第2話 こうして彼はその世界に降り立った
体に衝撃が走った。
「……!?」
息が止まるかと思った。それと同時、目が覚めた。
「な……な……っ」
何が起きたのか分からない。己は眠っていたのだろうか。眠っていて、おそらく、どこかから落ちたのだろう。
落ちた? 一体どこから。そもそもここはどこだ。
何だ、この知らない天井――部屋は。素早く立ち上がり右肩の大剣に手をかける。すか、と。手が空を切る。最高司令官から賜った愛用の大剣がない。
いや、そもそもだ。
体中に違和感がある。何かがおかしい。立っているというのに、妙に目線が低く感じる。全身を包むこの感触は何だ。
彼は恐る恐る己の体に目を向ける。
「なんだこれは……」
彼は寡黙だ。部下からは慕われ、恐れられ、憧れられているという自負もある。独り言を口にするような習慣はない。それでも、口からそんな言葉が洩れてしまっていた。
ああ、なんということだろう。
身につけているのは、魔王軍謹製の革と鋼鉄のメイルではない。まるで人間の衣服のような、なよなよとした複雑な布だ。
違う。そんなことは些末なことだ。足の先が、丸まっている。それこそまるで、人間の足のようだ。
足の爪は彼の自慢の一つだ。何をも切り裂く強靱な刃でもある。その爪が、丸い。申し訳ばかりの小さく薄い爪は、何を切り裂く前に割れてしまいそうだ。
落ち着かなければなるまい。
落ち着け、落ち着け、と。彼は己に言い聞かせる。
彼はそっと、頭に手をやった。何もない。否、人間の頭髪のような細い体毛はある。しかし、必殺の突進頭突きで何人もの人間を屠ってきた、自慢の角がない。どこを触っても、ない。
落ち着け、落ち着け、落ち着け、と。そろそろ難しくなりつつあったが、彼はもう一度己に言い聞かせた。
まるで人間のような輪郭になってしまった自分の頭をおさえ、目を閉じた。
角はない。爪も丸々としてしまっている。この調子では、間違いなく牙もないだろうし、人間達が恐れた漆黒真紅の瞳だって何色になっているか分からない。
なぜ、己が――魔王軍最高幹部が一人、ゴーダーツが――人間のような風体になっている?
変化の魔法を使っているわけではない。それならば、己の意志で解けるはずだ。魔法的な要素は見当たらない。
今の人間のような姿が、己の姿なのだという確信がある。
混濁する記憶をひとつひとつ整理しようと試みる。混乱する頭は記憶の整理はおろか発掘すらままならない。それでも、少しずつパズルのピースがはまるように、記憶の穴が埋まっていく。
「っ、あ……。そうだ、私は……」
己の最後の記憶が鮮明に浮かぶ。
魔王城に攻め込んできた勇者と戦い、敗れ、そして――
『お願い、死なないで……。ゴーダーツ!』
最後に彼が見たものは、感覚が消えかけた己の手をつかみ、泣きながら、名前を呼んでくれた勇者の顔だ。
「……私は死んだのではないのか」
死んだはずだ。それほどの深手を負ったはずだ。治癒魔術も効かぬであろうほどにダメージを受けた魔族の肉体は、骨も残らず消滅する。彼はあの世界から跡形もなく消滅したはずなのだ。
それがなぜ、こんな奇妙な場所に、こんな奇妙な姿をして、己はここにいる?
これ以上、自身の記憶から得るものはないだろう。彼は周囲を見渡した。
部屋、だろう。しかし彼が見たことのあるどのような部屋とも異なる様相だ。
石造りでも板張りでもないなめらかな壁に、精巧な技法で組み立てられたのであろう幾何学模様の板張りの床。
そして何より異質な、松明ともランプとも異なる、煌々と室内を照らす天井の照明。それは薄っぺらい円盤形をしていて、彼が見たこともないような光量の灯りを放っている。
一体ここはどこなのだろう。何なのだろう。
そして死んだはずの己が、姿を変え、ここにいる理由は何なのだろう。
「私は……――」
――コンコン、と。
「っ……!?」
姿は変われど、彼は元魔王軍最高幹部のひとりだ。板張りのドアから洩れたその音に反応し、瞬時に抜剣の構えを取る。とはいえ、今は背中に愛用の大剣はない。柄を掴もうとした手がむなしく空を切るだけだ。
「……えっと、あの」
「…………」
ドアの向こうから洩れたのは、若い人間の女の声だ。
「音がしたので来てみたのですが、もしかして、“いらっしゃいました”?」
声が何を言っているのか分からない。分からないが、少なくとも敵意がないことだけは明らかだ。
「……ここはどこだろうか?」
彼が声を発すると、ドアの向こうの女は、あからさまに安心したような声をあげた。
「よかった。本当にいらっしゃったんですね。お待ちしていたんですよ。わたしだけじゃありません。
声はまくし立てるように続けた。
「あっ……。でも、ここに来たってことは、向こうでは亡くなったということですよね。喜んじゃいけないのかな……」
「そちらが何を言っているのか皆目分からない。すまないが、ドアを開けてもらっても良いだろうか」
「ドアを開けても大丈夫ですか? 鈴蘭ちゃんが、こっちに来てすぐは裸んぼだったから、あなたもそうだったら困るなって思って開けなかったのですが……」
