3:起きた

 翌朝。

 起きて着替えて、あまり期待せずにリビングをのぞくと、男は昨夜とほとんど変わらない状態で眠っていた。表情が幾分穏やかになっており、大型犬みたいだなと思う。部屋の中も荒らされたような様子はない。私は軽くため息をつくと、開けっ放しの洗面所に入り顔を洗い歯を磨く。

 洗面所内のボイラー上に吊るされた服は、全て完全に乾いていた。集中暖房とかの都合でわが家はめちゃくちゃに乾燥するので、洗濯物を外干ししたことがない。いいジーンズでも秋冬なら一晩でかんかんに乾いてしまう。

 かなり傷んで色褪せた男物のジーンズは天井近くのポールから吊っても丈が長く、リビングで寝ている男の脚の長さを窺わせた。


 さて、ここからである。

 リビングに戻って、ソファから三歩離れたリーチの届かない位置に立ち、

「生きてますー?」

と声をかける。

 男は案外すぐに目を開いた。開いて、次の瞬間跳ね起きて身体を引こうとし、ソファのもたれにはばまれて、そこに張り付いた形で私を見上げた。


 何をそんなに怯えているんだろう。

 なんて表情かおをするんだろう。


 恐怖、怯え、不安、それを悟られまいとして絞り出したような虚無、けれども警戒ではち切れんばかりの眼。

 顔にも手にも残る傷と内出血の痕。

 顔かたちがあまりにもよく整っているばかりに、その顔にこんな恐れをたたえられるとうっかり自分がとても強く何もかも許された人間になったような錯覚を起こし、ひどくぎゃく的な気分になりそうだ。この男を拘束し、調教して征服し、服従させたらどんな気持ちがするだろう?

 要するに、いじめたくなるようないい男だった。

 ただ、私は一応理性のある大人であらゆる人間には人権があるということを信じているので、そういうことはしない。私に何かしたわけでもない怪我人を、さらに痛め付ける趣味もないし。


「生きてるね。骨折れたり内臓やられたりしてる? してない?」


 男は少し自分の身体を手で触れながら、小さく首を横に振った。


「じゃ病院はいいか。ごはんは? 朝だから私は自分の朝食作るんだけど食べる?」


 少し間を置いて今度は、首を縦に振る。声が出ないのか、こいつは。昨夜は何か言っただろうに。


「アレルギーは」


 首を横に振った。ないらしい。では、何が出ても文句は言わないでもらう。

 キッチンに入るとお湯を沸かし、冷凍してあった食パンをトースターに放り込んでからバターとジャムを出し、粉末のコーンクリームスープをマグカップに入れて熱湯を注いだ。何となくベーコンエッグもつけた。

 もうできるからこっちに来て、と呼ぶ時、なんだか本当に犬を呼ぶみたいだな、と思った。

 いただきますも言わずに食べ始めたのは余程お腹が空いていたのかもしれない。それでも、顔のいい男はお行儀もよかった。食べ方が綺麗である。

 昨夜洗い髪のまま眠ったせいで、長い髪には色々な寝癖がついていた。あからさまにうねうねのボサボサだが、顔のよさが全てを凌駕しており本当に凄いな、と思う。


「それで」


 自分のベーコンエッグの最後の一口を飲み込んだ後、私はようやく訊いた。

 目が合う。合いたくない。ぎゅっと引き込まれそうになってしまう。心が。


「……誰? なんで外に落ちてた? 事故? 事件? 家出?」


 フォークを持った男の左手がすっと下がる。


「俺は、」


 ああ、声も聞きたくないな、と思った。低く広がるように心地よく耳から侵入してきてたちまちこちらの脳を掴む、魔力のある声だ。

 人を惹き付ける声というものは実際にあり、接客や営業、講師などをするのに非常に大きなメリットをもたらす天性のひとつである。気持ちのいい声はそれだけで快を与え、大抵の場合、その声でつむがれる言葉の無茶苦茶さを覆い隠してしまう。


「……あるじの所から逃げてきました。

 主は俺を生かしてくれるけど、監禁して俺から自由を奪い、毎日殴り、餓えさせる。言うなりになって何でも言うことを聞き、忠誠を誓い、床に頭をこすりつけて許しを乞うまで。

 あの人は、俺が餓えて死ぬ寸前になって苦しみながら、許してくれ、と懇願するのが好きなんです」


「え。酒?」


「いえ。主のです。血液です」


 若干同情に振れかけていたメーターの針が一気に危険域に振り切れるのを感じた。

 何て?

 血?


「俺は吸血鬼で、中でも魂が半分しかないタイプだから、その半分を埋める主を見つけて主の血を貰わないと生きていられません。そして、主を定めると、その人間にはあまり逆らえなくなるので」


 まとめると、危機感に欠ける私は、顔がいいだけで頭のおかしい男を拾ってしまった、ということらしかった。

 これは――どうやって円満に出ていっていただき、どうやって私のことを忘れていただけばいいのだろうか。

 現状、『トーストに乗せたバターが溶けて美味い』と『目の前にいる男の頭がおかしい』が同時に成立しており、これぞ世界だなという感じがした。


「信じていないんですよね?」


「正直そうかも。でもとにかくあなたはそう思っているんだよね?」


「ああ、はい」


「で、これからどうしたいの?」


「新しい主を見つけて、惟佐子いさこさんから――前の主から自由になりたいです」


「どうやって見つけるの?」


「それは……俺が選ぶんですけど」


「じゃ今の主は選び損なったってことなの」


 めちゃくちゃ辛そうな顔をされてしまった。

 罪悪感の格納庫が撃ち抜かれて中身が大放出される気分だ。こいつが本当に犬だったらわしゃわしゃに撫でてやりたい。本当にこの男はヤバい。これが素でもヤバいし演技ならなおさらヤバい。


「……あの時は、長いあいだ主が見つけられず、血が飲めなくて、本当に死ぬ寸前まで餓えていて。だから選択の余地がなかったんです」


「え、会ってすぐ血ぃ飲ませてって言って飲ませてくれるもん?」


「というか、倒れていた俺を家に連れ帰ってくれて、最初はすごく親切にしてくれて……今と同じように打ち明けたら、私の飼い犬になるなら血をあげる、って」


 飼い犬ときたよ。

 確かにこんな男前の飼い犬、いいかもしれないけどさ。

 いやいや、そういう次元の話じゃないんだよ、何を信じかけてるんだ私は。そもそも血を飲むとか吸血鬼とか言ってる時点で完全に病院沙汰の話でしょうが。え、どうすんだこれ。家族でもない他人の私がどうするとこの男を医療に繋いで手放せるんだろう?

 むしろ一発殴ってくれれば警察呼べるやつ? でも少なくとも成人男性だから一発でも貰えばこっちが危険だな。


「あの、会ったばかりで申し訳ないんですが、俺の主になって血を飲ませていただけませんか」



 なあ、絶対ヤバいって。






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