義眼のレンズ

ネコイル (猫頭鷹と海豚🦉&🐬)

第1話 Chapter 1

 人生は冒険だ、と高らかに宣言していたのは一体誰だったか。

 私は意味もなくそんなことを頭に浮かべていた。もっと目の前に繰り広げられている現状に思考を割くべきだと思っていながら、私の意識はそんな昔聞いた言葉に奪われてしまっていた。

 有名な冒険小説か何かの一説だろうか。それとも友人が放ったさむい台詞だろうか。そのどれもが当てはまらないことを私はほぼ毎日自覚しているのにも関わらず。

 瞳の中から光が遠のいたように感じ、私はその思考の海から吊り上げられた魚のように目の前の現実を直視し、何が起きたのかを把握しようとする。薄暗い部屋の中で唯一の光源となっていたプロジェクターが消え、黒スーツを着た男性が書類を片手に何やら話している。

 何を言っているのだろうか。彼の話をしっかりと理解しなくてはと漠然とした焦燥感に押されてその言葉をとらえようとするが、頭はまるで薄い膜で覆われたうえ水圧に押しつぶされかけているかのようにおもたく全く機能しない。 

 胸のあたりがヒリヒリと苦しみだす。まるで衆人環視のど真ん中でこれから何か辱めを受けようとしているみたいで私はたまらず視線を男から離していた。もしこの時私の頭が今より幾分かはっきりと機能していたのならきっとそこで目にした光景にたまらず声をあげていただろう。それは意図せずにも私をその場で考えうる最悪の事態から救ってくれたとはこの時は思いもしなかった。

 その部屋のなかには私とその男以外にも人間が存在していたのだ。それもざっと数えても三十人ほどはいるだろうか。後ろまで首を回せばより正確な数を把握できたかもしれないが、後ろを振り向いた瞬間何かに飲み込まれてしまう気がして出来なかった。状況を把握するため周囲を観察してみるとこの部屋にいるのは主に男性だが所々に女性の姿もあることがわかる。しかしそれ以上に目を引いたのはそんな男女に身動き一つ取らせないほどの恐怖を感じさせる男たちの視線だった。前で話を続ける男と同様にスーツに身を包んだ男たちはちょうど左右に等間隔ずつ並び私たちを監視しているようだった。まさに釘で胴体を貫かれた蝶のように。

 異様な雰囲気に自然と呼吸が荒くなり、視線はあちらこちらと定まらぬまま移動する。どうしてみなこんな状況にも平然としていられるのだろうか。私はとなりで微光に照らされている男の横顔に疑問の答えを求めて視線を向ける。男は話を聞いているのか聞いていないのか、俯いた状態でしかし目を見開いたまま身動き一つしない。彼の肩があと少しでぶつかりそうなくらい近くにいるにもかかわらず、彼の視線は私のそれとは一向に交わる気配がなかった。それどころか彼の意識自体がまるでどこか遠くへ置き去りにされてしまっているかのように感じる。

 私はたまらず反対側にも視線を送るがこちらもまたほぼ無反応だった。だんだんと私の頭は恐怖から、なにかとても恐ろしいことに巻き込まれていると自覚し始めた。荒くなりつつある呼吸を何とか鎮めようと一旦前の方へ視線を戻すと先程まで何かについて話していた男の姿が消えてそこには横一列に並び、ゆっくりと静かに部屋を出ていく集団の影が現れていた。その足取りはどこかおぼつかないものだったが、まるで部屋の外に求めている何かがあるように一歩一歩確実に進められていた。しかし私にはその意志が、その動きからは切り離されているように思えてならなかった。あれではまさに操り人形だ。

 その瞬間私の体全体を冷たい衝撃がはしる。

 漂う思考から抜け出してから目にしたあらゆる情報と現状を鑑みて、私を含めてこの場にいるほとんどの人間が何らかの方法で意識が混濁した状態にさせられたうえで、どこかへ連れていかれようとしている。

 そして私もまたその先の見えない運命に導かれようとしている。

 その瞬間、私の頭の中から思考は消えただ恐怖から逃げたい、という原初的な感情が支配した。それは脊髄反射による運動で両足全体に力をみなぎらせた。私の体は勢いをそのままに周りの人を避け、どこにあるかも分からない出口を探そうと足を運ぶ。邪魔な人間は誰であろうと押し倒し、薙ぎ払いどんな怪我を負わせてでも出口を見つけ出す。そして、もといた日常に戻る。

 そのはずだった。

 いや、その時の私にはそこまでの算段はなかった。ただ体の意志に従ってここから抜け出したかったのだ。しかし、その私の意志というものは今の体を動かすには

無力でしかなかった。

 立ち上がり一歩足を踏み出した瞬間、私の足はまるで細い針金のようにいとも簡単によじれて体をそのまま地面に打ち付けた。私はあまりの痛みに顔をしかめたが、私の体は硬直したように少しも動くことはなく体表にしびれを伴う痛みを感じさせるのみだった。

