最強のウサギ、最強のウズラ

ネコ エレクトゥス

第1話

 家の中で淡々と過ごす今日この頃。なんか自分が定年退職して家で過ごしているかのような錯覚を覚える。老後を過ごすとはこんな感じなのか。まっ、今のうちにそれを知っとくのも悪くはない。ただ自分が家庭生活を営んでいたのなら間違いなくお荷物扱いされそうだ。そして熟年離婚ということにでもなるのだろうか。あまり考えたくない話ではある。

 

 さて、先日は久しぶりにアルブレヒト・デューラーの図版を見ていた。疑う人のない北方ルネサンスの完成者である。中でも僕のお気に入りなのが『若い野兎』、1502年、デューラー30歳頃の作品である。ちなみにイタリアではラファエロが彼とほぼ同時代人にあたるらしい。

 このウサギがすごい。立体の描写として優れているだけではなく、触ったら柔らかさやくすぐったさを感じるような毛の感覚。そして何よりもあの瞳。野生動物にだけ見られるどこか遠くを見ているような視線(僕の知り合いはあの瞳を哲学者のようだ、と言っている)。それを30歳ぐらいでデューラーは描き上げてしまった。

 ご存じの方もいらっしゃると思うが、ルネサンス絵画は中世的な二次元表現から三次元表現へ(遠近法)、その三次元表現にさらに動き、つまり時間の表現を取り入れ四次元的に向かうかという方向で進んでいった。ダヴィンチやミケランジェロも物体の三次元的な表現を極め四次元的な方向に進もうとした。ただ特にミケランジェロの場合顕著なのだが動きを表現しようとするあまり逆に硬さだけが目に付いてしまう。それに対しデューラーのウサギは静止画なのにもかかわらずそこに動きを秘めている。またダヴィンチがデューラーの描いた「哲学者の瞳」を表現できるようになったのは晩年に近くなって、『モナリザ』などを描く時期になってからである。それもデューラーには及ばないやり方で。ではなぜダヴィンチがデューラーに及ばなかったのかというと、ダヴィンチが小技に頼りすぎたからと言えると思う。別な言い方をするなら仏教的な「真如」、あるがままにということができなかったがために策に溺れた、それが晩年近くまで続いたということだと思う。

 このウサギ、世界最強である。ただもし人がデューラーのウサギより「ミッフィー」のほうが最強だ、と言うのであれば……、考えてみましょう。


 ところでこのデューラーのウサギに対応するような動物が中国にいた。そしてそれは名誉なことに日本の所有物となって根津美術館が所蔵している。もちろん国宝に指定されている。李安忠という人の描いた『鶉図』がそれで、正確なことはわからないが唐王朝末期から北宋時代頃の作品だと思う。

 中国古典絵画、山水画で最重要視されたという「気韻生動」という概念があって、気が集まって形を成しそれが今にも動き出すかというところを生き生きと描くことを言うそうであるが、僕らにもおなじみの竜の絵がそれにあたるらしい。ただこちらのウズラもデューラーのウサギと同じで動かない。にもかかわらず動きを含んでいる。そしてあの「哲学者の瞳」。さらに言うなら「気が集まると海になり、気が散ずると霧になる」という山水画の極み、それをもこのウズラは体現している。誠に勝手ながら山水画のすべてがこのウズラに凝縮していると言っていいのではないか。

 こういうことを書いてるとウズラの卵が食べれなくなってくる。でもウズラよ、許してね。


 この両者を通じて思うのは世界を表現したかったらナポレオンや竜を表現するのではなく、小さなもの弱いものを表現する(ファーブル昆虫記のように)ことなのかな、とか考えて過ごしてます。

 

 

 

 

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最強のウサギ、最強のウズラ ネコ エレクトゥス @katsumikun

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