第9話 こうして世界は闇に染まった

「ここが駅です。……って、さすがに駅は来たことありますよね」

「……いや、来たのは初めてだ」

「そうでしたか。先生、本当に引っ越してきたばかりなんですね」

 まぁ、数時間前にこの街どころか世界に引っ越してきたのだが、と心の中でだけ思う。

「駅の向こう側にショッピングモールがあります。けど、普段の買い物だったらこっち側の商店街の方が便利かもしれません」

 めぐみは要点立てて完結に話すのが得意な少女だった。魔族と違い、人間は年齢が如実に外面に表れる。歳不相応なほど、落ちついた所作で、それが不自然でも鼻につくわけでもない、不思議な少女だ。

「ダイアナ学園の場所は分かりますよね?」

「ああ。一度行っているから大丈夫だ」

 嘘だ。行っているはずもない。しかし、記憶がある。郷田ごうだ篤志あつしがダイアナ学園に急遽採用されることになり、その直前に面接を行ったときに赴いている。その、記憶が。

「私は……」

 混濁した記憶が蘇る。忘れようと振り払う。

「……先生?」

 涼やかな声が、頭の痛みを取り払う。めぐみが心配そうな顔をしていた。

「大丈夫ですか? 体調、よくないですか?」

「いや、大丈夫だ。すまない。少し考え事をしていただけだ」

 一人になりたいと思っていたが、一人になっていたらきっと、はっきりとしない記憶と格闘し続けることになっていただろう。

(……ふん。感謝しておいてやる、人間の娘)

 彼がそんなことを考えているとは夢にも思わないだろう。めぐみが朗らかな目を向ける。

「それなら良かったです。体調が悪いのに、わたしが無理に誘い出してしまったかと思いました」

「……元より散歩をするつもりだった。貴様――君がどうこう思う必要はないだろう」

 まぎれもないことだ。どんなに否定しようとしても、難しい。彼は、助けられていた。

 人間の、それも年端もいかぬ少女に、助けられていたのだ。

「あとは、どこに案内したらいいかな……」 めぐみはうんうんと唸る。「あ、そうだ。タイムセールが安いスーパーとか、興味あります? 自炊はされますか?」

「む、いや、そうだな。いや、わからんな」

「あー、でも下宿はひなぎくさんがご飯作るって言ってたっけ。じゃあいいですかね」

 めぐみは微笑んだ。かと思えば、彼の視線が気になったのか、恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「どうかしたか?」

「……いえ、子どものくせに所帯じみてるなぁ、と思われた気がして」

「いや……」

「ゆうき……友達のせいです。わたしはべつに、タイムセールとか通ったりしてないですからね」

「ああ、そうか」

 彼にはよく分からない。分からないが、郷田篤志の記憶が教えてくれる。年頃の少女は、どうやら生活に根付いたことに詳しいことが、恥ずかしいらしい。

「あ、でも、ゆうきはすごいんですよ。タイムセールのプロっていうか、スーパーの店員になれるんじゃないかっていうくらい詳しくて」

 彼は寡黙だ。一人きりで考えをする癖がある。だからこそ、記憶の混濁は危険だ。思考が堂々巡りをして、現実に帰ってくることが困難になる。だからこそ、言葉をかけ続けてくれるめぐみのおかげで、彼は平静を保つことができている。

「今日は商店街の八百屋さんの方が安いとか、肉屋さんの方が安いとか、金物屋さんが特売とか、そういうことにも詳しくて……って、すみません」

「む……?」

「わたし、喋りすぎてますね。すみません……」

「いや、構わない。君の言葉は耳に心地よい」

「……っ」

 めぐみの頬に、さっと朱がさした。

「しかし、もう日も暮れる。君はそろそろ家に帰った方がよいだろう」

「……それもそうですね」

 彼の提案にめぐみが頷き、ニヤリと、少し意地悪そうに笑った。

「先生、ひとりで帰れますか? 迷いませんか? 送っていきましょうか?」

「む……。大丈夫……だろう。たぶん」

「……冗談のつもりだったのに、不安だなぁ」

 めぐみが拍子抜けしたように嘆息した。

「送っていきますよ、先生」

「いや……」



 その瞬間、すべてがモノクロに染まった。



「へ……?」

「ッ……!?」

 比喩ではない。日が落ちかけた街に残っていたわずかばかりの色が、消えた。暗くはない。光はある。しかしすべてがモノクロになったかのように、色を失っている。

 世界から色が消えた。

(これは……ッ!)

