第5話 こうして彼は“思い出した”
「――どうかしましたか?」
その涼やかな声が、彼を思考の迷路から引き上げた。少女は訝しむでもなく、彼にそう問いかけた。彼は突如現われた記憶を隅に追いやり、口を開いた。
「……すまない。道を尋ねたいのだ。『ひなカフェ』という場所をご存知だろうか」
「『ひなカフェ』ですか?」 少女は目を丸くして。「すごい偶然ですね。今からわたしも向かうところなんです。よろしければ、一緒に行きますか?」
「それは僥倖。願ってもない申し出だ。この恩は決して忘れぬ」
たとえ相手が宿敵たる人間であったとしても、礼節は重んじるのが魔王軍幹部、ゴーダーツだ。彼は少女相手に深々と頭を下げた。
「気にしないでください。同じ道を行くだけですから」
少女はそんな彼の様子に笑みを浮べながら、恐縮するように言った。彼は少女が歩く速度に合わせて横に並ぶ。
「『ひなカフェ』に何か御用ですか? ひょっとして今月の限定メニュー、春色パンケーキ目当てとか?」
「む……。いや、そういうわけではなく……用というか、何とも言いづらいのだが……」
そういえば、ひなぎくは、『ここがわたしたちの新しい家ですから、くつろいでくださいね』などと言っていた。
「……仮住まい、ということになるのだろうか」
「ああ、『ひなカフェ』二階の下宿の新しい店子さんだったんですね」
少女が涼やかな声でなめらかに言う。彼の訝しげな視線に気づいたのか、はにかむように笑った。
「わたし、『ひなカフェ』でアルバイトとして働いているんです。ひなぎくさんから下宿の話は聞いています」
「……そうか」
なるほど、と得心する。店を開き、客たちから人間世界の情報を探るだけでなく、従業員からも情報収集をしているのだろう。
「さすがはデザイア様だ。ぬかりがない……」
「はい?」
「いや、独り言だ。すまない。気にしないでくれ」
少女は特に追求することもなく、そうですか、と短く答えただけだった。
「君は……――」
「――めぐみ、です」
「む……」
少女は、にこやかな表情に、たしかな意志を宿していた。
「
「む。たしかに名前を聞くのを忘れていたな。非礼を詫びよう。そして、私自身が先に名乗るべきだった。重ね重ね、失礼した」
「ふふ、面白い方ですね。えっと……」
少女――めぐみが困ったような顔をする。彼を何と呼んだらいいのか分からないのだろう。
そして彼は彼で困り果てていた。ゴーダーツという元の名は使えない。そして、ひなぎくたちが言っていた新しい名前とやらを、彼はまだ知らない。
「私は……」
そのとき、彼の頭の中にまるで神の啓示のようにフレーズが表れた。
「……
「郷田篤志さん、ですか。これからよろしくお願いします」
彼の内心の動揺など知るよしもないめぐみが、にこやかに頭を下げる。
「あ、ああ……」
彼は、フレーズとともに流れ込んできた記憶ともつかない概念に任せ、いつの間にかふくらんでいたポケットに手を入れた。そこには、一枚のカードが入っている。そして、それは今の今まで存在していなかったものだ。今まさに、ポケットの中に出現し、そして、彼はそれがそこにあると知っていた。
(なんだ、この奇妙な感覚は……! 幻術魔法でもあるまいに!!)
彼は猛る気持ちをおさえ、ポケットの中からカードを取り出し、目を落とした。
曰く、『私立ダイアナ学園教職員証』。
「……なんだ、これは」
「?」
彼の言葉に、めぐみも彼の手の中を見つめる。そして、その瞬間、めぐみの目はまた驚きで丸くなっていた。
「わっ、すごいです。本当にすごい偶然ですよ、これは」
「何だというのだ」
今まで涼やかな声しか出していなかっためぐみが、心底驚いたような声を出していた。
「わたし、ダイアナ学園の生徒なんです。ほら、制服がダイアナ学園でしょう?」
でしょう、と言われても、彼には何が何だか分からない。
「学園……と、いうことは、人間の子どもたちが集う場所か……」
「“人間の子ども”?」
「……いや、言葉の綾だ」
彼は自分が失言をしたとわかったが、めぐみはさりとて気にする気もないようだ。目をキラキラさせて、彼を見つめている。
「来週から新しく赴任される体育の先生ですよね? みんなでどんな人だろうって楽しみにしてたんですよ!」
その言葉は彼の心を大きく揺さぶった。
「……私が人間どもの先生!?」
「?」
めぐみが不思議そうな顔をして、
「ダイアナ学園の先生になるから、『ひなカフェ』の下宿に引っ越してきたんじゃないんですか?」
「……う、うむ。そういうことに、なるのだろうな、恐らく」
彼自身、わけがわからない。わけがわからないまま、頭の中に直接インプットされるかのように、記憶とも記録ともつかない何かが流れ込んでくる。
まるで、最初から郷田篤志という人間が存在していたかのように、彼のバックグラウンドが明確にイメージされる。
教師を目指し、体育大学を卒業し、急な退職者が出たダイアナ学園で教鞭を振るうことになり、慌てて下宿先を見つけ、この街に引っ越してきた――。
(――否! 私は魔王軍幹部がひとり、ゴーダーツ! 断じて人間などではない!)
