度も迷ったが、どうにも怖くて思い切れずにいた。ヤギさんと呼ばれたあの男を、どこまで信用してよいのかわからない。

 そもそも、気配が部屋でするだけで、特に被害はないのだ。指が動かないのは事故の後遺症のせいだし、気配がするのは、私が、今も彼を忘れられないから。それ以外に、どんな理由があるというのか。

 恐る恐る、左手を見下ろす。指先に力を籠めるが、動かない。だらりと、自分のものではないかのように、身体の脇にぶら下がっている。

 ふと、その肘から先が、黒いもので覆われているように見えて、私は取り乱す。遠くへ放り投げたくても、自分の腕だから、どうにもならない。泣きたくなって、私はむやみに歩き回る。

 背後で、がたり、と椅子が動く音がして、私は弾かれたように振り返った。

 狭いリビングはしんとして、何かが動いた気配もない。それでも、何かが、私を見ている気がする。

 後ずさって、部屋の隅に背中をつける。息を殺す緊張が、もうひとつ、どこかでしている。

 気のせいだ、自分にそう言い聞かせて、洗面台に向かう。顔でも洗えば、少しは、しゃんとするはず。冷たい水に右手を浸し、ふと、顔を上げた。

 鏡の中に、青白い、恋人の顔。

 凍り付く私の目の前で、鏡の中の唇が、動く。

 声は、聞こえない。悲痛な、顔。

「や…」

 声が、出ない。

 鏡の向こうで、もう一度、あの人が唇を開いた。

『許してくれ』

 そう、言った気がした。許す、何を、なんで、どうして、今さら出てくるの…。

「助けて…」

 唇を割って出てきた言葉が、自分の声に、聞こえない。助けて、ヤギさんでも、バクでも、どっちでも構わないから、助けて。

 玄関が開く音がして、私は身体をすくませる。誰もいないのに、扉が開く。私は扉の前に立つ何かを突き飛ばすように、外へ走り出た。空は、目が眩むほどに、眩しい。

「おや、久しぶり」

 相も変わらずだらしなく椅子に反り返って、ヤギさんがにたりと笑った。息が乱れて声も出ない私を、バクが気遣って、カウンターに座らせてくれた。その細い肩に縋りつく。

「大丈夫?」

「な訳があるか、見たらわかるだろ」

 ヤギさんの冷たい声が聞こえる。

 こくこくと、私は忙しなく頷く。

「鏡、鏡の中に、あの人が」

「意外と早くつながったな」

 ぎしりと椅子を軋ませて、ヤギさんが身を乗り出した。

「さて、じゃあ、せっかく来たところだけど」

「せっかちだな、ヤギさん。まだ全然落ち着いてないし、それに千沙さんは契約ちゃんとしてないんだから、勝手に片づけたらダメだよ、ねえ?」

「契約? そんなの、今する、すぐするから! 助けて、お願い」

「お前、人の弱みに付け込むなよ…」

 ヤギさんの呆れた声が聞こえたけれど、頭に内容が入ってこない。すっと、目の前に差し出された書類とペンをつかみ取り、私はサインを書きなぐる。

「お願い、もう、無理!」

「大好きだった人なのに、いいの?」

 バクがきらきらとした目で、覗き込む。

「おい、バク」

「だって、ヤギさん。ヤギさんが仕事したら、全部、なくなっちゃうんだよ」

 たとえ幽霊だったとしてもさあ、とバクの綺麗な声が歌うようにいう。

 私は必至で首を振った。もう、厭だ。なんだかわからないものが部屋にいるのは、そんな部屋にいるのは、もう、厭だ。

 そういうことなら、とヤギさんがゆらりと椅子から立ち上がる。

「さあ、行こう」

 ひょろりと高い、猫背が揺らぐ。

「さあ、何がでるか」

 ひひひ、とヤギさんは嬉しそうに両手をすり合わせて、跳ねるように部屋を出た。

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