 私が動かない体に鞭を打つ間に、スーツ姿の男たちはまるではじめからわかっていたかのように余裕の足取りで私を取り囲むと、挟み込むように両脇に腕を通して私を部屋前方へ連れていく。その表情こそ無表情だが、その心のうちなど簡単に想像がつく。見下すわけでも蔑むわけでもない。ましてや憐れむこともないだろう。彼らに私はただの玩具かそれ以下の何かとして扱われるのだろう。決して抵抗することもできないままなされるがままにその身をもてあそばれる、そんな未来が想像できた。

 きっと彼らは逃げ出そうとした私に何かしらの制裁を加えるのだろう。私はもはや避けられぬその未来に怯えて、さらに体をなんとか動かそうと足に力を籠める。しかし、一向に体が動く気配はない。加えて疲労感により逃げだしたいという意志すらも薄れてきてしまう。逃げ出そうとした私が悪いのだろうか、それともそれが彼らの責務なのだろうか。激しい暴行を受け続けるくらいならいっそ殺してほしい。この場でも手術台の上でもいい。指の爪を一日ずつはがされる日々に比べれば、息ができない苦しみも内臓を抜かれる恐怖もまだましだ。

 私がそうして全てを諦めかけていると、男たちは私を椅子に座らせて後ろへ下がっていった。それとほぼ同時に柔らかくも重い音を立てながら一人誰かが近づいてくるのを感じる。拘束さえされないことに私はもはや戸惑いなど覚える暇もなくただ自身の終わりを実感する。つまり私がこの場から逃げ出すことは不可能で、その人物が私の処分を決定するのだろう。

 男を目の前にして、私の震えるのどはまとまらない思いをまとまらない言葉にして伝えようと、何度も気管を広げたり狭めたりするが出てくるのはかすれた吐息だけだった。

 「ご気分はいかがでしょうか」

 想像もしなかったその優し気な物腰に私はほんの少しの希望を抱きつつ顔を上げる。目の前にいる男はこれから冷徹な指示を与えるようにはとても見えない。

 「少々手荒な方法をとってしまって申し訳ありません。我々としても早急に事を進めなくてはならないため、どうかご理解いただきたいのです。つきましては○○様には.......

 話のできることに安堵したためか急速に意識が遠のき始める。先程まで何とか動かそうと必死になっていたはずの手足の感覚ももはや疲労感と緊張からの開放で骨を抜かれたようにだらんと投げ出されてしまっている。

 そういえばこの話している男の声には少し聞き覚えがある。そうか、先程まで何か説明を行っていた男だ。きっと今もまたそのなにかについての説明をしているのだろう。残念ながら今の私にはその言葉を理解することはおろか認識することさえ難しい。それでも私は彼の機嫌を損ねぬよう、必要ないと思われぬようただ聞いているふりをしながら頭を前後に動かすことしかできなかった。

 「ご理解いただけましたでしょうか。本規定にご同意いただき我々のプロジェクトにご参加いただけるようでありましたら、こちらの書類にサインをお願い致します」

 彼の言葉の終わりに合わせて一枚の用紙を持った男が私の目の前にやって来た。私はぼやける視界の中でなんとかその中身に目を通そうとするが文字どころかその輪郭さえもとらえることができない。

 「ご同意いただけますか」

 彼の優し気な声がまた私の頭の中を侵食する。まるで理解しようとする私自身が悪であり彼こそが正義であるかのように私の思考と行動は完全に彼のご機嫌取りのためにだけあるものに変化していた。

 「は、はい。同意しま、す」

 最後の言葉が出るか出ないかのタイミングで付き添いの男は私の目の前に書類をかざすように見せ、滑らかな動きで私の右手にペンを握らせる。ここまでくればもう指示は必要ないだろうとばかりに彼らはただ私の右手が動くのを待っている。のろのろと震えながら動く私をせかさないでいてくれるだけありがたいことだと思いながら、私はその書類にサインをする。

 「峰山 弘次郎 《みねやま こうじろう》 」

 最後はわざと流すような線を描きつつサインを書き終えた。その書類を受け取ると彼は事務的に私を再び列に並ばせて周りの人間たちと同じように部屋を後にさせた。あの時サインした書類がどういった内容だったのか。あの後どこに連れられなにをさせられたのか、私にはもはや何一つ思い出せない。

 ただ一つ確かなことは、あの日以来私の左目の視力が失われたことだろう。

 

 いや、より正確に言うのであれば、

 私はあの日以来、左目を失ったのだ。

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