彼は、流れ込んでくる郷田篤志の情報をかきわけ、己にそう言い聞かせた。
「郷田先生、どうかされました?」
「ああ……。いや、なんでもない。気にするな」
彼は心配そうな顔をするめぐみに言う。めぐみに意識を向けると、消え入りそうなほどに細くなっていた己の自我が取り戻されるような気分になった。
「この通りを抜けたら『ひなカフェ』です」
めぐみの言うとおり道を抜けると、家々の中にぽつんとやや大きい『ひなカフェ』の建物が現れた。そしてその軒先には、エプロン姿のひなぎくが心配そうな顔で立っていた。ひなぎくは彼を認めると、ホッとしたような顔をした。
「よかった。帰るのが遅かったから、道にでも迷ったんじゃないかと心配しました」
「面目次第もありません。道に迷いました……」
ひなぎくからの叱責も覚悟していたが、かつて鬼のように厳しかった元上司の女性はやれやれと笑うだけだ。
「仕方ないですね。あなたは昔から、少し抜けているところがありましたからね」
ひなぎくはそれだけ言うと、彼の隣に控えていためぐみに笑いかけた。
「めぐみちゃんが連れてきてくれたのね。ありがとう」
「いえいえ。わたしは郷田先生と一緒に歩いてきただけですよ」
めぐみが控えめに言う。その言葉にひなぎくが反応する。
「郷田先生……?」
「へ?」
めぐみが目を丸くする。
「あ、ああ。郷田先生、ね……」
めぐみの反応に何かを察したのか、ひなぎくが彼に視線をくれる。彼はポケットから先ほどのカードを取り出し、こっそりひなぎくに見せる。それだけで全てを理解したのだろう。ひなぎくが頷いて、笑った。
「そっか。めぐみちゃんはダイアナ学園の生徒さんだから、篤志さんは“先生”になるのね」
「そうなんです。偶然会った人が、新しく赴任する先生だったから、少し驚いちゃいました」
めぐみはそう言うと、着替えてきます、と『ひなカフェ』の中に消えた。
「……へぇ。随分とまぁ、初対面の女の子に懐かれたものですね」
「は……?」
途端に、ひなぎくの表情が冷たくなる。かつての魔王軍最高司令官の表情が垣間見えるくらいの冷たさだ。
「デザイア様……? どうかされましたか?」
「ひなぎく、です。いい加減名前で呼んでくれないと怒りますよ? 篤志さん」
ひなぎくはずいずいと彼に詰め寄る。上背から体格まで、何もかも自分より小さい元上司は、こうしてかつての彼をよく詰問したものだ。などと、感慨深い思いにひたっている場合ではない。元上司は怒ると怖いのだ。
「……まぁ、いいです。まさか、めぐみちゃんに偶然会って、しかもそのときに自分の名前を思い出すなんて思っていませんでしたけど」
ひなぎくは不満げではあったが、答えに窮している彼にそれ以上言うことをためらったようだった。
「何かわかりませんが、申し訳ありません」
「謝らないでください。なんか、わたしが悪いみたいになっちゃうでしょう」
ひなぎくはそれだけ言うと、にこりと笑って一歩下がった。
「二階の下宿に戻ってください。ご自身の名前を思い出したということは、たぶん、色々と必要な書類が部屋に現れているはずですよ」
「書類? 現れている? それは一体……」
「わたしも最初は面食らいましたけどね。わたしたちは、どうやらそういう運命を賜ったようですから。わたしは長年の夢だったカフェの店長、シュウくんは庭師、
「は……?」
「やはり、まだ記憶が混濁しているようですね」
ひなぎくが少しだけ悲しそうな顔をした。踵を返し、彼に目を向けることなく、言う。
「でも、大丈夫です。わたしもすべてを思い出すまで、数日を要しました。少しずつ、思い出していきましょう。魔王軍に属する前のわたしたちのことを。そして魔王軍を裏切った後のわたしたちのことを」
「魔王軍を裏切った……? 一体何をおっしゃっているのです!?」
「言いません。言えません。きっと、あの戦いで一番傷ついたのはあなただから。きっと、わたしもシュウくんも鈴蘭ちゃんも、あなたに救われた。あなたと勇者たちに救われた。そしてあなたはひとり、勇者とともに最後まで戦い抜いたのですね……」
「デザイア様!? あなたは、一体何を……!」
「……? どうかしました?」
『ひなカフェ』の入り口から、不思議そうな顔をしためぐみが顔を出す。身につけているのは、ひなぎくと同じ柄のエプロンだ。
「ううん。なんでもないのよ。ちょっと昔話をしていただけよ」
ひなぎくはそのまま、彼に一瞥もくれることなく、めぐみを伴って『ひなカフェ』の中に消えた。
「魔王軍に属する前の私? 魔王軍を裏切った……?」
それは、彼にとって、存在するはずのない概念だ。己は、思い出しうるすべてで、魔王軍のゴーダーツだったはずだ。前も後もない。それより上も未満もない。彼はずっと、ゴーダーツであり続けていたのだ。それに対してひなぎくの語った言葉はあまりにも不明瞭だ。まるで、彼以上に彼のことを知っているようなことを言う。
「……否。デザイア様には何か考えがおありなのだ。そのための言葉だ」
それはもはや、自分自身に言い聞かせるような言葉になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます