愛の悲しみ

 女はテーブルの酒瓶を指さして、

「お酒、やめなよ。まだ未成年でしょ。あと半年ぐらい我慢しなよ」

「あと半年もしたらいいんだから、今だっていいだろう。それに、おれはきっと元服したら、酒なんかやめるよ」

「どうして?」

「酒なんて、大人ぶって飲むのが楽しいんだ」

「たしかに、子供だもんね」

「おい、お前みたいにおばけの怖いやつに言われたくないぞ」

「はあ。ジェットコースターが怖いひとに言われてもねえ」

「ちょうどいい。ホラー映画でも一緒に観よう」

「え、いやだよ。わたし帰るから」

「ここまでわざわざ来たんだ。それに三月といえど外はまだ寒い。酒でも飲んで、体をあっためていくといい」

 そう言ってぐいと手を引いて、無理矢理カーペットに坐らせる。「ちょっと待ってて」男は部屋を薄暗くして、適当なカクテルをつくってやった。ココナッツリキュールを牛乳で割るのが彼の一番のお気に入りだった。

「甘いから、きっと君でも飲める」

「ありがと」

 女は小さくグラスに口付けたわりに、大きく、ごくん、と音を立てて嚥下した。やや俯き気味に、震える両の手でグラスを置こうとすると、縁から白い液が垂れてカーペットに染みができた。すぐにでも拭き取ろうと慌てた肩を、男は掴み、黙って拭いてやる。適当に折り畳んで棄てたあと、やおら彼女の隣に腰を下ろして、指先をわざとらしく触れさせる。信じられないくらい冷たい手だ、と微笑んで、顔を覗きこんだ。


 映画が始まってからだいたい三十分が過ぎた。最初のうちは怯えて強張っていた女の体も、だんだんと温まり、弛緩してきた。どこか息も重たくなり、こちらに小さく寄りかかってきていた。

「暑くはない?」

「ちょっと暑いかも」

「じゃあ暖房を消そうか」

 男は立ち上がろうとして、しかし尻餅をついた。裾をひしと掴まれていたのだ。

「ダメだよ」

「なにが」

「どこかに行っちゃ、ダメだよ」

「暑いんだろう」

「テレビ消してよ、これあんまり面白くないし。それとあと、ちょっとそっち向いてて」

 立ち膝になってテレビを消し、そのままベッドのほうを向くと、窓の向こうには色の褪せた三日月が懸かっていた。

「まだ三月なのに寒い、そうは言ったが、もう冬みたく、悲しいぐらいに、眩しいというわけじゃあないんだね。ずいぶんと、暗いよ」

「部屋が、まだ明るいからじゃない?」

 そう言って、彼女は部屋の灯をすべて落とした。光の残滓を瞼の裏に浮かばせながら、ふたたび窓の外に目を向けると、月は煌々と空に懸かっているようだった。

「君の言うとおりだ」

 と、振り返った先で、薄着の彼女がこちらを見下ろしていた。「そっち向いてって、言ったのに」と、そのまま男のほうに倒れ掛かる。息はひどく荒く、耳が真っ赤で、それでもどこか寒そうに体を震わしている。か細くて、湿った指先は服の下に滑り込み、そのまま素肌を触れるか触れないかというぐらいに、わき腹や鎖骨のあたりに触れてきた。そして片方だけ引き抜くと、おもむろに首筋を撫でまわしてから、鋭く噛みついてきた。それをしながら彼女は肩や腕に爪を立てて、その沈み込んだ皮膚の凹凸をなんども嬉しそうに、それは嬉しそうに撫でまわした。

「痛いんだけど」

「痛くしてるからね」

「怒ってるみたいだ」

「怒ってるからね」

 暗闇に、莞爾と笑んで浮き出た犬歯が血色にくすんでいる。酒が回って力の抜けた男にはどうすることもできないぐらいの強い力で四肢を押さえつけながら、ただひたすらに貪ることを繰り返した。

「怒らせたようなら悪かったって。べつに、そういうつもりじゃなかったんだ」

「そう? 昔っから、わたしのこと怒らせて楽しんでたくせに」

「覚えてないね」

「おばけが怖いのは、覚えていたくせに?」

 また、噛まれる。

「ひとの悪いところばかりに目が向いてしまうあまり、自分にとって都合の悪いことを覚えていられないのが悪い癖なんだ」

「じゃあ、だいぶ、その目は節穴なんだ」

「というと?」

「わたしがすっごく根に持つタイプなの、知らなかったんだあって。哀れみの目を向けてる」

「それは、おれにとって、別に悪いところじゃない」

「どうして?」

「根に持たれるためには、わざとらしさがあっちゃいけないだろう。だからきっと忘れてるんだ」

 そう言って、男は首を傾けて、彼女のぴんと張った二の腕に歯を突き立てた。


 〇

「クラシックかけてもいい?」

「なんてやつ?」

「【愛の悲しみ】ってやつ」

「なにそれ、知らない。なんか適当な洋楽にしてよ」

「じゃあなにもかけないよ」

「ケチだね。女の子にモテないよ?」

「お前ほどいい加減に接してないよ」

「ひどいねえ、まったく」

「寒くないか。毛布もある」

「ありがと。……ふふ、まるで付き合ってるみたいだね」

「でもきっと、おれたちは、付き合っても上手くはいかなそうだ」

「たしかに。どっちかの好きなものはだいたい、嫌いなものか、興味のないものだもんね。趣味も違えば考え方だって違う。歩み寄るにも、きっとつらいことばっかりだろうね」

「だけど、これはおれもお前も、同じだと思う。――べつに、歩み寄らなくったっていいって」

「いい加減だね」

「いい塩梅である、という意味だろう? いいじゃないか、いい加減で。相手を責めなくってもいい、責められなくってもいい。心配をしてもしなくても、いい。好きでも好きじゃなくてもいい。なんの関心ももたなくっていい、誰と寝てようが寝られてようが、苦しまなくっても苦しませなくってもいい。これだけ挙げて、まだ無理に付き合おうとする理由なんて、浮かばない」

「まあ、そうだけど。どうしてそんなにむきになってるの」

「無理に付き合って、いい思い出なんてひとつもないからね。せいぜい、あとになって、思い出がひとりでに美化されてるだけだ。友達になるのに、向き不向きがあるのに、交際に向き不向きがないと思う方が、ずいぶんと無理がある」

「ふうん」

「なんだよ」

「べつに。もしもどっちかに恋人ができたら、どうするんだろうなあって」

「いい加減な関係なんだ。もしもその付き合いがいい加減なものだったら、なにをしたっていいじゃないか」

「真剣なものだったら?」

「皆目、見当もつかないね。というよりも、――いまは考えたくない」

「いい加減だね」

「いい加減は、なにも悪いことじゃない。ずっと、真面目だなんて疲れちゃうだろう」

「じゃあ、なにも、いまは考えない」

「ああ、それがいい。悪いことも、恥ずかしいことも、つらいことも、楽しいことも、みんなみんな、ただ、感じていればいい。傘もささないで、雨をただ、見上げるみたいにね」

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ひときず 羽衣石ゐお @tomoyo1567

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