 見覚えがある。否、その程度ではない。かつて、彼はその世界に身を落としていたのだ。

 見紛うはずもない。光の世界ロイヤリティを包み込んでいた、闇。

 その余波がもたらす瘴気の色だ。

「……こんなタイミングで! しかも先生も一緒に!?」

 傍らで呻き声を上げたのはめぐみだ。驚くでも、怯えるでもなく、彼女はただ、“都合が悪い”とでもいうかのような顔をしていた。

「先生、逃げましょう!」

「逃げる? 何を……――」

 ――言っている、と言い切ることはできなかった。

 地が揺れる。それとほぼ同時、轟音が響いた。

 それが、何らかの大質量物体が大地に落ちた音だった。音の方へ目を向けるより早く、ソレは鳴いた。


『ウバイトォォォオオオオル!!』


(魔物……!?)

 間違いない。彼の背丈の三倍はあろうかという巨体。世界全てを憎んでいるかのような瞳。

 魔族が使役し、魔王軍の主戦力としてロイヤリティの街々を破壊させ、人間を蹂躙させ、勇者と戦わせた、魔物だ。

 希望の世界ホーピッシュに魔物はいない。それは、先のひなぎくの言葉から間違いないだろう。

 ならばなぜ、ここに魔物が現れる?

(魔族の生き残りが使役している? 我々以外の……?)

「先生!」

 グイと手が引かれ、強制的に思考が中断させられた。めぐみが彼の手を引いて走り出していた。

「逃げますよ!」

「いや……うむ。いや……」

 元より器用な方ではない。とっさの出来事に言葉を紡ぐのは苦手だ。彼には、目の前の少女を納得させ、その場に留まる方法は見つけられなかった。

 めぐみに手を引かれるまま、いくつかの角を曲がった。世界はモノクロのままだ。そして、先ほどまで往来にいたはずの人々が見当たらない。まるで、別世界にめぐみとふたりきり、放り込まれたようだった。

 やがてめぐみは立ち止まり、振り返った。

「ここまで来れば大丈夫だと思います」

「君は……」 彼は、肩で息をするめぐみに問うた。「あまり驚いていないように見えるが、アレが何か知っているのか?」

「へっ!? い、いえ、知らないですけど!? 驚いてるし、怖いし、怯えてますよ!?」

「そうか」

 遠くから魔物の咆哮が聞こえた。めぐみが目を眇める。

「……とりあえず、尋常でないことが起きています。先生は逃げてください」

「君は?」

「わたしは……」

 めぐみは逡巡するように目を泳がせた。

「……わ、わたしも、逃げます。逃げますけど、ちょっと、用事が」

「用事?」

「いや、えっと……」

 めぐみの様子がおかしい。彼自身には、この世界の人間の行動指針も何も分からない。しかし、郷田篤志としての経験則に基づくならば、年端もいかぬ少女が、正体不明の怪物に襲われた反応ではない。

「君は……」

「……すみません! 急ぐので! とにかく、先生はあの怪物からできるだけ離れてくださいね!」

 言うが早いか、めぐみは走り出していた。元来た道を引き返しているのだ。

「……なんだというのだ、一体」

 それは間違いなく危険な行為だ。あの怪物が彼のよく知る魔物と同一かは不明だが、少なくとも魔王軍の魔物は人間を襲う。

 痛めつけ、殺す。

 めぐみはほんの数時間前に知り合っただけの人間の少女だ。めぐみ本人に恨みはないが、いずれ打破すべき人間のひとりであるという事実に変わりはない。だから、あの正体不明の怪物に近づく危険な行為に対して、思うところはない。

 しかし、だ。


 ――『この恩は決して忘れぬ』


 ゴーダーツは武人だ。たとえ人間相手であったとしても礼を失することはない。義理堅くもある。

(ええい! 恩があれば、それを返す前に万一があっては困るのだ……!)

 逡巡は一瞬。彼はめぐみと同じように、元来た道を走った。

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