第2話 前半

どこまでも続く暗闇。走り続ける少女は息も絶え絶えだが、それでも必死になって走る足を動かし続けていた。


どうしてこうなってしまったのだろう。


深い後悔と絶望で思考が停止しそうになるが、今は一歩でも遠く、あいつから離れた所へ向かわなければいけない。


死の恐怖が迫っているのは明白であった。立ち止まった瞬間に恐るべき事態が自分に襲い掛かってくるという予感が休みを与えなかったのである。


しかし、非力な彼女の体力は底を尽きようとしていた。無理もない、この状況に陥ってしまえば誰もがそうなるだろう。


とりあえず体を休めるためにも物陰に身を隠し、息を潜めて様子を伺うことにした。


5分、10分経っただろうか。隠れてから訪れた静寂を破る者は現れない。


上手く煙に巻く事ができたのだろうか。いや、そんなはずはない。もしそうだとすれば自分はとっくに外に出て、誰かに助けを求めることができたはずだ。


そもそもここは何なんだろう。この建物を訪れてから行けども行けども不気味な通路が続いているではないか。どんなに走り続けても建物の外に解放される事は決してなかった。


「帰りたい… お父さん、お母さんに会いたい…」


思わず口からこぼれた言葉、それは紛れもない本心だった。


だが、救う者は現れず。少女を嘲笑うかのようにどこからか赤子の泣き声が聞こえてくる。


恐れていたかのように身をすくませ、辺りを不安げに見渡すが、誰もいない。


気のせいかと思ったその瞬間、自分の足首を男の手が力強く握りしめる感触が伝わった。驚いて足元を見ると地面から腕が生えて足を捕縛している。


己の耳をつんざくかの様な絶叫を上げると、腕が生えた箇所からあの邪悪な存在が出現した。


彼女の意識はここで途絶えた。




「またあの夢…」


ミラはふと、目を覚ました。カーテンの隙間から光が零れる。


夜も開けて、朝が訪れた。気だるい体を起こし、カーテンを開けて窓の外を眺める。


朝の柔らかい日差しが街を照らし、街が活動するための活を入れている所であった。


道を見れば人の数はまばらで、様々な人の顔が一日の始まりを物語っている。


空を見上げる。雲の数は少なく、気持ちの良い晴れ模様が先程までの憂鬱な気持ちを吹き飛ばしていた。その爽やかな気持ちでミラは朝ごはんを食べようと、両親の待つテーブルへと向かうことにした。


窓から見える人々は様々だ。行商人、下働きに向かう奉公人、散歩を楽しむ老人の姿もあるが、一番目を引くのはローブ姿だろう。脇に本を抱える者、背中に様々な道具や材料を背負う者、その誰もが顔に知性を感じさせ、内に宿る野心を表にさらけ出している。


この街の名はエルデュイス。四方を高壁で囲まれた大陸の西に位置する城塞都市で、錬金術でその名をとどろかせている学問の街である。




家を出て、学び舎へと向かう道。ミラは軽い溜息を吐いて夢の事をぼんやりと思い出していた。


もうかれこれ2週間以上は経っただろうか。いつも同じ夢を見る。


自分は柔らかい光の空間にいて、その心地良さに長く浸っているとどこからか自分を呼ぶような声が聞こえてくる。声の主を追いかけて周囲を見回すが、姿形は現れない。諦めようと思ったその時、目の前に自分と同い年くらいの可愛らしい容姿の少女が立っている。その子は口を開いて何かを伝えようとしているが、いつもそこで目が覚めてしまう。


いったいあの子は誰なんだろう、私に何を言いたいんだろう等と考えながら歩みをすすめる。


両親にも何度か話してはいるが、その度に気にするなと言って多くは聞いてくれない。なので、今日はその事を話さず、とりとめのない会話で家を後にしてしまった。


ふと、道端の柱に目を動かす。もう見慣れた光景であるが、目にする度に不気味さを感じずにはいられない。どの柱にも表面を覆いつくすかのように紙が打ち付けられ、そのどれもが似顔絵と同じ様な文章が書かれている。


