第2話
エレベータもない、薄暗いコンクリートのビル。湿っぽい階段入り口の郵便受けも錆びつき、住人がいるのかいないのか、はっきりとしない。
「ああ、もう」
階段下で二の足を踏んで、暗い踊り場を見上げる。
男の影が、するりと上に登っていく。
ずきん。
指先が痛む。掌が、しびれる。
大変なことになる、男はそう言っていたが、この痛みは事故の後遺症ではないのか。
灰色の壁に手を付けて、私は薄暗い階段を、一段、上がる。
アパート、というよりは貸事務所のような雰囲気の、生活感の薄い廊下と鉄の扉。まるで人がいないわけではないらしく、プラスティックや金属のプレートで申し訳程度に社名が入った扉がいくつかある。突き当りの部屋の扉が、かちゃんと閉じた気がした。
インターホンはついていない。
恐る恐る伸ばした指が触れた時に内側からノブを捻られて、後ずさる。軋んで開いた鉄の扉から、ひょこりと綺麗な黒髪が揺れた。
「いらっしゃい」
色白の、びっくりするほど整った顔をした少年が、笑う。
「え…」
「お客様でしょ?」
「あの」
「ちょっと、ヤギさん、なんで依頼人を置いてきちゃうのさ」
少年は後ろに向かって、冷たい声を上げた。部屋の中から、ぼそぼそと何かを答える声音が聞こえる。
「入って入って」
「あの、依頼って」
少年はくるりと後に回ると、私の背中をさりげなく押して、内部に誘う。
華奢な手足、長いまつげ、くっきりとした二重に、きれいな形の唇。意志の強そうな眉と少し低い声がかろうじて少年だと知らせるが、少女に見間違えそうなほどの中性的な美しさだ。年もちょうどそれくらい、10代の初めだろう。
少年をにこにこしながら眺めていた私は、部屋の奥に顔を向けて、ぎょっと固まる。
青空の広がる大きな窓を背にして、男が、革張りのソファに腰を沈めていた。逆光のせいか、顔が暗い影になって、細く瞳が光る。
男は私を見て、にやり、と大きく笑った。
背後で扉が、ぱたん、と閉じた。
「あ、あの」
「アナタが来たか」
「え」
「ま、どっちでもいいんだけどね」
肘掛椅子に頬杖をついて、男はにっこりと笑うが、三白眼の目が怖い。
「ヤギさん、怖がってるだろ」
「ん、そうか?」
ヤギさん、とは男の名前なのだろうか。
空いたほうの手で、ライターを、ぱちり、ぱちりと点けたり消したりもてあそんでいたが、不意にその炎を掲げて、私を見透かすようにする。
「それ、重いだろう」
ゆらりと炎の影が、私の左手に落ちる。
「大変なことになるって、さっき言ってたけど、どういうこと」
「動かなくなるぞ」
「指が?」
「はじめは指先、掌、手首、少しずつ伸びる。四肢の自由が利かなくなって」
炎がずるりと肌を照らし、滑っていく。
「やがて、そこに達する」
橙色の光は胸の中心、心臓のあたりでぴたりと止まる。
思わず胸の真ん中を、ぎゅっと握りしめた。
「…死ぬの…?」
「アナタは、アナタでは、なくなる。ただ、それだけだ」
ぱちん。
ライターの炎が消える。
男はつまらなそうに、掌を上に向けて、おしまい、という顔をした。
「ちょっと、待って…なに、どういう、こと…?」
「それを解消するか、放っておくか、選ぶといい」
「治せるなら、治してよ!」
「本当に?」
「当り前じゃない!」
「それじゃあ、契約は成立だ」
にたり、と薄闇の中で、男が笑った。
「ヤギさん、悪人みたいなんだけど」
呆れた口調が割り込んできて、私はふっと我に返る。
目の前の男はひひひ、と笑って、革張りのソファにのけぞった。
「まったく、いい加減なんだから。あ、そちらにどうぞ」
「バク、契約書、作っといて」
「わかってる」
バク、と呼ばれた少年は横目で「ヤギさん」を睨みつけると、カウンターに私を座らせた。そつのない動作で、いい香りのする紅茶が目の前に置かれる。
ヤギさんは、相変わらず、後ろの椅子にひっくり返ってぱちりぱちりとライターをもてあそび、少年は優雅に目の前に書類を並べている。こんなところに来てしまって、大丈夫、だったのだろうか。
「千沙さん、ずいぶん警戒心が薄いみたいだけど」
少年は、フルネームを名乗った私を下の名前で呼んだ。事故以来、部屋にこもり、人に会っていなかった私は、それがひどくくすぐったい。
少年はぺらりと紙をめくって、一枚を私の前に差し出した。
「あの、契約って…」
「そうだよ、千沙さん、ろくに内容も聞かずにOKしちゃうんだから。こんな胡散臭い奴の言うことなんて、すぐに信用しちゃダメだって」
「おい、バク、お前…」
唇をへの字にして、ヤギさんがクレームを入れてくる。
「ヤギさんは『どこかへいってしまったもの』を扱う、何、プロ?」
「プロとかアマチュアがあるのか、知らん」
「どこかへ、いってしまったもの…?」
「そう、あるはずのないもの、いるはずのないモノ、あってはならないもの」
「そういうものを扱っている」
いつの間にか、隣にヤギさんが座っていた。驚いて椅子からのけぞった私の腕を、ヤギさんが掴む。思いの外、大きくてがっしりとした掌に、頬が熱くなる。
「なにか、気配を感じるんだろ、どこにいても」
いつも、部屋の中に、隣に。匂い、音、気配、そして、物が動いている。
「でも、それは、私の思い違いで…」
「思い違いにしては、頻度が多くはないか」
「私が、やってるのかもしれない」
「どうして、そう思う」
「だって、私の周りで起きているのは」
全部、ぜんぶ、彼の、名残り。
目の奥が、熱を帯び、私はぎゅっと唇を噛み締める。
「もう、わかってるんだろ。気配の正体が何かは」
「でも、そんなはずない。だって、彼は」
「失ったものがまだあると、脳が思い違いをすることがある。事故で手足を失った後で痛みを感じたり、亡くなったペットが足元に身体を擦り付けてくるような気がしたり」
涙が零れて、手の甲に落ちる。左手は、濡れた感覚も分からない。
「もし、それが原因で、アナタが自分で、彼の面影をなぞっているだけなのだとしたら」
ヤギさんがぐいっと顔を近づけて、囁く。
「どうして、その手は、動かないんですか」
「これは、事故で」
「事故で? ではどうして、その手に、そんなものが絡んでいるのですか」
ぱちん。
間近で小さな炎が揺れる。
すうっと下がるその灯りに、私の眼は吸い寄せられる。
ゆらりゆらりと揺れる炎に照らされた私の左手は、真っ黒な闇に包まれていた。喉は何かに絞められたようで、悲鳴の一つも、出てこない。
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