第1話 part5

 それから数時間が経ったろうか。すっかりと夜の更けた窓の外には夜の闇が広がり、それはまるで、今の状況に置かれたティオバルトの心象のようであった。


 そう、この闇のように自分の目の前が見えない。一体どうすればよいのだろうか。思考は深く、深く沈んでゆく。


 その時、大きな物音が聞こえてきた。更に、複数の人間らしき音も耳に入ってくる。ただ事でないことを予感したティオバルトは護身用の剣を携え、気配を気取られぬよう静かに廊下へと出た。

 音のする方へと向かうと、物音は段々と人の話声と変わっていく。未だ内容はわからぬが、低い男の声が複数、何かを隠すような口調で交わされているようだ。


 足を止める。その会話とは別の、誰かの足音が右前方からゆっくりと近づいてくる。一歩一歩が重みのある、殺気を含んだような足音。自然と呼吸を気づかれぬように落ち着かせる。足音はゆっくりと近づき、廊下の交わる所で歩を止めた。


「そこにいるのは誰だ!」


 足音の主は突然こちらに向かって声を発した。途端、先程の会話はぴたりと止まり、複数の人間がその場を立ち去るような音へと変わる。


 ティオバルトの胸の内に失敗の焦りが渦巻き始める。だが、今はそれを押し殺して相手の出方を待つことしか出来なかった。

 すると目の前に程よく筋肉をつけた体躯の男が立った。片手には明かり、もう一方の片手には使い込まれた感のある斧が握られていた。


「その格好を見るに教会の偉い奴かい? 見られたからには生かしちゃおけねえ。ぶっ殺して、死体をばらさなきゃなあ!」


 そういうと、男は斧を振り上げて勢い良く襲いかかってきた。対して、ティオバルトは冷静に剣を引き抜き構えていた。目の前で斧が振り下ろされると同時に身をかわし、肘を男の脇腹へと打ち込んだ。

 男はひるみ、身を崩したところに背を柄で思い切り殴り、動きが取れなくなった所に手近なもので手足を縛った。


 この男と対峙した際に急ぐような足音が聞こえた。おそらく他の者は皆逃げたのだろう。ならば、今は目の前にいる男から情報を聞き出すべきか。


 その時、あざける様な笑いが男の方から聞こえてきた。


「へ、へへへ、もう遅いさ。もうじきこの世は終わるんだ。かの偉大なる悪魔のお力でこの世は終焉の炎で幕を下ろされるのさ」


 外見から想像できぬ言葉を吐きながら男は可能な限り首をひねり、にやついた笑いをこちらに向けた。


「何を言っている? お前達は何をしようとしているんだ?」


 その瞳に夢心地の様な色を浮かべながら更に言葉を続ける。


「これは俺達を虐げ続けた協会への復讐なのさ。そのためにあの神父は生け贄になる。今から追いかけてももう何もかも遅いぞ!」


 ティオバルトはそこで剣の柄で男を殴り、気絶させた。


「そうだ。シスター・クラリアは!?」


 協会のシスターの部屋は大体決まっているだろう。ティオバルトはそれとなくあたりをつけながら、クラリアの姿を探し始めた。


 だが、彼女の姿を見つけることはできなかった。見つかったものといえば、彼女の私室らしき部屋にあったおびただしい血の海だけであった。




 私は悪夢の世界にでも迷い込んだのだろうか。教会で数人の男達に気絶させられ、やがて聞こえてきた騒がしさに意識を取り戻すと見たことのない場所にいた。

 そこは洞窟らしき日の当たらぬ、それでいて広大な場所であった。そこでは衣服を纏わぬ男女がある者は太鼓のような楽器を叩き、ある者は狂ったように奇声を上げながらこれまた奇天烈な踊りを踊っている。