この子の行方をしりませんか。名前は○○。知っている方は××通りの□□の家まで。


最近この街で頻発している子供や若者の行方不明事件。確か一ヶ月以上は続いていただろうか。おかげで街のあちこちに衛兵が出歩き、頻繁に道行く人に聞き込みをしている。

憂鬱な気持ちに襲われたが、背後からの声で切り替わった。


「おはようミラ。何よ暗い顔しちゃって」


「なんだなんだ。恋の悩みか。だったら俺が聞いてやるよ」


クラリスとジャックだった。二人はミラと同じ学び舎の生徒で友人であり、仲の良いカップルだった。


「ぜーんぜん。ちょっとあんた達にどんな嫌味を言ってやろうか考えてただけ」


強がりを見せて、わざとらしく手を大振りすると、人にぶつかった。


「ちょっと、気を付けてなさいよ」とクラリスが注意する。


目を見やると、青年が立っていた。教会の人だろうか。金髪碧眼の整った顔立ちに、教会関係を思わせるサーコートに手足には鎧を纏っている。


大変な事をしてしまった。背筋の凍る思いで平謝りすると、彼は優しい口調で「失礼、お怪我はありませんか?お嬢さん」と微笑んでいた。


「大丈夫です。ありがとうございます。」と伝えると、彼はそのまま人混みの中へと消えていった。


「びっくりしたー!駄目よ!教会の人とぶつかるなんて!何かあったかもしれないのよ⁉」


「見たか?手足の鎧。あいつやばそうだったぜ」


二人があーだこーだ言っているが、ミラの耳には入ってこなかった。あの青年の雰囲気が今朝見た夢と関係があるような、そんな何の確証もない事を考えていたのである。


「そうだ!そう言えばアンナの所へ行かなくちゃね。あの子ずっとふさぎ込んでいるみたいだから外へ連れ出してあげなきゃ」


アンナは友人の一人だ。おとなしいが優しい性格で、それなりに友達もいる。


しかし、その友達の内の一人(ミラの知らない子だが)が行方不明になっており、しょっちゅう悩んでいる様子が見られる。


クラリスの提案に賛成し、ミラ達はアンナの家を訪れた。アンナの母親はどこか安堵した様子で彼女を呼びに行き、しばらくすると身支度を整えたアンナが出てきた。


「アンナ大丈夫?お節介かもしれないけど一緒に学び舎にいきましょ。家にいても暗くなっちゃうだけでしょ?」


クラリスが尋ねると、アンナは頷き、口を開いた。


「ありがとう。そうね、せっかくだからお言葉にあまえるわ」


「ジーナまだ見つからないの?」


「うん。衛兵さん達も一生懸命さがしているみたいだけど手掛かりもつかめないんだって。大丈夫だって何度も思っているんだけど、もしかしたらって考えると… それが怖くて…」


「クラリス、その話は止そうぜ。それよりも今度の休日の話をしないか?」


「休日?」とアンナは尋ねると、クラリスは大きな仕草をして、声を張り上げた。


「そう!そうなの!あのねアンナ、もし良かったら今度私の家でパーティーをしない?私達とアンナの友達を呼んでさ。思えばアンナの知り合いって私あまり知らないのよね。だからこの機会にもっと交友関係を広めようと思ったの。アンナが良ければだけど…」


アンナは嬉しそうに頷いた。


「嬉しいわ。そうね、たまにはそういう事をしようかしら。」


クラリスはやった、という顔をした。


「それじゃあ学び舎に行きましょう、遅刻しちゃう。詳細は休み時間にでも話し合いましょう」


そしてミラ達は急ぎ足で学び舎へと向かった。


学び舎というのは錬金術の教育施設だ。この街を牛耳る錬金術師が開いたもので、街の発展のため、錬金術の将来を明るくするためにと今では中流家庭以上の、多くの子供達が通っている。学び舎は街の中心に位置し、ミラにとっては遠い距離を歩かねばならなかった。




