第1話
私は夢から覚める。
目を開けば、父と母、まだ少年の面差しをした弟が、泣いていた。
ああ、私はいったい、どうしたのだろうか。どうしたのだっけ。頭の中が、小さく眩しい光で眩み、思い出せない。
何か、夢を見ていたのだ。
思い、出せない。
どうして、父と母と、弟は、そんなに泣いているのだろう。
ここは、どこだろう。
白い天井と、点滴のパック、枕元の機械。ああ、病院、だろうか。
強いきらめきが瞼の裏にちらついて、私は、目を閉じる。
数日前から、悩まされていた。
部屋の中で、奇妙な気配がする。
朝、目が覚めると、隣に誰かが寝ていたようなぬくもりが残っていたり、浴室の床が濡れていたり、トーストの香りが部屋に漂っていたり。時には、誰かがそこにいるかのような、気配までする。
今朝はテーブルの上に置いていたマグカップのコーヒーに、ミルクが入っていた。私には、ミルクを入れる習慣がない。
マグカップをまじまじとのぞき込む。
後ろを振り返って耳をそばだてるが、人の気配はしない。当たり前だ。一人暮らしなのだ。
1Kの何の変哲もない、少し古いアパート。少し前までは、もっと広い部屋で、二人で暮らしていた。
恋人と、ふたりで。
半年ほど前に、私はここのアパートに、一人きりで越してきた。その頃のことは、よく、覚えていない。
事故、だったのだ。
恋人のバイクの後ろに乗って、秋の海を見に行くところだった。とても陳腐な青春のような、ささやかな旅だった。
彼が何かを言って、私はそれを聞き取れず、もう一度言ってとせがんだのだ。
ハンドルを握る恋人は、肩越しに私を振り返って、聞き逃した言葉を言おうとしていたのだと思う。それを聞くこともなく、バイクはカーブを曲がり損ねて、私たちは二人とも路上に投げ出された。そこから先は、覚えていない。
目を覚ました時には、病院にいて、彼はもう、どこにもいなかった。
どれだけ眠っていたのかわからない。
目を開けると、顔を覗き込んでいた両親と弟が、ぼろぼろと涙をこぼして泣いた。それから私はまた、気を失ったのだろう。
次の記憶は、曖昧で、ぼんやりとした葬儀の記憶と、二人で住んでいた部屋を引き払うために戻ったマンションで、ただ、途方に暮れて立ち尽くしていた時の、窓の向こうに見えた真っ赤に暮れる10月の空。
事故の後遺症なのか、左手は指先がうまく動かず、時々ずきんと痛む。
それから、途切れ途切れになる記憶。頭を打ったせいで混乱しているのだろうと、お医者様が言っていた。本当は、外的な要因ではなく、あの人がいなくなってしまったショックなのだと、わかっている。
薬を出しましょうか、眠るための、と先生が言っていたけれど、私は小さく首を振って、それを断った。
一人暮らしのために借りたアパートをどうやって選んだのかも、よく覚えていない。すべてが分厚い曇りガラスの向こうの出来事のように、ぼんやりと輪郭が溶けていて、夢を思い出すように曖昧だ。
飾り気のないテーブルと、白い無機質なマグカップ。ただ暮らすためだけにそろえたような家具に囲まれた部屋は、それでも、二人で暮らしていた時の面影を浮かび上がらせるものが何もなく、今の私にとっては、ひどく安心できる蛹の中だ。
ミルクを注いでぬるくなったコーヒーを、私は流しに捨てる。猫舌だった恋人が、入れたての熱いコーヒーを急いで飲めるように、冷えたミルクを注ぐのだ。
私は時計を見る。朝寝坊をしたときに、彼はよく、こうして飲みかけのぬるいコーヒーをカップに残して、慌てて部屋を出て行った。不意にあふれてきた涙を、スポンジを握った右手の甲で拭う。
無意識に、私がミルクを入れたのだろう。きっと、そうだ。あの人の癖、あの人の好きだったもの、あの人の笑う声、今もまだ、忘れていない。
