第3話 こうして彼は世界に触れた


 ――『ここは異世界です。我々が住んでいた世界とは別の、魔法はおろか剣すらないような平和な世界――即ち、勇者たちが元いた“希望の世界ホーピッシュ”です』


 色々と諦めたような表情を浮かべる女性――ひなぎくはそう言った。


 ――『だから、外を出歩くときに警戒をする必要はありません。もちろん、泥棒さんやその他の犯罪者さんはいるかもしれませんから、用心するに越したことはありませんけどね』


 その元上司の言葉を、彼はにわかには信じられなかった。異世界という言葉もそうだが、それ以上に魔法や剣が存在しない世界など、彼の想像の範疇にはない。この異世界ホーピッシュとやらには戦いという概念が存在しないとでもいうのだろうか。

 しかし、外に出た彼が目にしたのは、まさにひなぎくの言葉通りの世界だった。

「な、なんだ、これは……」

 部屋の様子から、ここが未知の場所であるというのは予想していたが、その予想をはるかに超えて、とてつもない世界が目の前に広がっていた。

 整然と立ち並ぶ家々は一体どんな素材で作られているのだろう。それも、数十軒という規模ではない。彼が滅ぼした優しさの国の王都ですら、この規模には及ばないだろう。通りに出るとそれがよくわかる。見渡す限り、まるで神がしつらえたかのような直線を描く家々が並んでいるのだ。

(これが異世界とやらの街か……。人間にしてはやるな)

 いずれこの規模の街を作り出すこの世界の人間たちとも戦う必要があるだろう。彼は気合いを入れ直し、散策という名の敵情視察をすることにした。


 ――『この世界は同じような建物が並んでいる場所が多いです。だから、道に迷いやすいので気をつけてくださいね』


 ふと、ひなぎくの言葉が頭をよぎる。まったく、心配性が過ぎるというものだ。彼は魔王城周辺の、魔族ですら道に迷う迷いの森を一日で踏破するだけの能力を持っている。いくら規模が大きいとはいえ、こんな人間の街で道に迷うはずもないだろう。

 後ろを振り返ると、周囲の家々より少し大きい、今まさに彼が出てきた建物がある。

【ひなカフェ】

 大きくそう描かれた看板がかかっている。聞けば、人間たちが食事や喫茶を楽しむための場所とのことだ。


 ――『カフェを経営しているんです』


 元上司ひなぎくは嬉しそうにそんなことを言っていた。


 ――『この世界に来て、小さいころからの夢が叶ったんです。本当に、嬉しくて嬉しくて……』


 一体、魔王軍最強の騎士と呼ばれた最高司令官はどこへいってしまったのだろうか。

 ともあれ、だ。

(デザイア様には何か考えがあるのだろう。恐らく、人間たちにうまく擬態するためにあのような道化を演じてらっしゃるのだろう。さすがはデザイア様だ)

 基本的に彼は元上司のことを絶対的な存在だと思っている。だからこそ、その論理の帰結である。ならば己もその意志に準じ、一刻も早くこの世界に馴染まなければならないだろうと彼は考える。

 彼は気を取り直し、歩を進めた。並ぶ家々だけではない。通りの足下すら異質だ。石造りの道よりはやわらかく、土の道よりも硬い。黒々としたその道は、立ち並ぶ家々に挟まれてどこまでも続いていくようだった。

 そして通りを進み、開けた場所に出た瞬間、そこにはさらに驚くべき光景が広がっていた。

 広場なのだろうと考えていた。

 しかし、それは広場ではなかった。道だ。大通りに出たのだと理解はした。それでも、目の前の光景はにわかには信じがたかった。

 大きな音を立てて、きらびやかでまるっとした何かがその大通りを走り回っていた。すわ人間が開発した戦車かと身構えるも、その丸っこい戦車は彼を見向きもしない。きれいに列を成して、とてつもない速度で一方向に走るだけだ。それが人間の移動手段なのだと気づくのに、そう時間はいらなかった。

(なんという技術だ。魔力を持たない人間たちが“産業”とやらを興しているとは聞いていたが、この世界の産業はこれほどのものなのか……)

 だとすれば、立ち並ぶ家々も人間の産業によるものだと考えるのが自然だろう。

(これは、私の全盛期の力を取り戻す必要があるな……)

 勇者に深手を負わされた影響か、はたまた人間に擬態しているせいか、彼の力は勇者はおろか、武装した人間にも敵わないほどに落ちている。魔力もまったくないようだから、初級魔法すら使えないだろう。そして、これほどの街を作り出す力を持っているこの世界の人間は、ひょっとしたら勇者たちより手強いかもしれない。

「慢心は足下をすくわれる原因になる。まずは敵を知ることから始めねばならんな」

 だとすれば、この人間の姿は、戦闘能力こそ大きく制限されるが、敵情視察にはもってこいといえるだろう。

「くくくっ。人間どもめ。その高い産業の力にあぐらをかいているな。それらの力もすべて、我ら魔王軍のものとし、貴様らを切り裂く牙としてくれようぞ。はっはっはっ!」

 彼は、やはり気づかない。

 周囲の人々が、高笑いをしながら独り言をつぶやく彼に、奇異の視線を送っているということに。

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