人混みをかき分けながらティオバルトは歩いていた。先程ぶつかった少女の事を思い出していたが、やらなければならない事へと頭を切り替える。


思えばバスタ村の事件から2ヶ月が経とうとしているか。あの変わり果てた神父は教会が引き取り、今はどうなっているか分からない。その後処理で長く時間が掛かってしまい、落ち着いた頃には季節が春から夏へと変わろうとしている。


ヴァレリヤが言っていたかの人物。彼とようやく会う機会を得たのだ。


「ここか」


足を止めて建物を見上げる。そこは街の中心に位置する大きな工房だった。


アウル・アルハザーダル。錬金術師で、世間にその名を知られてから類稀なる才能でみるみる頭角を現し、今ではこのエルデュイスで錬金術師達のコミュニティを牛耳っているという。


一方で教育にも力を入れており、子供達に向けた教育施設の設立や各種のバックアップなど、錬金術に憧れる者達には聖人とも思えるような振る舞いをしている。


しかし、大人達の一部では良くない噂をしている者もいる。曰く、夜な夜な工房から奇妙な音がするだの、夜遅くの人気の無い場所で何やらよく分からぬ行動をとっているだの、人によっては悪魔を崇拝していると話す者もいる。


緊張と共に扉をノックすると、しばらくして若い男が扉を開けた。まだ年幾ばくも無い少年で無愛想な顔で尋ねてきた。


要件を話すと、少し考える素振りを見せた後、静かに案内した。


錬金術師の住処とはこの様な者か、とティオバルトは舌を巻く思いがした。部屋の扉の隙間から覗くと見当もつかない装置や器具があり、様々な材料が乱雑に積まれた部屋もあった。


少年がここだと、とある部屋の扉を開けると、革や金属の香りが鼻を付いた。武具屋の様な匂いを充満させた部屋の中央になにやら作業に没頭する男の背中が見えた。


「アウル。お客さんだ」


少年がぶっきらぼうに言うと、男の背中が答えた。


「ご苦労さん、ルイン。ここは良いから作業に戻ってくれ」


ふり見向いた男の顔にティオバルトは驚きを隠せなかった。街を牛耳っているというから厳格な、あるいは不遜な感じかと思っていたが、噂の本人は快活そうな自分より少し上の感じがする若い男だった。


「は、初めまして。ティオバルトと申します。貴方がアルハザーダルさんでしょうか?」


「そうさ、錬金術に現を抜かす、ただのいかれポンチさ」


本人の様子にも驚いたが、ティオバルトはふと、後ろの物体が気になった。製作途中の鎧に見えるが、板金の隙間のあちこちから機械部品が見てとれる。


視線に気づいたのか、アウルが自分から説明を始めた。


「それは今はやりの審問の鎧さ」


審問の鎧。聞いたことがある。昨今各地で増え続ける邪教徒に対抗するために教会が錬金術師達に制作させている特別な甲冑であり、邪教徒にとっては過多とも感じられる防御力を誇る。極め付きは各々の錬金術師が設けた拷問具の機能であり、鎧の一部を拷問具に変形させることで、大掛かりな裁判を行わなくてもその場で審問を行い、場合によっては火刑に処すことも可能である。これを可能とするのが教会に所属する術者が炎の魔術を持たせた極秘の部品が組み込まれているとか。


「今じゃ、どこの錬金術師も作っていてな。研究するための必要条件だとも言われてる」


それは権威を持つこの男にとっても例外ではないらしい。ひょっとするとだからこそとも考えられる。


「まあ立ち話もなんだ。一度腰を据えて話そうじゃないか」


ティオバルトは居間へと案内され、出された紅茶に口を付けた。


「それで、話ってのは? 領主からは重大な事だって聞いたけど」


「貴方程の方なら耳に入っているかと存じます。先のバスタ村の件でお話がありまして」


「ほう、なんか奇怪な事件があったって聞いたな」


「実はその事件は巷で囁かれている邪教徒、それが関わっているのです」


察したのか、アウルは興味深げに眉根を動かした。


「ここの領主から話は聞いているかもしれませんが、私は教会からそれに関する調査の任を頂いています。この任務で私は数多くの人の悪意を垣間見ていました。それに伴い教会の権威の影で貧しい人達がどのように虐げられているか。その様な光景を見続けることによって教会の清らかな態度に対して不審な見方をするようにもなりましたが。失礼、話がそれましたね。そのバスタ村の件ですが明らかに人ならざる力を思わせる光景を目にしました」


