第8話 こうして少女は彼を誘う

 部屋に戻ってからどれくらい時間が経過したのだろうか。

 まぶたの向こうに光を感じて、彼は目を開いた。日が傾き、空が赤く染まっていた。

 いつの間にか眠りに落ちていたようだ。

「むぅ……」

 魔王城に陽光が差し込むことはない。魔王の強大な闇の魔力によって、周辺一帯が瘴気で包まれているからだ。彼が夕日を拝んだのは、恨み深い“優しさの国”を滅ぼしたとき以来、久しぶりのことだ。

 やがて日は落ちる。世界が闇に包まれ、ロイヤリティは滅ぶ。

 それを望み、戦っていたはずだ。

 ただそれだけを願い、人間を屠ってきたはずだ。

 そのために、勇者と激突し、そして敗北した。

 そのはずだ。

 そうでなければならないだろう。

 それでなければ――、

「――っ……」

 火花が散ったように、視界が瞬いた。まるで、それ以上考えるなと、何者かが警告しているかのようだった。彼は頭を振り、思考を放棄した。

 これ以上考えても詮無いことだろう。

 彼は立ち上がり、部屋を出た。

鈴蘭すずらんの部屋 立入禁止!』

『シュウ』

『ひなぎく』

 廊下に並ぶドアには、それぞれそんなプレートがかかっている。各々に部屋があるのだろう。廊下を進み玄関に出る。扉を開けると、視界が広がった。下宿は二階にある。一階のカフェとは別の入り口だ。

 薄い金属製の階段を降りる。カツンカツンと、小気味良い音が響く。階段はとてつもなく薄いのに、丈夫だ。改めて、この世界の人間の技術力に驚かされる。

「……いや、待てよ。それを逆手に取り、この世界の人間に剣でも作らせれば――」

「――剣? 剣って何ですか、郷田ごうだ先生?」

「……!?」

 ちょうど階段を下りきったときだ。『ひなカフェ』の軒先に、めぐみが立っていた。

「ん……いや、剣道の、竹刀をな……新調、しなければ、とな……」

 そうだ。郷田篤志あつしは、大学で剣道を専攻していた。その記憶をたぐり、彼はかろうじてそう言った。

「へー、先生って剣道をされるんですね。剣道部の顧問になるんですか?」

「む……そうだな。その予定のようだ」

「ようだ?」

「……ん、その予定だ」

 めぐみは得心するように頷いて、店先に置いてあった立て看板に手をかけた。

「……? 何をしている?」

「へ? 何って、もう店じまいなので、片付けるんですよ」

 めぐみはそう言うと、看板を持ち上げた。

「結構、重いから、大変なんですけどね……」

「む……」

 気づいたら動いていた。

 意図したことではない。人間を助けようという気など毛頭ない。

 彼はそっと看板を掴み、めぐみから奪い取った。

「え? 先生……?」

「ここでいいか?」

 彼は店内に看板を置くと、振り返って尋ねた。

「あ、は、はい! ありがとうござます!」

「いや……」

 なぜ動いたのかわからない。

 なぜ助けたのか、考えようとするとまた頭が痛む。

(……違う。私は、助けようとしたのではない。人間が持っているものを、奪おうとしただけだ)

 それは苦しい言い訳だ。

「先生?」

 惑う彼を、めぐみが心配そうな顔で覗き込んだ。

 その瞳が、重なる。


 ――『お願い、死なないで……。ゴーダーツ!』


「っ……」

 思考を放棄する。記憶の混濁を放置する。そうしなければ、頭が割れるとすら思えた。

「……何でもない。気にするな」

 彼はそのまま店を出た。一人にならなければならないと思った。立ち止まってはだめだと思った。動き続けなければ、どうにかなってしまうと思った。

「先生! どこに行くんですか?」

 呼び止めた声に振り返るつもりはなかった。彼は、背を向けたまま答えた。

「……散歩だ」

 彼から返答があったからだろうか。

「また道に迷っちゃいますよ」

 安心したような声だった。彼は、今度こそ、振り返った。

 めぐみが、エプロンを取り、微笑んだ。

「看板のお礼です。よろしければ、この街、案内しますよ、先生」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る