第5話 再会

 この森に入ってからどれだけ時間が経ったのだろう。自分では知りようもない事を気にする。隣の彼女に質問しても分かることはないだろう。が、再びの沈黙が嫌で取り敢えずここに来るまでを語りかけた。


「自分、ここに来る前はいつもの下校中だったんです。担任との長話が終わって、いつも通り、大して中身なんかない会話して」


 彼女は静かに、綺麗な瞳でこちらを見守っていた。


「交差点渡って、電車に乗って帰る。帰ったらゲームするかアニメを見るか、Vtuberのアーカイブ見るとか。またそれで次の日まで繋ぐんだろうなって。そう……思ってた」


 声が震えているのが分かる。喉にぐっと力を入れ、目元からこぼれそうなものを押し留める。


「なのに、気がついたらこんな所で、1人で……。もしかしたら、道端の奴、車から庇おうとしてくれたのかなって思って……もしかしたらアイツも、巻き込まれて死んだんじゃないかって頭をよぎるんです……」


 頭の中がぐちゃぐちゃになって話もよく分からなくなってしまった。

 できる限り考えないようにしてた。友達を自分のせいで巻き込んでしまったんじゃないか、死なせたんじゃないかと。


「ずっと心配してるんです……」

『きっと辛いことがあったんだね。私もいっぱいあるけど、でも泣きたいときぐらい涙は流した方がいいよ』


 何か言われて、背中を摩られた。まるで母親が子を慰めるように。


 情けなくて悲しくて、我慢していた涙が零れた。滴る滴が心の重さを軽くする。また焚き火を見て平静を取り戻さなければと目線を上げた。


 ぼやけた視界に映る心安の灯り。だが視界にはもう一つ映っている何かがあった。


「……何か?」


 ブレザーの裾を濡らして、しっかりと眼を凝らす。

 ——何かは自分達の正面から、暗闇に溶け込みながらひたひたとこちらに迫って来ていた。


 まるで野生の肉食獣のように、対象を見定めた2つの眼が獲物の逃亡を許さない。

 自分の背中に冷や汗が伝う。殺気を感じだことなんて一度もないが、まさに今向けられているものがそうだという確信がある。彼女も怯えて逃げられない。


 ——獣のシルエットがはっきりと浮かび上がる。距離はおよそ15m。4足歩行からずっしりとした重たさが伝わる。グルルゥと唸る獣がまた一歩脚を動かす。

 一瞬でも眼を外せば殺される。隙を見せたら終わりだと本能が激しく訴えてくる。


 奴の姿が、照り返す光源によって露わになる。

 一眼で理解した——これは魔物だ。

 全身が薄い紫色。体毛はなく、顔の皮膚が内側の骨に引っ張られている。大きさは四つん這いで、全高160cmほど、尖った尻尾も含めると全長は約3mはありそうだった。背骨と肩甲骨が異様に突起しており、爪先にはまるで指のような平たい面積がついていた。


 亀のような首と顔の形、肩の、ギョロリとした黄金の眼球がこちらを捕捉している。何の役割か分からないが、額には横長に、大きく黒い穴が1つある。


 肩の瞳はいっそう金色に発光し、虹彩は火元に近づくにつれ黒く丸い瞳孔に変わっていく。


 もう距離は8mほどだ。揃って後退りしているが、こんな霧がかった森の中で獣から逃れるわけがない。敵の巨体では木に登る最中に殺される。


 絶望は目の前に迫ってきた。こちらの呼吸は自然と乱れ、内側から滲み出だす恐怖に冷や汗が止まらなくなる。


 今から死ぬのか……?

 こんな所に訳もわからず、喰われにきたっていうのか?


 この子もそうだっていうのか……?

 餌のように喰いちぎられて、痛みに悶えて苦しみながら、誰に看取られることもなく死ぬのか?