「何を見たんだ?」


「村には神父が一人いたんです。その神父がある時突然姿をくらまし、発見した時には二目と見れない姿形へと変わり果てていたのです」


今でも思い浮かぶ。手足がそぎ落とされたかのように無くなり、胴体が異様に膨れ上がった神父の姿。今ではティオバルトが時々見る悪夢にも登場している。


「それを目にしてある考えがよぎりました。イブリム、あの伝説の悪魔の存在を」


古くから語られている悪魔。その強大な力をもって人間に宣戦布告し、多くの命を奪い、世界を恐怖に染め上げたという。古い与太話だと言う者もいれば、今もその存在を恐れてひたすら神に祈りを捧げ続ける者もいるという。


「アルハザーダルさん。教会の関係者から聞いたのですが、貴方は何やらその悪魔について知っている事があるそうですね。できるのでしたらその事について教えていただけないでしょうか」


アウルは少し考え込むと、ゆっくりと口を開いた。


「まあ、何も知らないということは無い。だが、誰かれ構わず教える気も無いんでね」


「そうですか、それは残念です」


「まあ、そう焦るな。つかぬ事を伺うが、お前さん施設の出なんだって?」


唐突な質問に戸惑ったが、ティオバルトは答えた。


「ミュラオン孤児院の出です。物心ついた時から親はいなくて、そこで育ちました。」


「やはりか…」


「それが何か?」


アウルは一瞬しまった、という顔をしたが直ぐに平静を装った。


「何でもない。それよりも、だ。気が変わったよ。お前になら俺の知っている事を話そうじゃないか」


「本当ですか⁉」


「ただし、だ」


指を立て、アウルはいたずらっぽく笑った。


「その前に人を探してもらいたい。うちの同居人でね。ここしばらく姿が見えないんだ」


大変な事ではないか。この街の最近の状況は聞いている。だというのに目の前の男は妙に落ち着いている。


「お前が心配する様な事にはなっていないはずだよ。たまにあるんだこういう事。しかしまあ、もう一人の同居人が不安がっていてね。この機会にそっちに解決してもらおうってね」


まあ、職業柄人探しには不慣れではない。それにここまでの道中で彼の近親者に関する噂が耳に入らなかった事でも、あまり表沙汰にはしたくは無いのかもしれない。新しい情報ももらえるならばと承諾し、渡された似顔絵と共にティオバルトは工房を後にした。




学び舎での一日が終わり、ミラ達が帰宅して数時間が経った。


街の夜は更け、人々は静かに眠りへと向かう頃、人気の無い道を歩く影があった。


アンナだった。母親に夜風に当たってくると告げるとすぐさま家を飛び出し、あてどなく彷徨っていた。


最近の習慣だ。ジーナがいなくなってからというものよく出歩くようになった。ふと、今外に出ればジーナに会えるのではないかと思うと居ても立っても居られずにこうして街のあちこちへと衛兵に見つからぬよう足を向かわせている。


歩きながら頭に浮かぶのは昼のことであった。クラリスが率先してパーティーの計画を進め、ミラとジャックは思うままにイベントを提案していたあのひと時。自分を気遣って明るい話題を提供しているのはよく分かるし、それがとてもありがたかった。


「それなのに私ったらこんな事をしてて駄目ね。家で大人しく知らせを待っていた方が賢明なのは分かっているのに」


今日限りで止めよう。そう考えてふと道端の建物に目をやった。どこをどう歩いたのか。街の外れまで来ていたようだ。寂れた、人気の無い道にひっそりと古びた工房が目に留まった。人がいないのか屋根や壁がぼろぼろで、崩壊の恐れすらあるのではと思わせる程の佇まいをしている。