 楽器の者達は一ヶ所に集い太鼓を打ち鳴らし続け、踊る者達は彼らを囲むように輪を作り、何かに休むことなく騒ぎながら踊り続けた。


 私はその中で、彼らの輪の中心で十字架に両手足を括りつけられていた。

 周囲の不気味な笑みを浮かべる彼らを見て、私は彼らがはたして同じ人間なのかとおぞましさに背筋が寒くなった。


 その集団の中から一人の男が私の下に歩み寄ってくる。同時に先ほどまでの喧噪もどこかへと消えていった。その男が発する言葉を今か今かと待ち続けるかのように。

 完全に静まるのを待ってから男は口を開き、目の前に群がる者どもに向かい声を高らかにして演説をし始めた。


「ついにこの時が来た! 神の威光を笠に自分達以外の者を虐げ続ける腐れた教会の力は今日、この時より、我等によって遂に潰えるのだ!」


 その言葉で鼓舞されたかのように周りの者達は一層熱が高まる。男はその反応に満足げな笑みを浮かべながら、演説を続ける。


「思えば長い道のりであった。私腹を肥やす教会を打倒すべく結集した我々であったが、待っていたのは苦難の絶えぬ日々であった。何度も教会とそれに支配された愚かな民衆に否定され、迫害され、駆逐され続けてきた。その中でも今日まで絶え抜いた者もいれば、志半ばで命を散らした者もいた。そして、犠牲を出しながらも闘い続けた我等は遂にある真理に辿り着いたのだ! 教会の謳う人々を導く神は偽りであり、真に導く存在が他にいることを!」


「イブリム!」


 突然誰かが野太い声でそう叫んだ。すると、それに感化されたのか別の所からも同じ言葉を叫び始めた。やがて、辺り一帯には「イブリム」の大合唱が沸き起こる。


「そう、イブリムだ! かつて人間に宣戦布告をし、大量の手下を引き連れて教会の者達を葬ったかの強大な悪魔! 我々はイブリムによってこの腐った世に幕を下ろし、新たな、真に完成された世界へと導かれるのだ!」


 周囲の熱が頂点に達し、歓声が巻き起こる。


 その様子に恍惚の表情を浮かべる男の顔を見て、私の中にある記憶が蘇った。周りに対して演劇をするかのような言動をとる男を、私は一人知っている。


「あ、あなたはまさか、デュドネさん、ですか?」


 瞬間、まるでこちらが気付くことを待ちわびていたかの様に嬉しそうな、それでいて邪悪を感じさせる深い笑みが男の顔中に広がった。


「おお、ようやく気付かれたか! 罪深き神父よ! 貴方とはアミュレの町以来ですな! 私は目をつむれば今でも貴方の所行が頭に浮かび上がりますぞ!」


 私は解らなかった。彼が一体何を語っているのかを理解することができず、それ故に私は問うた。


「何を… 何を言っているのですか? 私の所行とは一体?」


「…解らぬと? まさかとは思うが忘れたというのか」


 デュドネは喉の奥から低い笑い声を上げた。それは次第に高くなり、やがて狂ったような声音となって辺りにこだまする。


 が、それは突如激昂へと変貌し、彼はいきなりこちらの喉を掴み吠えた。


「ふざけるな貴様! 貴様のせいで私達一家がどうなったと思っている!? あの日受けた悲しみ、それを貴様は忘れたなどと愚弄し、あざ笑うといのかあ!!」


 その間に息ができなくなり白くなりかけた頭で私は彼の怒声を聞いた。やがて、彼は手を放し、やや落ち着きを取り戻した様子で再び口を開いた。


「……だが、貴様に裁きを与えるのは私ではない。貴様を下すのにはもっと相応しいお方がいるのだ」


 デュドネが指を鳴らすと、背後の列が割れ、その間を数人の男が何かを担ぎながらこちらへと歩を進めた。最初その四角い形から箱を想像したが、近づくにつれ、それはりっぱにこしらえた椅子を取り付けた輿だということに気付いた。


 そして、咳き込み、呼吸を再開させながら私は見る。椅子に腰掛ける者を。


 果たしてそこには衣服をはぎ取られ、体中を無惨に切り刻まれたクラリアの死体であった。





 何故だ、どうして彼女が。

 脳裏に様々な疑問が浮かび上がり、しかしどれとて解決に至らずに沈んでいく。


 デュドネが私に近寄り、元の調子の声で耳元に囁いた。


「貴方のせいなのですよ」


 私はその言葉に思わず振り向いて彼の顔を見る。


「貴方がいなければこの様な事にはならなかったのです。貴方が神職についたのがいけなかったのです。貴方が町や村の教会に赴任しなければ良かったのです。全ての原因は貴方のせい。貴方が諸悪の根源であり、他人の不幸へと陥れる災厄そのものなのですよ」


「わ、私は……」


 言葉が出なかった。何を言えばこの者が聞き入れるのか、どんな言葉を掛ければ納得を得られるのか、何が正しくてどれが違うのか。私は判断が出来なくなっていた。


 それでも言わねばならない。事態が好転するのを祈りながら。


「頼む。聞いてくれ。私は、私は違うんだ」


 だが、彼らが出した答えは更なる拒絶であった。


 人影が増える。デュドネ以外にも周囲の輪から私の方へ幾人かが近付いてくる。


 ああ! あれに見えるはサイ・ブラムス!