 今までの自分への対応を思い出して強く唇を噛み締めた。

 ……見ず知らずの相手に歩み寄る、そんな彼女に感謝する。

 ここには2人。逃げられる可能性、その方法は——


「時間を稼ぐ」


 ——自分を犠牲にして。


 ♢


 自分が餌になる。獣の注意を引いて彼女からできる限り遠ざける。

 決心したとき、身体から震えが引いた。


「君はここで死んじゃだめだ。奴の注意を引くから、全速力で走って」


 この心の持ち主は、きっとここで死んでいいはずがない。言葉が通じなくてもいい。今は全力でこの子を逃したい。


 彼女の前に盾となる身体を持っていく。

 彼女から驚きの声が出たけど、もう振り向かない。


 途端、獣が身を低くし——飛びかかってきた。

 口を大きく開け、熊の手サイズの前足が振り下ろされる。


 彼女を逃す時間さえ与えてもらえなかった。


 ごめん道端。せっかく軽トラから助けようとしてくれたのに、ここでお前と合流する事になりそうだ。

 大丈夫だ、きっと死んだら友達に会える……。きっと兄さんにも。


 ——ッ。

 寸前。本当に一瞬の出来事だった。

 目の前には鎧の剣士。

 魔物との間に割り込み、剣で前脚を防いでいた。


 ♢


 魔獣を蹴飛ばし距離を取る。


 スラムの女の子に言われて来てみればコレか。

 しかし危なかった。もし見つけるのが少しでも遅れていたら。


 手分けしてる戦士達を呼ぶ前に、必ず次の攻撃が来る。


 両手で剣を握り直す。剣先を前方に向けて構える。


 ——魔獣は咆哮をあげた。

 殺意の塊、額の穴に金の瞳が灯った。

 こちらの懐に入ろうと地を蹴る。


 地面を舞う砂埃が、戦闘に揺れる焚き火の動きが、永遠のように遅く感じた。


 空を切り迫る左の前足——

 構えた剣が斜めに、骨肉を両断する。

 

 ——刀身を横に、できる限り素早く。


 喰らいつこうとする獣顔を、流れるように躱し、這うように、巨体の腹部に滑り込む。


 ——刀身を縦に、皮を断ち臓腑を斬るように。


 覆い被さる獣の腹を、刃先で開いていく。

 同時に脚は右斜めに、敵の右脚に向かって駆け抜ける。


 魔獣は残る前脚で捕らえようとするが、追いくことはない。

 右脚の切断。支えるべき片足脚を失い、勢いのまま地に腹這いになる。


 脚の切断は右腹部から横に、抜け出る瞬間に断った。


 まだ動く四肢を見た。


 柄を強く握り跳躍、這獣の頭に剣を突き立てた。

 刺したそれを左右に抉る。脳との神経を断ち切るように。

 魔獣は口をあんぐりと開けている。

 抜いた剣先に、額の目の黄金色がへばり付いていた。


「ふー……」


 と深く息を吐いた。獣の呼吸はない。


 さてと。


『お迎えに参りました! カナリヤ姫。』


 そして。


「久しぶりだな、日向野!」


 ♢


「お、お前もしかして道端……か?」

『——ミチバタ!』


 え? 今この子から道端って聞こえた?


『お怪我はありませんか? 駄目ですよ、1人でこんな奥にまで』

『違います、私はただ……って私より彼に気を配ってあげて』

『ええ、申し訳ありませんが』


 こちらに顔を向けた。


「よお! 日向野、元気してたか?」

「いや死ぬかと思って覚悟してた。てか2人とも知り合いなのか? しかもお前その格好といい、言葉も……」

「ああ、いろいろあってな。ってかそうじゃなくて! ちょっと待っててくれ」


 そういうと彼女と2人で話した後、先ずは移動しようと告げてきた。

 そりゃそうだな。こんな化け物がいる所は一刻も早く抜け出したい。


 手分けしていたらしい鎧の人達5人も合流してきた。

 自分は道端の馬? の背に、彼女は別の人所にそれぞれ乗馬? した。


「一旦サモナスに戻るから、間違えても落ちんなよー」

「捕まってりゃいいんだろ。分かってる。てかサモナスって?」

「彼女の、カナリヤ・フローテン様の国だよ、さぁ! 捕まってろ!」



 薄暗い森を後にする。森の中は木の根も多いのに、駆け抜ける速度が速く、外の景色が見えて来る。


 遠ざかっていく森林は夕日が差し込み、生み出す陰に包まれている。前を見れば鎧われた彼らに反射する光に、目を細めた。


 ようやくこの目で、人のいる世界に転移したのだと実感するのだった。


 ♢


「お一人で行動するのは流石に控えてほしいのですがね、姫様」


 墓標の場所は柔らかな光がさしており、周りの苔緑が安らかな感覚を抱かせる。神聖というより、寄り添うようなイメージが似合う空間だった。

 先程の、人の密集した空間とは一転して、3人いるだけだった。2人は左手に、もう1人は、白く光沢のある、おそらく墓石であろう半楕円型の前に、頭巾を被りこちらに背を向けて座っていた。


「あら、今日はここに来るって言ってなかったかしら?」


 膝を立てて立ち上がり、右から振り返った。

 碧色の瞳が印象的な女性。頭巾を取りながら質問した。


「隣の男性が貴方の言ってる英雄様?」

「そうです」

「お初にお目にかかります。この度、特使殿の召喚に応じ参上致しました、シャロンと申します」

「あら、私から名乗るつもりでしたのに」


 ふんわりとした光が、彼女の薄い金の髪を、より優しくしている。

 上下繋がった服のスカート部分を軽く摘み、持ち上げてこう告げた。


「はじめまして、シャロン様。私はカナリヤ。カナリヤ・ヴァン・フローテン。サモナス国の正統なる女王です」


 墓石から吹く風に彼女の服が揺れる。暖かくも何処かひんやりとした熱があった。


 召喚された初日、私はこの世界の未来を受け持ったのだとやっと気がついたのだった。

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