2:拾った

 人間は弱い生き物である。

 思考が常にぐらぐらしているし、すぐに影響される。


 そう、たとえば、久し振りに男に手首を掴まれたことや、その手が大きくて薄ら冷たい事実とか。

 どしゃ降りの隙間を縫うように届いた「助けて」の声の低さやかすれとか。


 掴む手の、あまり強くない力、打ちひしがれて虚脱したような声と表情、いま川から水揚げされたみたいにずぶ濡れの男。

 私はバカなので、バカ正直に訊いてしまった。


「助けてって、誰から」


 するとそいつは、ゆっくりと、低く掠れた声でこう答えたのだ。


 俺を飼ってた人――と。







 警察か救急車を呼んで引き渡したら少し感謝されてそれでお別れして帰宅し「今日はとんだことだった」などと思いながらシャワーを浴びて雨に濡れた身体を温め、「あの人大丈夫だといいけどな~」くらいのことを思いつつインスタントラーメンを煮て卵を割り入れ、出来上がったものを食べながらテレビを見て、飽きたらベッドに入りスマホをいじりながら寝落ちする。

 そのようなごくごく平凡な行動を取るべきだ、と分かっていたはずなのだが、人間というものは、いや主語が大きかったな、私は、思いのほか頭がどうかしているらしかった。


 家に連れ帰ったずぶ濡れの男をバスルームに追い込んでから、ずいぶん前に元カレが起きっぱなしにしていった着替えをクローゼットの奥底から掘り出し、とりあえずそれを着せて(なんだか全く長さが足りなかったが)、熱いコーヒーを一杯与えた。そうしておいて、びしょ濡れの服をまとめて洗濯機にぶち込み乾燥機まで回しているうちに男はソファで完全に寝落ちていた。どうしようもないので毛布をかけて目が覚めるまで放っておくことにする。

 寝顔が整い過ぎていて三分くらい眺めてしまったことはこの際く。

 顔が小さくて、少し痩せすぎているようなあごのラインが綺麗で、まつが濃くて、全体にたるみがなく、鼻も唇もブランドもののような迫力を含んでバランスがいい。女のようにきれいというのではなく、きちんと大人の男の顔をしている。しょうひげが伸びかけていて、真っ黒な髪も少し伸びすぎかもしれない。私が子供の頃のキムタクくらいの長髪になりつつある感じだ。

 手足の長い身体はいかにも脂肪が少ない感じで、雨の路上で見た際よりも大きく見える。骨張った手。長い指。爪が痛んでいる。

 そして、身体のあちこちに打ち身や引っ掻き傷があった。特に、左手首には何かきつく縛られていたような赤い傷跡が痛々しい。

 また、洗濯を始める前から分かっていたのだが、この男は裸足で外にいた。そのため私は泥だらけになった廊下を拭き掃除する羽目になったのだが、その泥の中に血が混じっていることにも気が付いていた。

 一体どこから、どうしてこの雨の中を裸足で逃げてくるようなことになったのだろう。案の定、足の裏は傷だらけで、仕方がないからティッシュに消毒液をとってぺたぺた拭いてやる。熟睡しているらしく、全く反応はない。

 でかい足だな、と思った。男の足ってこんな風だっけ。これだと二十八センチくらいあるかな。ああ、元カレの足と比べて指が長いんだな。


 言ってる場合かよ。


 私は薄く血の沁みたティッシュを持ったままため息をついた。

 こちとらだって、三十を越したいい年の女の独り暮らしなのである。しかも今日は誕生日だったのだ、すっかり忘れていた。

 その夜に、犬猫みたいに道に落ちてた男拾ってくるってお前。いくらなんでもお前、バカではないのか。

 大体、人間は犬猫のように捨てられていることは滅多にないはずだ。大人ならなおさらないはずだ。

 なのに、この状況は、一体何だ。何故こんなことをした。


 顔がよすぎてびっくりしたから、以外の回答が浮かばない自分にもびっくりした。


 多分、こういう訳の分からない油断から殺されて死んだりするのだろうな、と思う。

 溜め息しか出ない。

 しかも、どうやらこいつはどこかから逃げてきている。面倒くさい気配しかしない。


 何もかもダルくなった私は、男が眠っているリビングに金目のものがないことを確認すると戸締まりをし、ホームセキュリティが正常に動作していることを確認すると非常通報装置を枕元に置いて自室で就寝した。

 すでに日付が変わる時刻だ。男が目を覚ますまで待ってやる気はなかった。こっちはこっちで仕事の疲労がたまっている。




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