 そちらから近付くはハイディア・ケイネ!

 そこにいるフォンディニウ・イサメラよ! 何故その様な目で私を見るか!


「み、皆さん! 村を去ったのに、一体何故この場所にいるんですか!?」


 誰も答えない。言葉の代わりに私に届くのは彼らの軽蔑の眼差しだけである。今まで見たことのない彼らの様子が恐ろしく、それを払拭したくて私は懸命に話題を振ろうとした。


 そのために思考を巡らせる中、私はある事に気付いた。


「そ、そうだ! ブラムスさん、貴方の奥さんは?! イサメラさんもです! ご家族をよそにこの様な事は止めてください! お願いします!」


 実に愚かな問いかけであった。よく考えてみれば、もう彼らはその様な言葉さえも届かぬだろうに。


 彼らの中ブラムスが、答えを示すように私の方へ顎で示した。


 それにつられ、おそるおそる振り向けば、果たして彼女達がいた。クラリアのために開けられた道と対比するかのように私の後ろには人の群れが割れ、その奥には木の柱と縄によって何人かが吊るされていた。左右の腕それぞれを縄で縛り、縄のもう片方を柱に巻き付ける事で宙に留められていた。

 女性特有の体格を持ったそれらはある者は手足に比べ異常に腹の膨れた者や、足下に本人とは別の肉の塊じみたものを撒いている者がいた。




 何が行われたのかは解らない。だが、その光景により、私の体に明らかな拒絶反応が起きた。意識よりも先に体が絶えかね、内からこみ上げてくるモノを私はその場に吐き出した。


 そんな私にブラムス達が近寄ってくる。内二人がある程度落ち着いてきた私の足の拘束を解き、十字架を背負う様に立つ私を彼女等の方へ歩く様に小突いた。


「さあ始めよう! 我等の悲願を果たすために! その身を犠牲にした我等の偉大なる巫女の願いを我等は遂に叶えるのだ!」


 デュドネのその言葉を合図に、周囲が動き出す。クラリアをのせた輿を先頭にデュドネ、次いで取り押さえたまま私と残りの三人が屍達の方へと歩き出した。


 連行され歩く度にあのおぞましい光景が近付いてくる。先ほどから考えることを止め始めていた私は、もはやされるがままであった。


 到着するとまず、輿を担いでいた者達が連携をとりながら屍がクラリアの背後になるように回り、静かにその場へ輿を下ろした。それを待ったデュドネは彼らを下がらせ、入れ替わるようにブラムス達を向かわせる。

 するとブラムス達は、各々の妻の死体の下腹部や股を接吻し、舌を這わせ始める。既に事切れているにも関わらず男女の絡みを行い続ける彼らを、私は拘束されていないにも関わらずただ見続けていた。


 すると一つの異変が起きた。ここに連れられている時からずっと周囲の邪教徒が再び楽器や叫び声で騒いでいるのだが、その中に混じってクラリアの死体がある方から獣の様なうなり声が聞こえてきたのだ。

 その音は、ブラムス達の行為が激しくなるに連れ、徐々に大きくなっていく。


「おお」


 デュドネが感嘆の吐息を漏らす。


「イブリムが、イブリムがすぐそこまで来ている……」


 そして声を上げて喜び始めた。


「ああ、来たれイブリムよ! その力を今こそ取り戻し、世に再び闇をもたらしたまえ!!」


 呼応するかのように、音はいよいよ大きくなり絶叫の域へと達し始める。更に死んだ筈のクラリアの身体が小刻みに震えだし、それは段々と激しくなった。

 やがて、その身体にも異変が生じ始め、まるで疫病に掛かったかの様に腕や首回りに出来物が出来始める。

 始めはどれも小さかったものの、その小さな出来物同士が結合し合い拳大の腫れ物ぐらいに成長し、その表面はまるで人の顔の様であった。


 ふと、辺りに響くうなり声にも変化が生じていることに気付いた。先程までは獣の様であった声は、今では人の声へと変化しているのだ。

 それも一人の声ではなく、老若男女ありとあらゆる声は重なり合い、周りで騒ぐ者達とは明らかに聞き分けられる程の色合いを帯びてその存在を主張する。

 そして、その声を発するは己だと主張するかの様にクラリアの体中に出来た腫れ物の顔が一斉に口を開き、ある顔は泣き、別の顔は怒りの表情をとる。様々な負の感情を浮かべるそれらはやがて血の涙を流し始め、更には各々の口からも大量の血を吐き始めた。

 血は勢い良く辺り一面へと飛び散り、その付近にいたブラムス達及びクラリアへと近付いていたデュドネに盛大に降り注いだ。

 

