きっかけの魔力

 最近「きっかけ」という言葉の重みを感じます。

 私が運動部に入ったのも、高専という存在を知れたのも、なんらかの「きっかけ」です。しかし、そこで痩せたのは、進学できたのは自分のおかげです。

 だとしたら、「きっかけ」とはもの凄く高価なものだと言えるでしょう。まずはご飯でも奢ってみては。

 しかしながら、そのきっかけが強力であればあるほどに、お互いの心のうちとは、全くに打ち解けるものでありましょうか。

 楽しいことを共有するということは大事だ、恋人とはその楽しいことをどれだけ共有できるかで決めるのも建設的でありましょうか。

 しかし私はこうも思ってしまいます。

「余程きっぱりとした境界の存在しえない場合は、恋人として定めた人間の特別感が薄れる」のではないだろうか、と。

 それは、わかりかねます。確かに自分の望む享楽の全て所有している人間とは、全くに輝かしいものかも知れません。

 ですが、それらの所有率と、人間性が比例するなどとは聞いたことがありません。また、どのような人間性を求めるのかは個々の価値観に委ねられるわけで――私はこう口にせねばなりません。

「享楽に長けた人間とは、素晴らしいものであるが、当人の人間性が自分の求めるものであるかどうかは別問題である」と。

 わかりかねます、享楽がたくさんあれば、人間性でマイナスの点がどれだけ見つかろうとも、総和がプラスに傾けばなんら問題はないという大変強かな人間の存在も耳にします。

 だが、私はそうではありませんでした。

 私は、その人間と居ることが享楽であると思うことがあります。……否、この言い方はいまいちかもしれないので、言いなおすと「碌に共有する趣味もなければ、アバンギャルドな享楽に浸ったわけでもなく、ただどこか往来を手を結ってねり歩いたり、どこか木陰の涼やかな芝生の上に腰を下ろしてなにひとつ言葉にせずとも楽しい……」というなんとも皆さんからは眉唾物と揶揄されることが想定されるような話であります。また、この点に「彼女が楽しいと思っているかどうかは別」という指摘があるとすれば、その通りであります。確かに私は享楽に長けていませんから。

 であっても「私は」楽しい。

 碌な「きっかけ」というものがなくても、通ずる仲というものにひとたび巡り合ってしまったのですから。


 だから、いよいよ私も享楽を手にしていかなければなりません。

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