おずおずと、開けますね、と一声かけられ、外開きのドアがキィと開かれる。彼は不意の攻撃に備え、無手のまま構えを取る。相手がもしも害意を隠していた場合、すぐに対処できるように、相手にドアを開けさせたのだ。
「……ああ、よかった」
しかし。
「姿は変わっても、分かります。あなたはあなたですね。もうこの名を呼んではいけないのかもしれませんが……」
それは、敵意も何も存在しない、ひとりの女だった。人間基準でいえば、おそらく見目麗しいのだろう。彼より幾分か低い上背で、しかし背筋がピンと伸び、表情には確かな意志が宿っているように思える。彼が相対してきた多くの強敵たちと同じような表情だ。その表情が、彼を認めた瞬間、歪んだ。それが人間が泣くときの表情だと気づいたとき、彼の頭に衝撃が走った。
「……また会えて嬉しいです。ゴーダーツ」
――――『お互い生きていたらまた会おう。ゴーダーツ』
「ッ……」
そしてその泣き顔が、重なる。
記憶の奥にちらつく、畏怖、そして憧憬の対象であった上司の表情。
「ま、まさか……そんな、あなたは……」
彼は半信半疑ながら、気づけばその場にひざまずいていた。いつの間にか、それは確信に変わっていた。
感覚が訴えている。目の前の女の正体を。
「無礼をお許しください! 暗黒騎士デザイア様!」
跪き、低く低く頭を垂れ、腹の底から声を絞り出す。
魔王軍最高司令官にして魔族最強の戦士。“暗黒騎士デザイア”。
それが目の前の女なのだと、彼は今さらながら気づいたのだ。
「や、やめてください。わたしはもうデザイアではありません」 対する女性は慌てたような声だ。「顔を上げてください。わたしはひなぎく。
彼は上司の命に従い、顔を上げた。凛とした顔立ちに困り果てたという表情を浮べる目の前の女は、間違いなくかつての上司だ。
「わたしたちは生まれ変わった……とは、少し違うのかな。どうも、新しい運命と未来をもらえたようなのです」
「新しい運命と未来……?」
ふと、目線の端に何かが映る。女性が開け放ったドアの向こうから覗く顔が二つある。
「「あ」」
彼と目が合ったのをバツが悪いと思ったのか、ふたりの人間が姿を現した。片方は細身で華奢な青年、もう片方は病的に肌が白く、目つきの悪い真っ黒な出で立ちをした少女だ。
少女が小さな身体で精一杯胸を張って、口を開いた。
「……ふぅん。ゴーダーツ、あんたもこっちに来ちゃったのね。散々偉そうなこと言ってたのに、ダッサ」
「よく言うよ。ゴーダーツがこっちに来るのをまだかまだかと待ち焦がれていたくせに」
「なっ……」 青年の言葉に、少女の顔が一気に紅潮した。「ばっ、バカなこと言わないでよ! そんなことぜんっぜんないしっ!」
「あらあら」 女が相好を崩す。「鈴蘭ちゃんはあなたがこちらに来るのをずっと待っていたんですよ。まぁ、こちらに来るということは、向こうで死ぬということですから、複雑な心境ではあったようですけど……」
言葉の端々から、少しずつ事態を把握していく。積極的に考えたいことではないが、推察するに、目の前の少女と青年の正体は、彼と同クラスの魔王軍幹部――暗黒騎士デザイア直属の幹部――であろう。
「……貴様ら。ゴトーとダッシューか」
「はぁ? それ以外の誰だっていうのよ」 少女が毒づく。「ま、ゴトーの名は消えて、今は鈴蘭って名前だけどね。
「久しぶりだね、ゴーダーツ。ぼくもすでにダッシューの名を失った。今は
つまり、今この場に、魔王軍の最高司令官と最高幹部三人が勢揃いしたということだ。
「……話は分かりました」
彼は強く手を握る。
「我々は死の間際、人間に擬態したのですね。人間どもへの雪辱を果たすために!」
「へ?」
彼の言葉に女が目を丸くする。
「そういうことならば、このゴーダーツ、この人間の姿も甘んじて受け入れましょう。そして軍勢を増やし、力を蓄えましょう。憎き勇者たちに、今度こそ勝利するために」
「いや、えっと、あの……」
「はっはっはっ、ご心配には及びません、デザイア様。デザイア様と我々魔王軍最高幹部三人がそろえば、勇者など恐るるに足らず、です。今度こそ連中に目に物見せてやりましょう。くくく。はっはっはっ!」
女性が彼の言葉を止めようと口を開くが、もう遅い。彼は悪役よろしく高笑いを始めてしまった。
彼はすべてに得心し、笑う。未だ抜け落ちた記憶があることにも気づかず、笑う。
そして、
「……どうしちゃったの、こいつ? こんなキャラだったっけ?」
「こんなキャラだったんじゃないかな。まだ勇者との戦いの記憶が戻ってないんだろう。魔王城の最終決戦あたりのさ」
「うーん。どうしたものですかねぇ……」
鈴蘭と名乗った少女、シュウと名乗った青年、そして彼が尊敬し絶対的な信頼を向けていたかつての上司、ひなぎくが、それぞれ呆れるような目で己を見ていることにも気づくことはなかった。
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