 すると、どうしたことだろうか。あれ程までに死体に絡んでいたブラムス達が行為を止めてその場にうずくまったではないか。彼らに何が起きているのか。その手前にいるデュドネが答えを示していた。

 彼の体にはクラリアからの血がべっとりと着き、赤と僅かな黒に完全に染まっていた。やがて体中から血の様な赤黒い体液が噴出し始めたかと思えば、引きずられるかの様に彼の体が崩壊を起こした。引きずられるかの様に肉が体液に流れて地に落ちていき、臓物が溢れ出し、しまいには骨格さえも崩れてゆきそこには人間一人分の血溜まりと肉の山だけとなった。


 肉塊となったデュドネ達を目の当たりにしたことで、思考が停止していた私の頭が再び活動をし始めた。僅かに発生した恐怖が瞬く間に無の感情を喰い、侵食し、私の全てを支配した。



 私は真の意味で恐怖したのだ。



 十字架を背負っているにも関わらず、自分でも信じられない力強さで私はその光景を背に逃げ出した。



 私は走り続けた。逃走へと駆り立てるのはデュドネ達の死に対するおぞましさか、それとも異形へと成り果てたクラリアに対する恐ろしさなのかは分からない。

 周囲であれ程騒いでいた邪教徒達もデュドネ達の様な身体の崩壊が起こり、大勢の阿鼻叫喚の中で私はこの地獄の出口を求めた。


 邪教達の群れの中を走り、群れの中を抜け出た私は見知らぬ洞窟の中を本能に従うままに駆け抜ける。道が二股に分かれていれば直感で左を進み、わき水等のすべる足場でこけても決して前進を止めることなどしなかった。足が本当に出口に向かっているかという疑問は湧かず、頭の中には出口に達することができる根拠の無い希望しか存在しない。


 幾度目かの曲がり道を過ぎたところで疲労による体の限界を感じ、私は一度呼吸を整えながら立ち止まった。


 随分と走ったのかあの叫喚は聞こえない。背後を振り返れば、追う者どころか人の気配さえも感じず、私はようやく心に安堵を浮かべる事ができたかに思えた。


 気配を感じもしなかった後方から助けを求めるような、うめく様な声が聞こえてきたのだ。

 あの地獄から生き延びた者が私の他にもいたのか。私は仲間を得る事のできる希望を僅かに浮かべ、その者が来るのを待つことにした。


 足を怪我でもしているのだろうか。聞こえる声がはっきりとしだした辺りから物を引きずる様なずる、ずる、とした鈍い音が声と共に大きくなっていく。

 その音に違和感を感じ始めたのはどこからであったろうか。聞けば聞く程にその音は足を引きずっただけでは足りぬ程の質量感のある音であり、それはまるで人一人の体を引きずっているかの様であった。

 だが、引きずるにしても違和感がある。この洞窟内において、引きずる物音の前に必ず足音が生じるはずだからだ。

 事実、ここまで逃げる中私は自身が発する足音が洞窟内に反響するのを耳にしていた。ならば、物を引きずっているのではなく、一人の人間が這ってこちらへと向かっているのだろうか。馬鹿な、と私は頭を振る。あの中から這って来たとでもいうのだろうか、それこそ有り得ないだろう。


 では一体何が迫っているのだろうか。その疑問に応えるべくこちらへとたどり着いた異形がその身を表し、私は声に鳴らない悲鳴を上げた。


 そこにいたのは人ではなく、デュドネ達の様な肉塊があった。血を滴らせているのか表面の肉は洞窟内の微かな光を反射し、その肉に幾つか人の骨が埋まり、表面を覗かせている。


 訳が分からなく呆けていると、有り得ない事にその肉塊が動き出した。上へ伸びる様に全体が盛り上がり、その動きに連動して埋まっていた骨達も上へと移動しながら地面に対して垂直の向きをとっていく。

 まるで肉塊に対して襟巻きとなるように互いに均一の距離を取り、周りを囲むと、その骨達の中心すなわち肉塊の頂点が変形し、人間の頭部の形をとり、同時に骨が花弁の様に展開した。

 皮を向いた様な生々しさをさらけ出すその顔はどういう訳か少女のものを象っていた。


 揺らいでいく。私の精神が揺らいでいく。目の前の少女の顔をした人外を目にし、私自身の根幹を揺らす様な、忌むべき記憶が蘇ってくる。

 血の赤で染まった光景、倒れて動かなくなった大切な人、その傍らにて大切な人の肉を咀嚼し続けるもう一人の、私にとっては掛け替えの無いはずだった、愛おしくて仕方の無い筈だった、大切な、大切な私の……