しばらく眺めていると、ふいに玄関の扉がゆっくりと開いた。誰かいたのかと思った瞬間、思わず目を見張った。扉の奥には赤毛のやや痩せ気味の、それでいてアンナと年の近い風貌をしている。


アンナはその少女に見覚えがあった。


「ジーナ! ジーナなの⁉」


どうしてこんな所に、いやそれよりもああ、やっと、遂に会えたのだ。不信感よりも喜びでいっぱいで思わず廃工房の中に飛び込んだ。


入ってみると何故かジーナの姿はなかった。周りを見渡すと廊下の奥にジーナが立っていた。


誘われるかのようにアンナの足はジーナのいる方へと進んだ。背後で扉の閉まる音が聞こえた様な気もするが、気にしている場合ではない。


追いかけっこはしばらく続いた。アンナは夢中で気づかなかったが、それは異常な状況だった。建物の外観を見れば小さな廃工房であることは誰の目にも明らかなのに、まるで館の様な、はたまた迷宮の様に長い距離を歩いていたのである。


廊下に現れたり消えたりしたジーナの姿はとある部屋の中へと入っていった。アンナも続いてその部屋に入ることに躊躇いはなかった。


何らかの研究室だろうか。部屋には幾つもの机が並び、古びた器具が所狭しと置かれていた。


アンナは机の下をつぶさに見周りながら、壁に掛けられた鏡の前に出た。そこを見るとなんと鏡の中の自分の背後にジーナが立っているではないか。慌てて後ろを振り向くがそこには誰もいなかった。混乱しながらもアンナは再び鏡を見やると相変わらずジーナは鏡の中に存在した。無意識の内に手を伸ばすとジーナも手を伸ばし、お互いの手が鏡の表面にて触れ合った。


すると、ありえない事が起こった。鏡の中のジーナの手が自分のいる現実世界へと現れてアンナの手を掴んだのである。


驚いたアンナとは裏腹にジーナは今まで見たこともない不気味は笑みを浮かべた。くぐもった笑い声は段々と大きくなり、合わせるかのように口の端から血が零れ始めた。


どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえる。


恐怖と混乱の中、アンナは必至に手を振りほどこうとしたが、その力強さにはかなわなかった。何故、と手を見ると何時しかジーナの手ではなく、血色の悪いごつごつした男の手に握られていた。


鏡にはジーナの姿は無く、代わりに薄汚れた作業着を身に纏い、背中に何やら大きな器具を背負い、手と同じく血色の悪い顔の半分は布で覆われていた。


悲鳴が辺りにこだまする。アンナは鏡の中へと引きずり込まれ、そのまま姿を消した。




アンナが行方をくらませた。その事でミラの周りはパニックになった。母一人子一人であったためアンナの母親は半狂乱となり、それによって近所の人が交代でアンナの家を訪れては残された母親の面倒をみるようになった。


クラリスはいつもの明るさが鳴りを潜め、ジャックも気まずそうに付き添っていた。


ミラはいつか彼女達に夢の事を話そうと考えていたが、この様な状況ではできなかった。最近は専らアンナの身を案じる話が幅を利かせ、重苦しい雰囲気が場を支配していた。

「アンナ大丈夫かな?大丈夫だよね?きっとそう、きっとそうよ」


クラリスのこの言葉は半ば口癖になりつつある。ミラとジャックは彼女を慰めるのが日常となっていた。


「あまり心配してもしょうがないぜ。ひょっとしたらアンナの奴、男と一緒にどこかへ行っちまったかもな」


「無責任な事言わないで!あの子に限ってそんな事ないでしょ!」


「悪かったよクラリス。俺はちょっと場を明るくしようと…」


ミラはクラリスの肩にそっと手をやった。


「ジャックの言うことは最低だけど、気持ちはわかってやって。最近のあなたは見てて心配よ。私も不安で胸がいっぱいだけどそれに呑まれない様に耐えているわ。だから、クラリスももう少し頑張りましょ。きっと無事に帰ってくるわ」