流したコーヒーは泡と共に、すぐに水に流されて排水溝に消えていった。
ひとしきり泣いた後で、部屋にこもっていても仕方がないのだと、私は身支度を整えて部屋を出た。どこでもいいから、人がいるところに行きたい。誰でもいいから、話がしたかった。他愛のないことでいいのだ。頭の中に滲み出す記憶が心の方まで溢れないように、ただ、何の意味もない話がしたい。
甘い焼き菓子の香りで、私は物思いから醒める。マフィンのやさしい香り。見知らぬ店の中で、私はいつの間にか席についていた。
こじんまりとした隠れ家のようなカフェ。私一人だったら、気後れして入れない。あの人は、こういう落ち着いたかわいらしさのあるお店が好きで、どこかへ出かけては新しいお店を開拓して、私を連れてきてくれた。彼がこの街で暮らすのならば、このお店には必ず通っていたに違いない。
コーヒーの香ばしい薫りが鼻腔をくすぐったとき、彼の笑い声が聞こえた気がして、私は落ち着きなくあたりを見回す。
当然、あの人の姿など、見つけられるわけもない。
「相席、いいですか」
申し訳なさそうというよりは、気だるげな声に、私は男を見上げた。4席しかないテーブルは満席で、少し離れて奥まったこのテーブルだけが、私一人だった。
「はい…」
とっさのことで何も考えずに答えると、相席の依頼に来た店員だと思っていたその男が椅子を引いて私の目の前に座った。テイクアウトにしようと思っていたのか、店名の入った紙カップのコーヒーをテーブルに置いて、男はおざなりな笑みを薄い唇に乗せる。
「突然、すみません。困っているように見えたもんで」
すまない感じを微塵も出さずにそう言う男に、私はうろたえる。
宗教とか、そういう類だったら、どうしよう。そんな焦りが顔に出ていたのかもしれない。男は眉をハの字にして、少しだけ情けない顔をした。その表情に、思わず笑いそうになり、私は唇をかみしめる。
「ご、ごめんなさい」
「や、俺の言い方が悪かった。それと、ナンパじゃないし、怪しい宗教でもない」
眉をしかめて男はコーヒーをすすった。三白眼気味の鋭い目元が、癖のついた長めの前髪の隙間から覗いている。
「いつから?」
「え?」
「何か、見えたり、聞こえたりしてるんじゃないのか」
「え?」
どうして、それを知っているのだろう。
男の視線が無遠慮に、私の全身を走る。それから、私の肩越しを眺めるような目つきで、もう一度視線を走らせる。
「あの…何か、見えるんですか…」
「ん…見えるといえば、見える」
「曖昧なこと、言わないでください。怖い…」
男は小首を傾げて、じっと私の左手を見つめている。
「動かない?」
「指? 動かないわけじゃないけど、重くて」
「自分の手じゃないような感じが、する」
「ええ、そう。思うように動かせないことが増えてきたかも」
細い顎を指先で撫でながら、男は目を眇めた。
「あの、初めは指先が痛むだけだったんです。事故で」
「徐々に、広がってきたのか」
頷く私を、男は上目にじっと見ている。薄い口元が、にやり、と笑った。
ぞっとして、思わず身を引くと、男は素知らぬ顔で目を伏せて立ち上がる。
「それ、放っておくと、面倒なことになるぞ」
紙カップをカウンターに返して、男はひらひらと手を振った。
「え、ちょ、ちょっと、待って!」
慌てて立ち上がり、後を追う。
「ごめんなさい」
カウンターの中にいた店員に、何も頼まずに席を立つことを詫びて、男の後を追う。店員は、無表情で私を見て、入れ替えに入ってきた女性に眩しい笑顔を作った。
「ちょっと!待ってよ!」
思わず大きな声を出したが、男はすたすたと歩調を緩めずに角を曲がり、古びたアパートの中に姿を消した。
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