「——————————————!!!!!」


 私は絶叫した。喉を破らんとする程の大きな叫び、誰かに発見されるかも知れない疑念でさえもどうでもいい。今は只、この記憶の底から浮上したかつての光景を消したくて私は叫びを上げ続けた。


 その叫びに引き寄せられたのか、気が付けば私の周りには多くの肉塊の化け物達が私を囲むようにして集まっていた。先程の少女と同様の姿形をとった異形どもはみな人間が嘔吐した際に発せられる様な不快な声を私に発しながら鈍重な動きで徐々に、だが確かに私へと迫りつつあった。


 その光景は昼間見た夢とそっくりだった。夢の中の化け物達と姿は違えど、人間が溶けたような様だけは同じである。後じさりながら私はあの夢を思い出す。夢の中でも私は逃げた。逃げて逃げて動かなるまで逃げ続けようとした。しかし、結局は逃げ切れず、最後にはその時最も恐れていた者に捕まってしまった。


 咆哮が響き渡る。まるで夢の続きを告げるかの様に。


 若い女の声と野太い男の声が複数合わさった絶叫であり、その声色たるや悪夢を声にて表した様であった。



 幾多の肉塊の後ろから咆哮と共に近付いて来る存在、それに気圧されたかの様に肉塊達が道をあけると、そこには変わり果てた彼女がいた。



 暗闇に浮かび上がる彼女の手足には例の出来物が所狭しと出現し、合体し合い、まるで成人男性の筋肉のようになっていた。

 対して胴体にはさほどの干渉はされておらず、血管は全て浮き出ているものの、女性特有である艶やかな形が残っている。左右に引き延ばされた様な顔達が斜めに交差する様に覆っている腹部を除けば。


 体中にあるどの顔も口から勢いよく血を噴出させ、それは霧となり、ベールの様に醜い身体を覆う。そして、その身体を持つ彼女の顔は、こちらに近付く度に徐々に、その容貌を表していく。


 その顔は面の様であった。身体に比べて顔は蝋の様に白く滑らかな表面をしており、身体に比べそこだけ生前の綺麗さを保っているかのようだ。だが、代わりというように彼女の口が耳の近くまで裂けており、口の間から僅かに唾液をしたたらせていた。


 その口を笑みの形に歪めながら、彼女は悠然とこちらへ歩み寄ってくる。それはまるで追いつめた獲物に止めをさすべく近付いているかの様に見え、周り全てが化け物に囲まれていようが私は無意識に後ろへ下がった。


 私は下がる。彼女から遠ざかるために、彼女達との過去から遠ざかるために。


 その時、脳裏に浮かび上がるのは彼女達と過ごした日々だった。私は各地を廻る神父であったため、新しい教会に着く度にそこのシスター達と一緒に働いていた。初めは他人同士でぎこちなかったが、段々と親しくなり、やがて絆が芽生えていった。

 だが、私は次第に怖くなった。彼女達の様な若い娘と絆が芽生えていくのが怖くなっていったのだ。彼女達の様な絆を持つ者が、何時かまた私の前で絶望を繰り広げるのではないのかと私は気が気で無らなくなっていったのだ。


 だから、だから私は、彼女達をその都度この手で殺していった。かつての光景を二度と見ぬために、かつての絶望に二度と襲われぬに、私は彼女達を手に掛けてきたのだ。


 罪の意識はあった。彼女達を殺してしまった後は、己の仕出かした事にいつも恐れた。だが、私には自らを罰する程の勇気が無かった。だから私は逃げた。事実を隠蔽し、私を知らぬ土地へと裁きを逃れるために旅立った。


 だが、他の土地へ行ったところで私自信は変わらなかった。逃げた先でも私は事ある毎に殺しを行ったのだ。


「仕方が、仕方がなかったんだ! 私はあれから、あいつから逃れる事ができなかったんだから!」


 気付けば私は懺悔を始めていた。こちらへ確実に近付いてくるあれが私の言葉に耳を傾けてくれるのかもわからない。


 だが、もはや私にそれ以外にとるべき道はなかった。彼女、クラリアの身体を借り、かつその原型を全く無視して己が形を現出させた者へとひたすらに懺悔をし続ける他はなかった。


 恐怖がやってくる。

 彼我の距離はすでに十歩を切ろうか。それは片腕を私へ向け手をゆっくりと開き、私の頭へと狙いを定めた。


「ああ、イブリム… やはりお前は私を逃しはしないのか…」


 それが私の最後の言葉となった。

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