「そうだぜ。ミラの言う通りだ。お詫びの印にそこの通りで食べ物でも買ってくるよ。」


そう言ってジャックは出かけて行った。今日は休日、落ち込むクラリスの家に集まって一日を過ごしていた。


しかし、外は暗くなりつつある。用心して、とミラ達は声を掛けるとジャックは手を振って出かけて行った。


「なんだか心配だわ…」


クラリスは不安げにつぶやいた。




ジャックは暗くなり始めた大通りをあてどなく歩いていた。クラリスとは付き合ってはいるが、彼はそこまで誠実ではなかった。基本的に女の子と遊ぶ事が大好きで、クラリスは気づいていないが、他に2、3人付き合っている子がいる。


さりとて気の回らない男ではなく、相手が怒って関係を打ち切る事がないよう、気遣いは欠かさなかった。


しかし、最近のクラリスの様子は思いやられる。慰める自分まで気を病んでしまいそうだ。


そうだ、とジャックはふと思って通りを外れて、街の外側へと足を向けることにした。最近の街には自粛の波が来ており、店を開ける飲食店は少なかった。少しだけ住宅街の方に足を向けてもいいだろう。そこで可愛い子でも引っ掛けようか。クラリスには店がなかなか見つからなかったとでも言えばいい。


いざ決心して街を彷徨ったが、肝心の女の子は見つからない。冷静に考えれば当たり前だ。この状況下が出歩く子はそうそういないだろう。一日クラリスに付き添っていたことで頭がどうにかしていたらしい。最初の目的を達成しようと、思ったその時、果たして目当てに出会った。


どこをどう歩いたのか、いつの間にやら人気の無い寂れた道に出たらしい。視線の先にはぼろぼろの廃工房があり、そこから女の笑い声が聞こえてくる。


不思議に思っていると、玄関の扉が静かに開き、中に女が立っていた。整った顔立ちに豊満な肢体に露出の多い恰好をしている。見とれていると、女は笑みを浮かべながら手招きをしていた。誘われるようにジャックは中に入っていった。


不思議な空間だった。どこまで続く暗い廊下には女の笑い声があり、先程の女は手招きをしながら先を歩いて行く。こちらが速度を速めると向こうも速度が上がり、長いイタチごっこが続いた。


先を行く女がとある部屋の中に入っていくの見て取れたので、ジャックも続いてその部屋に入っていった。


信じられない光景が広がっていた。立ち込める異臭の中、汚れた部屋の天井にはあちこちフックが設けられ、先端には若い男女と思われる死体達が吊り下げられていた。


慌てて部屋を出ようと背後を振り返るが、開け放ったはずの扉が何故か閉まっている。取っ手に触れて外に出ようするが、びくともしない。


赤ん坊の泣き声が聞こえる。


しばらく扉と格闘していると、後ろから湯を沸かしているかの様にブクブクと音がしている。振り向くと死体から流れている血の溜りが泡立ち、何かが現れるかのように盛り上がっていく。


半狂乱になりながら必死に扉を開けようとするが、相変わらずだった。


何時しか泡立つ音が止んでいる。その事に気づいた時、何者かが肩を掴む感触がした。心臓が破裂しそうな思いでゆっくりと振り向くと、そこには異形の大男が立っていた。片手でジャックを捕らえ、もう片方の手で背中の物体をゆっくりと引き抜いた。


それは汚れた、普通の人間では扱えぬような大きな火ばさみだった。男はそれを確かな力で握りしめると、火ばさみを振り上げ、ジャックの胴へと叩きつけた。


うずくまり、床に膝を付けると、男は容赦なく攻撃を続けた。ジャックには耐えられなかった。


意識を失い、横たわるジャック。男はそれをくぐもった笑い声と共に見ていた。

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